第11話 写り込むもの


 織江おりえの先導でやってきたのは、グラウンド脇にある運動部の部室棟だった。

 こんなところになんの用があるのかと思っていると、織江はそのうちのひとつ、一階の隅にあるスチール扉に手をかけた。


「ここは……?」

「写真部よ」


 敦司あつしに答えながらも、どこからか取り出した鍵で扉を開け、中に入っていく。みおに促されて慌ててその後に続きながら、冷たく、そして微かに酸っぱい空気に満ちた雑然とした室内を、敦司は落ち着きなく見回した。


「か、勝手に入っていいんですか?」

「勝手もなにも。いいのよ、あたし、ここの部員だし」


 思わずぽかんと織江を見る。


「演劇部の人じゃなかったんですか?」

「演劇部よ。兼・写真部なの」


 当然のように言う彼女に、澪も頷く。


「自慢じゃないけど、我が演劇部は兼部率100パーセントなんだ。ちなみに私は、兼・文芸部」

みなみは文芸部と……新聞部、だっけ? 先輩たちも、だいたいそんな感じね」

「文化部は、どこも大概、緩いからね」

「そ、そうなんですか……」


 敦司の中学では兼部自体がなかったので、目から鱗が落ちるようだった。


 演劇部室と同じ、素っ気ないコンクリートブロックが露出した写真部室は、まさに雑然といった雰囲気だった。入って左手側と手前の壁際に長机がひとつずつ、その上には紙や大きめの封筒束が置かれていて、奥の棚には機材らしきものが大切そうに保管されている。そしてあちこちに据えられたパイプ椅子の向こう、右手側の壁に、重厚な扉がひとつ見えた。

 敦司がそこを見ていることに気付き、織江が言う。


「暗室よ。現像からプリントまで、ここで、自分たちでできるようになってるの」

「現像? って……なんですか?」


 この質問は、相手をいたく打ち据えたらしい。


「現像を! 知らない! 現像を! これがジェネレーション・ギャップというやつか……!」


 と演劇部員らしい芝居がかった衝撃の受け方をしている織江に、なんとなく申し訳なくなって口走る。


「プリントは、撮ったデータを印刷することですよね? それはわかるんですけど……」

「〈データ〉! 〈データ〉の時点でもう! もう!」


 どうやらこれもダメだったらしい。

 やがて一過性の嘆きから立ち直った織江は、頭痛がするような顔を片手でこすりながら、ようやくしゃんと背筋を伸ばした。


「まず、フィルムカメラってわかる?」

「あ、一眼レフとかのやつ……ですよね?」

「うーん……正確にはそうじゃないんだけど。一眼レフなら、デジタル一眼もあるし」


 そう言われてしまうと、敦司にはもうなにもわからない。

 おとなしく口を閉じた部外の後輩を見返し、織江は人差し指を立ててみせる。


「フィルムカメラっていうのは、フィルムを使って撮影するカメラのこと。この――」


 と傍にあった短い円筒状のケースを持ち上げる。


「フィルムは、光に反応して、そこに像を残すことができるの。だけどなんの準備もないまま広げちゃうと、周りの光にまで反応して、せっかく撮った写真が全部パーになる。〈現像〉っていうのは、そんなフィルムを薬液に漬けて、光が当たっても像が飛ばないよう、安定させる作業なのよ」

「なるほど……」

「プリントも一緒。焼きつけには感光紙を使うから、作業中、とにかく光は大敵なわけ。そこで作業室として、光がまったく入らない暗室が必要になるわけよ。あの部屋がね」


 おっけー? と生徒の理解が足りているか、織江は小首を傾げて覗き込んでくる。その気軽さに若干ぎこちなく後退りながら、敦司はぶんぶんと首を縦に振った。


「デジタル一眼もあるけど、あたしたちが使うのは、もっぱらフィルムカメラの方。理由は、それが好きだから。そういう人間じゃないと、そもそも写真部なんて入らないわ」


 至極もっともな意見を付け足して、織江は暗室の扉を開け、中に渡された紐に吊られた一枚の紙を取って戻った。

 それを一瞥して顔をしかめ、澪へと差し出す。


「見て」


 それは、少し粗さの目立つ写真だった。画面左方向を向いた大勢の生徒たち、その中の一人を中心に切り取るようにした、明るい色調のカラー写真だ。その中心人物の横顔に、見覚えがあった。


「これ……」

「……もしかして、鞘川さやかわ先輩?」


 澪の呟きに、織江が頷く。


「この前の、テスト結果の掲示の時に撮ったやつよ。ネガチェックの時に見つけて、そこだけ引き伸ばして焼き込んだの。まあ、元々、誰かに見てもらおうと思ってなんだけど」


 そして、写真の一部を指で示した。


「あるでしょう? ――〈赤い紐〉」


 それは、確かにそこにあった。左を向いた鞘川荘司しょうじの首元、学生服の詰襟を覆うようにしてひと巻きし、何者かに引かれるように、その緒は後方に流れている。ただその先は途切れていて、〈持ち主〉の姿を知ることはできない。

 あの白い女かどうかを、知ることはできない。


 しかし敦司の頭には、過ぎ去ったはずの疑惑がまた舞い戻っていた。


「……トリック写真、じゃないですよね?」


 ついそれを零した瞬間、後悔する。眦を吊り上げた織江が、顔を真っ赤に染めて敦司をねめつけ、大きく息を吸い込んだのだ。


「失礼ね! なんであたしが、そんなことしなきゃなんないのよ!」

「い、いやその…………すみません。つい……」

「…………。この写真は、一昨日撮って、昨日の昼休みに現像、今朝プリントをしたばっかりなの。新聞部からの依頼だったから、週明けの校内新聞に間に合うよう、本当は一昨日のうちにやっとかなきゃいけなかったんだけど……あんなことがあったから」


 むっすりとした不機嫌面に、一瞬、悼むような色がよぎる。しかしそれは本当に一瞬で、次の瞬間にはもう、静かながら燃え立つような目で敦司を見据えていた。


「これだけの枚数、ネガチェックしてプリントするのを選んでってするのに、どれだけの時間がかかると思う? ――そりゃあ、デジカメならあっという間かもしれないけど。トリックなんてする暇も、もちろんその理由だって、あるはずないの」

「……すみませんでした」


 平身低頭とはこのことだ。それほどの手間がかかるものと思っていなかったとはいえ、不躾なことを言ってしまったのには違いがなかった。


「……これは、撮った時には?」


 二人のやり取りの傍ら、じっと写真を見ていた澪が、短く問う。

 その意図を正確に把握して、織江が首を横に振った。


「全然。でも、気付かなかったってことはないと思うから……」

「〈見えなかった〉、か。少なくとも、おりーには」


 濁された答えの先を、澪が自身で呟く。そして更に問いを重ねた。


「これが写っていたのは、この一枚だけ?」

「あ、ううん。同じアングルで何回か、露出を変えて撮ってるから。でもまあ全部、似たようなものね。――そうそう。朋香ともかも、なんか変なのが写ってたーとか言ってたな」


 そこで敦司は、ふと三日前のことを思い出した。


「そういえば、朋香先輩も写真部なんですよね。この間、その掲示の時に見かけました」

「そうそう。その時、あたしも一緒だったのよ」

「――ともちゃんの写真は?」


 白山しらやま澪という人は、なにかを考えるとなると横道を目に入れない性格らしい。それに付き合い慣れているらしい織江は、特に不平不満を挟むでもなく、本題の方へと向き直った。


「えっと、確か提出しないやつは、この辺にまとめてて……あったあった!」


 それは、生徒たちの頭越しに掲示板を写した写真だった。

 後頭部の群れにピントを合わせながら個々の顔は写らないアングルにしてあるのは、校内新聞という公のものに使いやすくするためだろう。一番上の表題には『3年理系』とある。

 その張り出された名前の最上部に、朱墨で引いたような、長い一文字いちもんじがあった。


「あれ……? こんな線、ありましたっけ?」

「ないはずよ。だからおかしいの」


 織江は困惑のような疑惑のようなものを混ぜた厳しい顔で、伸ばした指先でそれをなぞる。


「わかる? ――これ、1番の名前が消されてるのよ」

「……、ああ」


 合点がいったような呻きは、澪の口からだった。そのまま、呟く。


「3年理系のトップは……鞘川先輩だ」

「! それって……」

「…………。おりー、他の掲示が写った写真ってある?」


 唐突な要請にも、織江は「ちょっと待って」とすぐに反応した。


「一通り、全部同じように撮って回ったわ。でも……があったのは、それだけだったはず――」


 写真束を繰りながらの言葉が、不意に途切れた。一枚の写真に釘付けとなった目が、驚愕に大きく見開かれていた。


「うそ……」

「どうしたんですか?」


 ただならぬ様子に、その手元を覗き込む。

 それは、先程のものとよく似た写真だった。生徒たちの後頭部と、その向こうの、大判用紙の掲示物。ただし、その上部にぼやけつつも写る表題にあるのは、『3年文系』の文字。

 そして、その1行目。

 首席となった生徒の名前とクラス、総合得点が印字されているはずのそこに、鞘川荘司の名を塗り潰したのと同じ――真っ直ぐな赤い線が、あった。


「……うそでしょ……」


 愕然とした声が、織江の口から零れ落ちる。


「だって、なかったのに……今朝見た時は、朋香だって、なにも……!」


 声も手も震えている。心なしか青ざめたような表情は、いくら演劇部員とはいえ、演技とはとても思えない。

 その動揺が移ったように、敦司の心臓も嫌な風に鼓動を速めだす。


 ただ澪だけが、軽く目を伏せ、考え込むように呟いた。


「――湯井沢ゆいざわ先輩だよ。3年文系のトップはね」




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