忘れられたJ28、色とりどりの傷痕

融解犯

プロローグ

0「あのときの声」

 ハッとなって振り返った。

 背後に広がっていた光景は、緩やかな緑一面の丘と、まばらに生えている雑草の群れ。丘の頂上には入道雲を遮るようにそびえ立つ巨大樹。夏風が吹いて、葉をワサワサと揺らした。それに合わせて地面に映る影が大きく左右へ動く。


 梅雨が明けたばかりの、まだ、蝉時雨が聞こえない夏の中。

 誰かの、声を聞いた気がした。


 名を呼ばれ、顔を前へ戻す。手前を歩いていた少女が足を止めて、不思議そうにこちらを

 見つめている。


「急に止まって、どうしたの? 何かいた?」

「……今、誰かの声が、後ろから……」

「後ろ?」


 ぐるっと体を勢い良く反転させた少女は、少々大げさな動きで自分の背後を覗き込み、次いで巨大樹の方を見やる。


「……誰もいないよ?」

「でも、すぐ近くで聞こえたんだ。本当だよ」


 明確にどんな声かと聞かれても、なぜかはっきり答えられない。どこから聞こえたのかもわからない。すぐ隣から、後ろから、内側から。声の居所はわからずじまいだった。信憑性のない話だとわかっているからこそ、思わず切羽詰まった声を上げてしまう。

 少女はしばらく考え込んで、やがて黒髪を揺らして微笑みながら言った。


「きっと、誰かの声だったんだろうね」

「ええ、結局はっきりしてないよ」

「うーん、考えてみたけれどぼくにもわからないや。でも、たしかに『いた』と思うよ。あなたがそう言うなら、ぼくは信じるよ」


 「ごめんね、曖昧で」とへにゃりと眉を垂れさせて彼女は笑うが、不思議とその言葉でスッと納得した気がした。

 誰かはわからないけれど、たしかに「誰かいた」。今はそれでいい気がするし、何より少女は疑いもせずに考えて、純粋で素直な答えを出してくれた。それがただ嬉しかったから、これ以上考える必要もないと感じた。

 「それよりほら、早く!」と手を掴まれ、グイグイと急かされるまま慌てて足を動かした。駆け寄る先に、大勢の少年少女が自分たちを待っていてくれていた。彼女の家族、自分の友達。しっとり汗ばんだ白い手に包まれて、煩わしい暑さよりも幸福感が先に生まれる。少し頬が緩んだ。生まれてきてよかったなんて思う。数年前まではありえない台詞だった。


 ――幸せだ。


 こうやって彼女たちの傍にいるだけで多幸感を覚える。毎日が眩しい。明日の幸せが早く来ることを望んで、それでも今日の幸せが早くに消えてしまわないよう願う。その矛盾すらも愛おしい。

 ねえ、と心の中で呼びかける。

 僕、今なら何でもできそうだよ。誰だかわからない君の話も聞いてあげられる。だから、教えて。


 ――君は、何を「許さない」の?


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