第7話 血色の紐


「すぐそこ」だというみおの言葉は、嘘ではなかった。

 渡り廊下を過ぎ、特別教室棟の階段を下りて図書室前を通り過ぎると、そこがもう保健室だった。


「じゃあここで」

「あ、はい。ありがとうございました」


 頭を下げて、軽く手を振る3人を見送る。


 昼休みの保健室には、保険医だろう中年でふくよかな女性が1人と、明らかに教員ではない、けれど警戒の必要性を感じないほど穏やかな風貌の若い男がいた。

 きょとんと立ち竦む敦司あつしに、保険医はその男が〈心の相談員〉というものだと教え、それから来室の用件を尋ねてきた。


「ええと……気分が悪いので、少し休ませてほしいんですけど……」

「あらあら。休むだけで大丈夫? 取り敢えず、熱だけは測っておいてくれるかしら?」


 利用者記録に必要なのだろう、差し出された電子体温計を、敦司は素直に受け取った。風邪や発熱ではない自覚はあったものの、うまくごまかす自信もない。これで門前払いをくらうなら、それはそれで仕方がないと思えるだろう。

 しかしそんな敦司の憂慮をよそに、結果、僅かに平熱を上回るだけだった体温計を見た保険医は、特に気にした様子もなくそれを片付けて言った。


「熱はないみたいだけど、確かに、顔色が少し悪いみたいだしね……。なんだったら、今日は早退してもいいけど?」

「い、いえ。少し休ませてもらえたら、大丈夫です。5時限目には、出たいので」

「やっぱり、舟西ふなにしの子は真面目だなぁ」


 感心したように口を挟んだのは、相談員の男だった。


「僕が学生の頃なんて、仮病使ってでも帰りたがったものだけど。あ、もちろん僕じゃなくて、他の子たちが、だけどね」


 批難めいた眉の上げ方をした保険医に気付き、男は慌てて両手を振る。

 そしてごまかすように、ことさら神妙な表情で敦司に語りかけた。


「きみといい、さっきの子といい、やる気があって真面目で、本当にえらいなぁって思うよ。ただでさえ休みの時間を〈休み〉にあてて、授業には出ようって気持ちがあるんだからね。――でもそれならなおのこと、『休む時は休む、頑張る時は頑張る』を実践するのがより大事なんじゃないかな、とも思うんだ。疲れたな、と思った時には、体調に現れていなくても休んで構わないんだから」

「はぁ……」

「ええとね、つまり……『心の休憩も大事だよ』ってことなんです。言いたいのは」


 両者しばし、困った顔を突き合わせて、それから曖昧に破顔する。

 ……それで、どうしたらいいのか、という気持ちは、どうやらお互いさまであるらしい。そんな情けない男二人の間に、保険医が大きな身体で割り入ってきた。


「ごめんなさいね……えーと、丹原たんばらくん? 山口先生、朝からずっと話し相手がこのおばさんしかいなかったから、生徒さんと話したいけど慣れてない、って状態なの。許してあげて」

「そんな身も蓋もない……」


 山口と呼ばれた相談員は、そう呟きながらも反論する気はないらしい。


「さ、休むなら真ん中のベッドにどうぞ。奥には先客がいるから」


 3台据えられたベッド、そのうち示された一番奥のスペースには、間仕切り用のカーテンが引かれている。そういえば、入口の靴箱にあったのは3人分の靴だった。初めての場所と見慣れぬ人たちの存在で、そんなことを気にする余裕さえなくなっていたけれど。

 追い立てられるようにベッドに向かうと、同じように間仕切りを閉められる。


 カーテンを始め、パイプベッドの上のシーツも布団も、壁紙までもが清潔感のある白で統一されていて、月並みだが病院のようだという感想を抱く。

 消毒用アルコールやリネンの糊、その他いろいろなものが混ざったにおいも、その感想に厚みを持たせた。それでいて奇妙に落ち着く空間だと、ほっと吐きかけた息が、一瞬で止まった。


 赤い紐が、そこにあった。


 血のように赤く、はらわたのように細い紐。

 それは床の上でうねり、丸まり、しかし途切れることなく隣のカーテンの向こうへと伸びていた。血濡れた蛇のように、敦司の前に横たわっていた。

 そして敦司は気付いた――砂の底から滲み出る水のように、あの耳鳴りが、薄く、再び自分を取り込もうと浮かび上がりつつあることに。

 すぐそこまで、来ていることに。


 いつの間にか、鼓動が駆け足になっている。それに従い、その場から走って逃げ出してしまいたい衝動に駆られる。しかしそんな意思とは関係なく、敦司の右手が持ち上がる。

 震える指先をカーテンにかけ、ゆっくりと、その布地を取り払った。


 そこには、一人の女子生徒が眠っていた。

 知らない顔だった。少なくとも、親しい顔のどれでもなかった。ストレートパーマをかけた黒髪が、シーツの上に無造作に広がっている。

 死んでいるのかと恐れる必要はなかった。彼女は仰向けに横たわり、苦悶と恐怖を刻み込んだ真っ青な顔で、微かな呻き声を洩らしていた。助けを求めるように、胸元までかけた布団をぎゅっと握りしめている。

 赤い紐は、血の気の引いたその首に、巻き付いていた。


 ――ちょうど、吊り下げる前のように。


 刹那的に浮かんだ自身のおぞましい想像に、全身が総毛立つ。

 そんなことをするつもりはないし、そんなものを見たいとも思わない。それなのに、その光景がまざまざと思い描けてしまったことが、敦司にとって余計に恐ろしかった。その時。


 紙のように白い女の手が、ベッドの向こうから、ずるりと姿を現した。


「……!!」


 喉が引き攣る。

 それだけだった。声など出ようはずがなかった。


 凍ったように敦司が見つめるその先で、その手は生皮を剥がれた蛇のように、ずるり、ずるり、と這いずっていく。蠢く五本の指を突き立てるようにして、女子生徒の足元から腰へ、そして、シーツを掻く彼女の腕に――


 その時、ぱちりと、女子生徒の瞼が開いた。


 瞬間、弾けるように空気が変わる。

 耳鳴りは消え、彩度が戻る。窓からの陽光が明るく差し込んでいることに改めて気付き、その光の中に、生白い腕が影すらないことを確かめられる。


 そうしてようやく、敦司は、止まっていた息を、細く吐き出すことができた。


 振り払うような寝返りと、数度の喘ぐような呼吸の後、女子生徒の目が固まったままの敦司を捉える。そして止める間もなく、鋭く息を吸い込んだ。


「っ――きゃああ!」


 短くも紛れもない悲鳴が女子生徒の口から上がり、間仕切りの向こうで慌ただしく立ち上がる音がした。

 まずいと思ったが、動けなかった。


「どうしたの?」


 カーテンを分け、怪訝そうな保険医が顔を見せる。そして、女子生徒のベッドを覗くような格好になっている敦司に、驚きと批難の目を向けてきた。


「なにしてるの? あなたには、隣のベッドで休むように、言ったはずだけど?」


 わざわざ強調するように区切られたそれに、敦司は思わず身を縮める。


「す、すみません、あの……なんかうなされてたみたいで、それで、つい……」

「……うなされて?」


 怪訝そうな目が、今度は女子生徒の方へ向けられる。その目元に残る涙と疲労の跡を見つけたのだろう、保険医の表情が一気に心配そうなものに変わった。

 しかし当人は、乱暴に首を振って、それを拒否する。


「なんでもないです! 少し嫌な夢を――そう、ただのを、見ただけなので!」


 頑としてはねつけるような、それでいて自らに言い聞かせるような口調が引っかかる。けれどだからといって追及などできるはずもなく、飛び起きてベッドを下りる彼女を見ていることしか、敦司にはできなかった。


「ちょっと待って、湯井沢ゆいざわさん。あなたもう少し休んだ方が――」

「もう大丈夫です。ありがとうございました」


 刺々しい言葉を残し、女子生徒は、足音高く保健室を去っていく。――その背中に、なおも血色の紐を引きずったまま。

 その後ろ姿を憮然と見送った保険医は、溜め息ひとつでそれを振り払う。

 そして身を固くしたままの敦司を見て、的外れに苦笑した。


「……そんなに怖がらなくても大丈夫よ。確かに、女の子の寝顔を覗き見るのはよくないことだけど、うなされていたんなら助けてあげたようなものだしね」


 安心させるように、冗談めいて敦司の背中を叩く。しかしその顔色を改めて見た保険医は、驚いたように眉をひそめた。


「本当に、大丈夫? あなたの方がうなされてたみたいな顔してるわよ」

「いや……」


 大丈夫なわけがなかった。

 どうして、なんでという疑問が、頭に浮かんでは積み重なっていく。

 どうしてあの紐がまたあるのだろう。どうしてあの人の首に巻き付いているのだろう。どうして保険医と相談員は、一度として、あの真っ赤な紐に目を向けなかったのだろう――


 頭が重かった。

 硬直の反動か手足も重く、ぶりかえしたように、指先までもが震えだす。

 そこに追い討ちをかけるように鳴り響いた予鈴に、敦司はもう、躊躇うことなくその言葉を口にしていた。


「……5時限目だけ、休ませてください……」


 どうせ倒れるのなら、スプリングがきいていなくても、ベッドの上の方がいい。

 眉を跳ね上げた保険医が無言で寝床に押しやるほどには、どうやら今の敦司は、それにふさわしく見えたらしかった。




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