遠い滝壺を見下ろして

 鮮やかな明るい緑が空を覆う山の中、耳をすませば水の落ちる音が激しく、鳴り響くように聞こえます。

 木々を抜けると突然直角に切り取られたような崖があって、そこにはものすごい音を立てる滝が出来ています。小さく見える滝壺と、その奥に広がる大地や街が、この崖の高さを表していました。


 その景色を、一人の女性が眺めています。立っている場所は崖のギリギリ、もし体勢を崩してしまえば、そのまま水と一緒に落ちていってしまうような、そんな位置です。


 黒く長い髪の、まだ幼げな少女でした。彼女の髪と対比するような白い布を羽織り、手には豪華な飾り付けがされた、実用性を度外視しているナイフをぎゅっと握っています。


 彼女の体は震えていて、目には怯えの色を宿しています。それでもここから離れるつもりは無い様子で、彼女は意を決したように目をぎゅっと瞑ると、身体を前のめりにし――、


「こんなに崖の近くに立っていると、危ないですよ」


 その身体が、ぐっと後ろから引っ張られました。意識していなかった方向からの力に、彼女はその場で尻もちをついてしまいます。


 何が起こったのかわからず、彼女は困惑したまま自分を引っ張った力の方を向きました。


 ――そこに、少女は立っていました。肌を隠すオレンジ色の長袖に、丈夫そうな靴とズボン。木漏れ日を受ける明るい銀色のツインテールと吸い込まれそうなほど深く黒い瞳は、幻想的とでも言うような印象を見た女性に与えました。


「この辺りは水滴によって滑りやすいですし……それに、人は綺麗な景色に吸い込まれるものですから」


 なので、眺める際はもう少し後ろからにしましょう。

 銀色の髪の少女はふわりとした足取りで女性の横に立つと、優しげな笑みを浮かべてそう話しかけました。


 女性はぽかんとした様子で銀髪の少女を見つめたまま固まっています。やや間があって、ハッとした様子で女性は声を出しました。


「あの、えっと……もしかしてあなた、ここに住むドラゴンさん……?」

「ああ、先に自己紹介、ですね。私はハレイナと申します。残念ながら、見ての通り普通の人間です」


 女性の質問に、ハレイナと名乗る少女は悪戯っぽい笑みを浮かべて答えます。

 そのまま静かに一歩前に出ると、崖からの風景を眺めながら言いました。


「ここには……観光と言えばいいんですかね? 綺麗な風景が見れると聞いて来たんです」


 噂通りの素敵な景色ですね。

 振り返りながらそんなことを言うハレイナに、女性は少し戸惑いながらも笑顔を返します。そして小さく一言、綺麗でしょ? ここにはドラゴンさんも住んでるって言われるくらいなんだから。と、若干の自信を感じさせる声で言いました。


「ドラゴンさん、ですか?」

「うん、そうだよっ! この滝から近く……ほら、あそこに私の住んでる村があって、そこで言い伝えられてるの」

「……その言い伝えは」


 あなたが今さっき、ここから飛び降りようとしていたことと関係がありますか?

 静かな声で、ハレイナがそう問いかけます。落ちようとしてたこと、気づいてたんだ。そんなふうに彼女が返して、ハレイナはゆっくりと頷きながら、


「ごめんなさい、事故かもしれないと思ったので思わず止めてしまいました」


 そう言って頭を下げます。

 それを聞いた彼女は、まさか謝られるとは思わなかった、と。気まずそうに頬を掻きながら零します。

 数秒の間があいて、それを断ち切るようにパンっと手を鳴らしながら、女性は明るい声で気を取り直してと前置きしました。


「その、なんというか……こうしてハレイナさんだっけ? あなたがギリギリ私を止めて、こうして出会ったのも何かの縁だと思うの」


 だから、言い伝えについて気になるなら教えてあげるよ?

 無邪気に女性がそう笑って、ハレイナはそれではお願いしますと答えました。


 それでは、とわざとらしいコホッ、という咳を挟んで、女性はゆっくりとその言い伝えについて話し始めます。


 昔の昔、まだこんな崖が存在しなかった頃。ここら一帯の雰囲気を気に入った一匹のドラゴンが、山を削り取って崖を作り出しました。

 そのドラゴンは、綺麗な水をとても良く好み――また、その綺麗な水を空から降らすことのできる、天候操作の力を持っていたのです。


「……ハレイナさんは、ドラゴンさんとあったことってある?」


 話を突然切って、女性はすっとハレイナに顔を近づけながら聞きました。

 その動きに合わせるように顔を後ろに下げながら、ハレイナは残念ながらと首を横に振りました。


 一度会ってみたいとは思っているんですがね。そのままそんなふうに付け足すと、女性は少しガッカリした様子で話を元に戻しましす。


 そうしてドラゴンさんが降らした雨で、ここにはこんなに巨大な滝が出来上がりました。そしてドラゴンさんは、滝壺の奥深くで満足気に暮らし始めたのです。


 そうして出来上がった水の豊かな土地にやってきたのが、あの村を作り上げた遠い昔のご先祖さまでした。

 ご先祖さま達はドラゴンに言ったのです、あなたの邪魔はしませんから、私たちをここに住まわせてください、と。それに対して、ドラゴンさんはこう告げたらしいです。


 静かに暮らすだけであれば許そう。しかし少しでも私の土地を害すれば、私は瞬く間に雨を止めて水を枯らし……貴様ら全員にこの土地から去るか、若い娘を一人生贄として差し出すか。そのどちらかを選ばせてやろう、と。


「それで、今ああして村が出来上がっているということは、ご先祖さまはその提案を呑んだ見たいだね」

「……そして今、干ばつに近いものに襲われている、と」

「うん、ハレイナさんは理解が早いなぁ」


 数ヶ月前から、あんまり雨が降らなくなっちゃって……それで、取れる作物も減り始めたみたいで。


 一呼吸分間を置いたあと、女性は再び話を始めます。

 取れる作物の量が減ってしまい、このままでは村のみんなが飢え死にしてしまうこと。

 村の人々で話し合って、言い伝え通り誰か一人をドラゴンに生贄として捧げようという話になったこと。


 そして、その生贄として選ばれたのが自分だったということ。


「……どうしたのハレイナさん、少し顔色が悪いけど」


 そこまで話した後一度言葉を切って、女性は気遣うような声で質問をします。

 ハレイナは大丈夫ですと言いたげにその場で手を小さく振ったあと、少し昔を思い出しただけです、と返しながら話を続けるよう促しました。


「……まあ、そういう流れで私が選ばれたの。お父さんは他の人にならないかって交渉しに行ったみたいだけど、村の決定だからって」


 お母さんは、せめて綺麗な姿でいけますようにってこの服を作ってくれたんだ。

 いいながら、彼女は腕を広げて左右に揺れます。まるで、なにか遠いものを見るようにゆらゆらと。


「それで、村の人にこのナイフを持たされて……ドラゴンさんへの捧げものになるために、ここに来たの」

「そして、私に出会ったと」

「うん、流石にここから落ちるのは怖かったから、ちょっと立ち竦んじゃって」


 女性が少し乾いたような笑みを浮かべ、あははと笑いながらそう言います。これで、私の飛び降りようとしていた理由はおしまい。最後にそう付け加えると、彼女は一つ息を吐きました。


 お話、ありがとうございます。

 話を聞き終えたハレイナが頭を下げると、女性は少し驚いた表情。気にしなくていいよと言いたげに手を振ったあと、顔を上げたハレイナの目を見て一瞬なにか考える素振りを見せました。


 彼女が手を下ろして、ぴょんっと跳ねるように前に出ます。ハレイナのことを追い抜いて、崖ギリギリの少し危ない位置へ。


「ねっ、ハレイナさん。あなたは少し不思議な感じだからさ、ちょっと聞きたいことがあって」


 そしてその位置で、空を見上げながら彼女は声を出しました。

 ハレイナは疑問気な表情を浮かべながら彼女の方を見て――、


「……私のお母さんは、知ってたのかな?」


 ここにドラゴンさんなんて居ないってこと。

 彼女が静かにそう言って、ハレイナはそれがどういう意味なのか理解します。

 言葉を飲み込むように目を瞑ったハレイナに対し、彼女はゆっくりと話を始めました。


 私ね、昔親にバレないように、この滝壺に潜ったことがあるんだ。ドラゴンさんに一度会って見たいって……そういう好奇心でさ。


 言葉の後ろを伸ばすように喋る彼女の声は、どこか遠くを見ているようで。

 足を片方ふらふらと揺らしながら、思い出に浸るように言葉を続けます。


 そうやってここの滝を探して、ドラゴンさんが住んでいるようなスペースはどこにもなかったこと。

 好奇心のそのままに、じゃあ何故そんな伝承が生まれたのか調べて、想像したこと。

 そして、幼い自分が出した答えは――村の飢餓を避けるために、住んでいる人を減らす理由として用意されたのではないか。というものだったこと。


 それは、彼女にとってただ想像しただけの仮説に過ぎなくて。

 しかし、可能性としては十分あり得ると思えるものでした。


「お母さんは、私が綺麗なまま飛び降りれるようにってしてくれたけど……それがドラゴンさんの事を信じてたからか、人減らしの為だと知っていてなのか……それは、大きく違うと思うんだっ」


 少なくとも、私にとってそのふたつは違うの。

 彼女は笑顔を崩さずに、しかしどこか物憂げな表情で言いました。その言葉を、最後まで聞いて。ハレイナは静かに手を胸に当てながら、ゆっくりと首を横に振ります。


「私には、残念ながらわかりません」


 その一言に、女性は悲しそうな顔をしながら何か言葉を返そうとしました。

 それを制すようにハレイナは一言、しかしと言葉を置きます。


「あなたがそう思いたい方、それで良いんじゃないでしょうか」


 どこか投げやりな、諦めたような言葉。それを、ハレイナは微笑みと共に話します。女性はその言葉を聞くとしばらくそこで固まって――そして、吹き出すように笑い出しました。口元に手を当てて、なにそれ、なんて言っている彼女をハレイナは声を挟まず眺めていました。


「ありがと、ハレイナさんのおかげでなんかすっきりした」

「……落ちるつもりで?」


 一通り笑った後、すっきりとした表情で感謝を告げる彼女に対して、ハレイナは確認するように言葉を渡します。

 やっぱり止めたいの? そんなふうに彼女が言うと、ハレイナはその場から動かないまま、選択肢は他にもありますから、一応。と、そんなふうに返します。

 いなくなるだけで良いなら、旅を選ぶことも出来ますよ。そんなふうにハレイナが告げて、女性は静かに空を見上げます。


「旅に出たら、何があるかな」

「きっと、色々。綺麗な景色も、嫌な出来事も、きっとたくさんありますね」


 ハレイナは、一歩彼女に近づきます。

 彼女は、ハレイナに一言。素敵だね、と返します。


 でも。

 そう一言。


「……可能性が、あるから。その可能性を考えたら……切り捨てられない程度には、村のみんなが嫌いじゃないんだっ」


 そして、彼女の姿がハレイナの視界から消えました。

 ありがとう、そんな言葉が聞こえた気がして――ハレイナは、何も言わずに背中を向けました。

 水の落ちる音が、どこまでも大きく響いていました。

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