喧嘩をしたよ

 暗闇に沈む森を走る。

 光源魔術の丸い明かりが先をぼんやりと照らしているとは言え、月さえない夜の森だ。

 次第に方向感覚も失われていく。

 不気味な静けさがあった。あれほど夜中に騒がしかった動物や虫さえも、ドラゴンン気配を感じているのか、死んだように沈黙していた。

 シエルと、オレの息遣いだけがまだこの世につながっていることを教えてくれている。


「まいた……のかな?」


 荒い息をしながら、オレは言った。

 一度足を止める。空を見上げても鬱蒼とした黒い木々が広がるばかりだった。


「……わかんない。けど、ねえ、エカルテ――」


 シエルのその先の言葉は、強烈な風によって遮られた。

 羽ばたき音はしなかった。ただ風を切る音が響いたかと思うと、地面が大きく揺れた。

 

「ts zod!」


 木々をなぎ倒しながら、ドラゴンはオレ達の正面に、矢のように地面へと降り立ったのだ。

 衝撃でオレ達は吹き飛ばされそうになるのを、なんとか隔壁を展開して堪えた。


「ドラゴン……」


 ひゅうひゅうと喉が鳴った。シエルの手をギュッと握りしめた。

 そうしないと、立っていることすらできそうにない。

 コウモリのような巨大な黒い羽を広げたその偉容。その咆哮。

 その存在感が、ただただ、恐ろしかった。


 本当に恐ろしい時、人は逃げ出すことすら考えつかないものだと知った。

 諦念じみた死への許容が意外なことに、穏やかに胸に広がっている。

 もしかしたら、それこそがドラゴンの魔力であったのかもしれない。


「zod! zod! zod! 」


 ドラゴンが鎌首をもたげて、オレ達へその赤黒い牙を見せつけるように吠える。

 諦めろ。楽になれ。目を閉じろ。

 本能がそう叫んでいる。だけど、オレの手は、シエルの手を握っている。

 だから、どう這いつくばってでも、諦めるわけには行かなかった。


「待ちなさい、ドラゴン!」


 オレ達の間に黒い影が飛び込んだ。


「カドリー先生!」


 シエルと二人、思わず叫ぶ。

 カドリー先生が杖をかかげ、ドラゴンの前に立ちふさがっていた。


「ドラゴン、話を聞いてください。彼女は卵を盗んでいない!」


「a qwi bodo noze!」


「全てを滅ぼす、ですって……? なんてことを。そんな事をして何の意味があるのです!」


 後は、ドラゴンは言葉にならない叫びを発するのみだった。

 カドリー先生は、意を決したようにもう一歩前に出た。突風のような声にもひるまず、杖を構えて、一度オレ達の方を振り返った。その顔は微笑んでいた。


「シエル・シルフィード。エカルテ・シルフィード。逃げなさい。さほど長くは持ちませんよ」


「先生! 死ぬ気ですか!?」


「先生!」


 オレとシエルに向かって、カドリー先生は吹き出した。

 始めてみたよ、先生が笑う所。


「大丈夫。ちゃんと逃げますから。エカルテ、なんで私が生徒のために死ななきゃいけないんですか。さあ、早く行きなさい!」


「……シエル。行くよ。ここに居ると邪魔になる」


 シエルの手を引いた。シエルは何も言わなかった。

 ただ、きつく唇をかみしめている。まるで何かを我慢している子供のようだと思った。




 暫く森の中を走って、ぽっかり空いた洞窟を見つけた。

 ドラゴンが飛ぶ生き物ならば、見つかりづらいかも知れない。

 体力的にも限界が近づいてきたオレ達は洞窟に逃げ込むことにした。

 体力を温存するために、魔術の明かりも消した。

 二人で、無言で真っ暗な中肩を寄せ合って壁沿いに寄り添って座った。

 ちゃんとシエルの匂いがすること、彼女の体温を感じることに、とても安心する。

 

 正直この先どうしたらいいんだろうって思う。先生はちゃんと逃げられただろうか。

 ドラゴンはシエルを狙っていて、いつまで隠れ続けていればいいのかもわからない。

 でも、絶望はしたくない。

 壁から水が垂れる音がして、シエルがぴくりと反応した。


「シエル、大丈夫?」


「大丈夫。なんか、エカルテが今日は頼もしい」


「いつもと逆だね」


 オレが明るく言うと、「あはは。そんなことないよ」と力なくシエルは笑った。


「わたし、心配されっぱなしだ」


「たまには、ね。オレだって男なんだし。……元だけど」

 

「うん。先生、大丈夫かな」


「逃げるって言ってたから信じるしかないよ」


「うん。そうだね。そうだよね」


 それきり、シエルは黙ってしまって、ぎゅっと手を握ってくる。

 オレも握り返した。彼女の手が、少し震えた。

 いつも頼りになって、オレに優しくしてくれるシエル。

 

 でも、シエルも怖いんだ。

 当たり前だ。彼女だって、14歳の子供なんだから。

 そんな当たり前のことすら、オレは忘れていた。

 ずっと頼り切っていたんだ。


「ねえ、エカルテ」


「なに?」


「わたし、やっぱり戻るよ」


「先生が心配?」


「うん。それに……ドラゴンは、わたしを狙っているんでしょ」


「アルカ族を狙っているみたい」


「なら、わたしが戻れば、全部、終わる、よね」


 彼女の手が解けた。真っ暗闇で、表情は見えない。

 でも、彼女の声はとても痛々しくて、辛いのを我慢する子供みたいに張り詰めていて。

 だからオレは、痛かった。胸がとても痛かったんだ。


「シエル、何言ってるの。冗談はやめてよ」


「冗談じゃ、ないよ。ドラゴンが暴れれば、ヒトが死ぬかもしれない。フリック君もシュシュちゃんも、アンちゃんも、メリアちゃんも、レーネちゃんも! そうなる前に、わたしが戻れば、全部、終わる。わたし、行くよ」


「シエル!」


 彼女が立ち上がる気配があった。ぬくもりが遠ざかる。

 嫌だ。

 オレも、立ち上がりシエルの気配に向かってむしゃらに手を伸ばした。

 オレの手はしっかりと彼女の手の甲を掴んだのだと思う。

 そのまま、手を乱暴に、強引に引っ張った。

 

 シエルの体を、強引に抱き寄せた。

 背中に手を回して、痛いぐらいに抱きしめた。

 嫌だった。ここで止めないと、シエルに二度と会えない気がした。


「エカルテ。離してよ」


「いやだ」


「離してってば」


「いやだ!」


「もう。聞き分けのない妹だね。困っちゃった」


 暗闇に、シエルの体温と困ったような、それでも空疎な笑い声だけがあった。


「シエル。行っちゃやだ」


「ここにいたら、エカルテまで、危ない目に合わせちゃう。それが一番嫌なの。ね? 分かってよ」


 諭すような声。お姉ちゃんの声。

 いつだって、そうだ。いつだってシエルは、こうなんだ。


「いやだ。オレは、絶対に嫌だ」


「エカルテ。わがままはだめだよ」


彼女が身を捩る。息が苦しくなるぐらい、力を強めると、やがて彼女は諦めたように、吐息混じりに、苦笑交じりに言った。

 腹立たしかった。悲しかった。気づけば、私は子供みたいに声を荒げていた。


「いやだ! シエルはそうやって、オレにもいつも優しくしてくれて、お姉ちゃんぶってる。オレの事、心配してくれる。でも、シエルが自分のこと、何も言ってくれない。

 オレは、シエルが考えていることを知りたい。私シエルの好きなものが知りたい。私は、シエルの嫌いなものが知りたい。だってシエルのこと全然わかんないんだよ、私。

 シエルは、怖くないの? 辛くないの? 死ぬの嫌じゃないの? なんで、笑うの? シエルのこと、私は全然わかんない。わかんないよ。なんで、そういう事言うのか全然わかんない!」


「わたしは、いつも言ってるのと、変わらない。エカルテのことが好き。だから、あなたに生きてほしい。それだけだよ。分かってよ」


「わかんない! なんで、死ぬかもしれないのに笑えるのか、わかんない! シエル。泣いてよ。怒ってよ。怖がってよ。私に、シエルの笑顔以外を教えてよ。なんでだよ。こんな時に笑わないでよ。なんで何があっても笑ってるんだよ。

 シエル、言ってよ! もっとちゃんと言ってよ。言ってくれなきゃ、わかんないよ! シエルの本当の気持ち、オレには、わかんないよ。シエル」


「エカルテ、大丈夫。わたしは大丈夫だから。ありがとう。ありがとう、エカルテ」


 私は、やっぱりいつものようにみっともなくて、涙混じりに喚き散らした。

 それなのに、シエルは優しく私の背中に手を回して撫でてくれる。

 姉のように優しく微笑みの混じった声をくれる。

 私はその事が何より辛かった。


「仕方、ないんだよ。笑うしかないんだ。笑ってたら、皆がいつか受け入れてくれる。分かってくれる。それしか、わたしにはない。それしか、やり方知らないんだよ。

 わたしは、怒りたくない。悲しみたくない。だって、怒ったって、悲しんだって、周りの人が傷つくだけ。

 わたしがつらそうな顔すると、お母さんやお父さんが、自分たちが悪かったって顔するんだ。ごめんねって謝られるんだ。そんなの、嫌なんだよ。笑っていれば、それですべては流れていくの。それでいい。それ以外いらない。エカルテに、笑顔以外なんて、見せたくない」


「シエル……」


「ね? わたし、最低だよね」


 自嘲するように頬を歪めたシエルが、言葉を継いだ。


「あなたに、本当の気持ちなんて言える訳無い。だってわたしは、魔族なんだよ。わたしが言いたいこと言っても、誰も幸せにならない。それなら笑ってるほうが良いよ。誰も傷つかない。エカルテだって、傷つかない。皆が傷つかないで済むなら、わたしはそっちを選ぶ。それだけの話なんだ。もう一度、言うよ。わたしはエカルテが好き。だから、私は行くよ」


 

 色々、考えてたことがあった。それも、全部吹き飛んだ。

 私にあったのは、怒りだったと思う。

 だって、シエルは何も分かってない。

 私はシエルと一緒に傷つきたい。そう、思っているのに。

 私はシエルから体を話すと、ぼんやりと浮かび上がる彼女の顔を睨みつけた。


「怒った。シエルがそんな事いうなら、絶対離れてやらない」


「ちょっと、エカルテ、話聞いてた!?」


「うるさい! シエルはばかだ! ばか! おおばか! シエルなんて、お姉ちゃんじゃない!」


「エカルテ! いい加減にしないと、怒るよ」


「怒ればいい! たくさん怒って、叱ってよ! にこにこしないでよ! 私も怒るから! シエルの怒ってる所、見せてよ!」


「そう言うのが嫌だって、言ってるじゃん! エカルテの、分からずや! 泣き虫!」


「シエルの頑固者! 意地っ張り!」


「エカルテの貧乳!」


「ひんっ!? シエル、それは酷いよ!」


「ふふん。お姉ちゃんが一歩上手です」


「お姉ちゃんぶらないで。シエルだってガキのくせに!」


「そんなことない! わたしは、お姉ちゃんだもん」


「違う! シエルはシエルだよ!」


「違わない! お姉ちゃんだよ!」


「ちがう! シエルの嘘つき! 私だって、傷つけるのも、傷つくのも嫌な臆病者だ。でも、シエルはそんな私も認めてくれた! 優しいねって言ってくれた。すごく、嬉しかった! それだって、嘘だっていうの!?」


「……嘘じゃ、ない。エカルテの事、本当に優しいって思った」


「じゃあ、シエルだって優しい。最低なんかじゃない。私シエルのおかげでわかったんだ。臆病でも、優しいだけでもだめなんだ。一緒に傷つきたい。シエルと一緒に、私は、傷つきたいんだ。お姉ちゃんじゃ嫌なんだ。隣に、立たせてよ。お願いだから、シエル」


「わたしだって、そうしたい……。でも、怖いんだ。怖いよ、エカルテ。わたしは、自分のこと、好きに、なれない。魔族な、わたしは、いやなんだ。そんなわたしの近くに、エカルテが、いるのは、すごく、すごく――」


 怖いんだ。好きだから、怖いんだ。

 目がなれてきて、暗闇の中にシエルの姿がぼんやりと見えた。

 シエルは泣いていた。

 薄暗がりの中で初めて見た彼女の大粒の涙は、なんだかとても綺麗で、痛くて、辛かった。


「シエル。オレも、自分の姿、いや、だった。嫌いだった。女になったの、嫌だった。でも――シエルがいた。オレには、シエルが居た。だから、シエルには、オレがいる。ううん。違う。

 いたい。シエルの側に、いたい」


「エカルテ……。エカルテ……! やだ。怖いよ、わたし」


 お互い叫び疲れて息が上がった。

 それからはただひたすらに体を寄せ合って、泣きじゃくって。

 ぐちゃぐちゃのまま、お互いの傷口をこすりつけ合うような行為に、それでも幸せを感じるのは最低だろうか。


 こんなことに、意味はない。傷の舐め合いだ。

 怖い事。嫌な部分。そんなものと向き合わなくて、毎日笑顔で過ごしていければシエルの言う通り幸せだ。

 だから、これはオレの自分勝手。それで、シエルを傷つけている。


 オレは、最低だ。

 オレはシエルのことがわかりたかった。

 それなのに、オレは次の言葉さえ、見つけられていないんだ。ただ泣きじゃくっているだけ、どうしようもないガキのままだった。

 

 やがてシエルは、体を離し、恥ずかしそうに小さく笑った。


「……エカルテ。悪口言って、ごめんね」


 何か伝えたかった

 もっとなにかいいたかった。気の利いたこと。シエルの心に触れる言葉。シエルを変える魔法のような言葉が欲しかった。オレの頭では結局何も出てこない。

 シエルに感謝を伝えたい。シエルともっと一緒に居たいって伝えたい。

 そう思っているのに出てきたのは、


「ううん。私も、ごめん」


 そんな、当たり前の言葉だけだった。


「じゃあ、お姉ちゃんって認めてくれる?」


「だめ」


「ねえ。わたしは……お姉ちゃんだよ。それで、良いんだ」


「良くない」


「はーあ。エカルテは、本当に頑固だよね」


「お互い様だと、思う」


 シエルは、オレがどれだけシエルを大事に思ってるか、分かってない。

 私は、シエルの気持ちが、わかんない。

 わかんない同士。そんな、ガキ同士でしか無い。

 分かってるんだ。


「……エカルテ。ありがと。すごく、嬉しかった」


 シエルは笑わなかった。



「おおー? 先客がいますねー? 王子ー?」


「なんだこいつら」


 ぼう、っと明かりが急に灯った。

 二人の男女が、オレ達に驚いたように目を丸くしていた。

 成長はしていた。

 けれどもとても懐かしい顔。

 アントルシャと、アルカ族の女だった。

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