第5話 3分の1と空白


          *


 ――彼女はそれを、目の前に見ていた。


 見覚えのある少年が、力なく喚きもがき、それも無意味に引きずられている。

 白無垢の振袖に、引きずられている。

 その手から少年へ、つながっているのは赤い紐だ。仰向けに倒れたままの少年がその首に巻き付いた紐で引きずられる様は、まるで、散歩を拒否する犬のようだった。――間違いなく、そんな和やかな光景ではないというのに。


 彼らの向かう先には、一本の巨大な松の木があった。ねじくれた枝は抱えるほどに太く、闇でもなく光でもないその空へ、針山のような松葉影を映している。爬虫類を思わせる樹皮も恐ろしげな、怪物のような松だった。


 その根元で足を止めた白無垢は、無造作に、紐を握った片手を振った。

 すると信じられないことに、少年の身体が宙に舞った。

 松の枝に赤い紐がかかる。少年の身体が落ちてくる。知らぬ間に枝に結び付けられていた紐はその体重に張り詰めて、瞬間、少年の首に鋭い負荷をかけ――


 ごぎり、と、無音の空間に嫌な音が響いた。


 痙攣。静寂。そして伸びきった首と垂れ下がるだけの両手足に、その音で、少年の命が絶たれてしまったのだと理解する。


 けれど――おかしな話だと、恐怖におののく頭で彼女は思う。

 なぜならその少年は、のだから。


 吊られた少年を見上げていた白無垢が、その時、揺らぐように動きを見せた。

 ゆっくりと、まるで水中かのようなもどかしさで、その背が振り向こうとする。


 ――見てはいけない。


 本能的にそう思った彼女はけれど、視線を逸らすことさえできなかった。

 白い裾。白い袖。――真っ赤に染まった前身頃。

 綿帽子をかぶった頭が、彼女へ向かってゆっくりと持ち上げられ、


 そして、目が合った。



          *



「なー丹原たんばら。昨日、3年で飛び下り自殺が出たって聞いたんだけど、マジ?」

「……本当だよ」


 朝の教室。前の席に荷物を置くなり、開口一番に友人が振ってきた話題に、敦司あつしは溜め息を交えながらもおとなしく答えた。


 一夜明けた舟西ふなにし校内では、当然のように、昨日の惨事についての話でもちきりだった。内容が内容だけに声高にではないものの、一人教室に入ってくるたび、先程の田所たどころとの会話と同じようなやり取りが、そこここで繰り返されている。

 敦司が登校してきた頃には遠巻きだったが、もっと早い時間には、正門前で生徒を捕まえようとするマスコミ関係者もいたらしい。おそらく朝刊にも載っているのだろう。あいにく家を出る前に新聞を読む時間などないから、自身の目で見たわけではないのだが。


 田所は「うっわー、マジなんだ」と驚くように両眉を上げた。


「んでー? それ、誰だって?」

「詳しくは知らないけど……サヤカワとかなんとか……そういう名字? だったらしいよ」

「えっ? それってもしかして、鞘川荘司さやかわしょうじ?」


 相手の口から思いのほかあっさりと出てきたその名前に、なんとなく聞き覚えがあって敦司も頷く。


「ああ、なんかそんな名前だったかも。……知り合い?」

「いや知り合いではねーんだけどさ。――ほら、覚えてないか? 昨日、見ただろ? 掲示板で、3年理系のトップんとこにあった名前だよ。めっずらしい名字だからさ、さすがのオレでも覚えちゃってんだけどさ」

「……そうだっけ」


 敦司が覚えているのは、群がる生徒たちの静かに興奮したざわめきと、一応の秩序を保ちながらも隙あらば前に出ようと押し合いへし合うその状況、そして幼なじみの名前と、直後に遭遇したその当人だけだ。

 そもそも3年の掲示など、見ようとさえしなかった。


「……せっかく1位になれたのに……なにが不満だったんだろう」


 そういう人間だと聞くと、それまで考えもしなかったことまで気になり始める。

 しかし田所は、さして特別なことでもないかのようなしぐさで肩を竦めた。


「まーでも、そんなこともあるんだろーさ。受験ストレスとか親のプレッシャーとか……目標点数に届いてなかったとか? ぶっちゃけオレはそーゆーの、全然わかんねーんだけど。舟西って、生徒の3分の1が病んでるってウワサだし」

「そう……なのか?」


 初めて耳にしたその話に、敦司は目を丸くして友人を見返す。


「そりゃまあ、表立って言われることじゃないだろうけどさー。結局、進学校だし、そんなに珍しくもないんじゃねーかな。そーいうの」

「……病んだりするの、ってこと?」

「それだけ追い詰められやすい環境、ってことじゃねー?」


 疑問符に疑問符で返す田所の答えは、場合が場合なら腹が立つものだ。けれど今回に関しては、その遠回しな回答で充分だった。

 自分にとっても無縁ではない話だと、入学直後の学力テストで思い知らされてもいる。やたらに高い平均点と、それに遠く及ばない自分の点数を見続けていたら、敦司だっていつ狂うかわからない――想像したら、冷や汗が出てきた。

 掌を拭う敦司をよそに、どこまでも呑気に間延びした口調で、田所がぼやく。


「さすがに自殺者が出たっていうのは、オレも初めて聞いたけどー」

「……そうなんだよな」


 そういう噂が立つ環境でありながら、舟西校内で自ら命を絶った生徒の話というのは聞いたことがなかった。だからこそ学校中――いや、地域一帯が、今回のことで騒然となっているのだろうけれど。


 予鈴直後に担任が現れ、今日の一時限目は全校集会にあてられることを告げて、体育館への移動をクラスに促した。

 校長の話はそう長くはなかったものの、その後、学年ごとに分かれて学年主任の話を聞かされ、心配事や相談事には教員が誠意を持って対応すること、だから安心して、いつでも頼ってほしいというようなことを言い含めるように繰り返された。


 残った時間は教室に戻り、簡素なアンケート用紙を配られた。たまにニュースで聞く、いわゆる〈心のケア〉というやつの一環なのだろう。

 クラス内にイジメがあるか、他のクラスでイジメがあるか、これまでイジメにあったことはあるか、イジメをしたことはあるか。勉強のことで悩みはあるか、家庭のことで悩みはあるか、友達関係で悩みはあるか、教員に対して悩みはあるか……

 丸をつければいいだけの項目から、具体的な内容を書けるものまで。

 10を越える質問を追いながら、前日のことを思い出していた敦司の手は、いつしか止まってしまっていた。


(結局――……)


 昨日、あの部室から出られたのは、救急隊と警察官が撤収した後だった。

 表に出ていた先輩たち――メガネの文系少女以外は全員、2年生だったらしい――が、どのような説明をしたのかは知らないが、部室内にいた敦司たちには誰も、なんの問いも向けてくることはなかった。

 ただが終わったとみられる頃合いに戻ってきた先輩たちから、今日はこのまま、どこにも寄らず帰るようにと言われただけだった。

 自分が目撃してしまったことを思えば「言われなくとも」と思うべきところなのだろうが、敦司に限っては正反対だった。

 共働きの両親は帰りが遅く、祖父母や親戚も身近ではない。どうせ誰もいない家に帰るくらいなら、塾でも図書館でもゲームセンターでもいい、どこか人の大勢いる場所に行ってしまいたかった。けれど――


 教室には沈黙が満ちていた。

 紙を掻くシャーペンの音ばかりが響く空間に、ついこの間、春先の入試会場を思い出して、少しならず居心地の悪さを感じるほどだった。――そんな生真面目な生徒たちの中に、敦司もいる。年上の人間からの忠告を受け流せるほど、敦司には反発心も反抗心も、自立心もありはしなかった。

 幸い以降、恐れるべきことは、なにも起こっていないけれど。


「…………」


 こっそりと溜め息をついて、ほぼ埋まっていないアンケート用紙に意識を戻す。

 勉強のことで悩みはあるか、家庭のことで悩みはあるか、友達関係で悩みはあるか、教員に対して悩みはあるか……。

 悩みならいくらでも、それこそ売り払ってしまいたいほどあるのだが、果たしてそれをここに書いたとして、なにがどうなるというのだろう。

 呼び出されてふざけるなと叱られるか、心療内科をおすすめされるか――少なくとも、敦司が求めるような〈誠意を持った対応〉をされることはないのだろう。


 一時限目の終わりが近付き、担任がアンケート回収の声をかける。

 結局ほとんど白紙のまま、敦司は選択形式のものだけを埋めて、出してしまうことにした。

 少しだけ良心がとがめたが、後ろから裏返しで回ってきた他の生徒たちの回答を見て、思わず、ほっと安堵の息が出た。


 空白の方が多いプリントは、どれも、敦司のそれと似たようなものだった。




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