アバラスド旅行記

花苑

物語の始まり

 少女はふうっと大きく息を吐いて空を見上げた。乾いた地面に大粒の汗がぼたりと落ちる。背後では入道雲が洗いざらしのシャツのように白く輝いていた。少女は一休みしようと日陰を探した。しかし、辺りにはそんなものは見当たらない。――というよりも、ここにはほとんど何もない。木を伐採して整えられ、それでいて何年も使われずに野ざらしにされ、結果、雑草の楽園と成り果てた土地ばかりが何区画も何区画も続いている。少女の他には誰もいない。

 少女は道の先を見つめると、再び歩き始めた。何が少女をそんなに急き立てるのだろう? 少女の歩む道の先にあるものと言えば、雑草に埋もれるように建つ古い家屋ぐらいしかない。

 少女は再び歩みを止めた。まさに、その古い家屋の前で。緑青がこびりつき、骨董品のようになっているドアノブをひねる。鍵はかかっていなかった。朽ちた木の臭いが鼻をつく。少女はおそるおそる中を覗いた。音がでないように少女が神経を尖らせているのに、無神経にドアが甲高い悲鳴をあげる。身体を家の中に滑り込ませると、少女はじっと辺りの様子を伺った。侵入者を責める者はいないようだ。少女は家屋の奥に進んだ。薄暗くてよく見えないが、足元には埃が積もり、歩く度に舞い上がっているのがわかる。玄関から一番すぐそばにあったドアノブを開いた。ゆっくりドアを開くと、色とりどりの光が目に飛び込んできた。

 色ガラスだった。

 奥にある部屋の大きな色ガラスに施された色とりどりの薔薇が、食堂机の上で咲いていた。食堂机は美術館でしか見たことのないような繊細な木の彫刻が凝らされていた。窓際には暖炉もあった。特注品なのだろうか、今まで見たこともない複雑で奇怪な模様が暖炉の周りでとぐろを巻いていた。

 暖炉の脇には写真が飾ってある。やはり額縁には精巧な彫刻の装飾がされていた。有名な福祉団体の名前と「家族の写真」とタイトルが添えられている。写っているのは、国籍も年代も異なると思われる五人の男女だ。おそらく血は繋がっていないだろう。

 少女は箪笥の中段に取り付けられた三つの小引き出しを開けた。すると、中にはやけに分厚い皮の表紙の手帳が入っていた。少女は手帳を手に取ると、色ガラスの光が射し込む食堂机に置いた。少女が手帳の項を繰ると、表紙の皮のくたびれ方からは想像もつかないほど真っ白な薄い紙が現れた。万年筆の深い夜のような青いインクはまだ鮮明だ。手帳には日付とその日に居た場所、起きたできごと、そうしたことが延々と記されていた。

 地名がたびたび変わるところを見ると、誰かの旅行記であるようだった。

 少女はページを繰った。いつまで経っても顔をあげない少女にしびれを切らし、色ガラスの薔薇たちはそろりそろりと部屋を出ようとしていた。

「そこに居るのは誰だい?」

 しわがれた老婆の声に少女は振り返った。しかし、少女の表情に悪びれたところはなく、むしろほとばしる好奇心で輝いていた。

「これ、おばあさんが書いたの!?」

 少女の問いに老婆は黙って頷いた。

「私もこんな場所に行ってみたい!」

 老婆はため息をつくように力なく笑った。

「だめだ。あんたの家族が心配するだろうよ」

 少女は頬を膨らませた。

「そうかなぁ。うちのお父さんもお母さんもこういうの『理解』はあると思うよ。いつも『新しいもの・珍しいもの・心のこもったものを見なさい』ってうるさいぐらいだもん」

 老婆は目を細めて忌まわしいものでも見るように少女を睨むと、踵を返そうとした。その背中に向けて、少女は叫んだ。

「私、決めた! 大人になったら、おばあさんみたいに、世界中を旅する人になる!」

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