第3話 仮面の集い


 ――昔から、他人の目が怖かった。


 自意識過剰なのだと、敦司あつしも頭ではわかっている。

 けれどそれと、どうしようもなく覚える恐怖とは別物だ。


 見られることが怖い。何気ない一挙一動が他人にどういう影響を与えるのか。どういう感情を抱かせるのか。自分に対して、どういう判断を下す要因になるのか――。

 そういったことを考えると、同級生の前を歩くことさえ恐ろしかった。足が震えて、手が震えて。逃げ出してしまいたくて仕方がなくて。


 出来のいい幼なじみの隣で、敦司はずっと、取るに足らない怯えた子供だった。

 勉強も運動もだめだった。発表のある音楽や図画工作もずっと苦手で、なにもできないまま年齢だけが増え、学年だけが上がってきた。



 これが最上のやり方だと、そんな風に思っているわけではない。

 けれど今の敦司には、これ以外、方法がないように思えていた。



「ここが……演劇部室」


 放課後。意を決して目の前にしたその扉は、薄汚れたスチール製の片開きドアだった。上半分が磨りガラスになっていて、室内で灯る蛍光灯の明かりや、それを横切る複数の人の気配がわかる。

 声も聞こえる。内容まではわからないものの、楽しげな女子の声が、いくつか交じって聞こえてくる。……あの〈馬〉もそこにいるのかは、それだけではわからないけれど。


「…………よし!」

 

 深呼吸をして扉を叩く。

 途端、ぴたりと止まった話し声の後、落ち着いた女子の声で「はい」と返事が返ってくる。飛び出しそうになる心臓を抑え込むように片手で胸元を押さえ、もう片方の手で、敦司は扉を引き開けた。


「す、すみません! その、演劇部の部室はここで――」


 当たり障りのない確認から入ったその言葉は、しかし問いの形を作り上げるより先に、喉の奥で足を止めた。

 ぶつりと途切れたその続きを問い返すこともなく、敦司を迎え入れた相手は、どこか皮肉めいた調子で両腕を開いてみせた。


「――ようこそ。きみも〈仮面〉を被りに来たのかい?」

「……………………」


 絶句、というのを、敦司は人生で初めて体感した。


 そこにあの〈馬〉はいなかった。

 けれど〈それ以外〉が、嫌というほど、目の前にいた。


 涙のペイントで笑う道化師、赤い隈取りの白キツネ。きらきらしいスパンコールやビーズで飾られたバタフライマスクに、血飛沫の散った某殺人鬼のアイスホッケーマスク。大きく両腕を開いた手前の一人は、白い眉と髭をした、シワだらけの老人だ。


 それらが本物ではないのだと、一瞬の後だとしてもわかったのは、先にあの階段で〈馬〉と出会っていたからだった。そうでなければ、取り戻した声を悲鳴に変えて、脱兎のごとく逃げ出してしまっていただろう。

 素早く走らせた目に映った、舟西の女子制服を着た〈それら〉の身体を認めて、取り敢えず安堵する。

 そこにいた総勢5人は、どうやら全員、女子生徒のようだった。けれども。


(……叩く扉を間違えたのかもしれない)


 そう思ってしまった敦司を、きっと誰も責めはしないだろう。

 その空間は、間違いなく、異常だった。


「…………」

「あれ? 固まっちゃいましたね、この人」

「まあそりゃそうっていうか……タイミング悪過ぎだったわね」


 バタフライマスクと白キツネが、敦司に向けて首を傾ける。その表情がわからないだけで、これほどまでに不気味なものだとは。


「だいじょーぶだいじょーぶ、怖くないよー。ほら!」

「! あ……」


 安心させるように言った道化師が、その仮面を無頓着に外す。

 その下から現れたのは大きく無防備な女子の笑顔で、だから敦司は、詰めたままだった息をようやく吐き出すことができた。


 彼女に倣うように、他の女子たちも次々と仮面を外していく。


 キツネ面の下から出てきたのは、強気な印象の女子の顔。さらさらのストレートヘアは腰まで届き、彼女の実直そうな雰囲気をより強いものにしている。とはいえ今は――怯える敦司のためだろう――小首を傾げ、いとけなくも見える笑みを浮かべている。

 バタフライマスクの下からは、見るからに柔和な文系少女の顔が出てきた。取り払っていたメガネをかけ直すと、その控え目な穏やさが一段と増す。片耳の下で結ばれたくせ毛が、まるで小動物の尻尾のようだ。

 そしてなんと殺人鬼のマスクの下からは、目鼻立ちのはっきりした美少女が現れた。色白で華奢、ふんわりとくせ付いた髪は色素まで薄く、フランス人形のような美少女だ。ここまでで一番のギャップに、敦司は再び、息を呑んだまま目を見開いた。


「……おや? この人、ユウ先輩に見惚れてますね」

「いやいや、そんなまさか……」

「ううん、わかるわー。あたしもよく見惚れるもん。ユウちゃん可愛いマジ可愛い」


 面白がるような文系少女、意外と低く落ち着いた声の美少女、からかいや冗談の色など欠片もなく、至極真剣に保証してみせる強気そうな少女たちの会話のおかげで、敦司はようよう、意識を目の前に取り戻すことができた。

 そして、後悔した。


「そう言うオリーも、もちろんトモちゃんもミナミも、そしてユウちゃんもみんな可愛いよ。こんな素敵な女の子たちに囲まれて、私はとても幸せ者だね」


 甘く口説くような調子の声音を発するのは、どう考えてもそれには似つかわしくない翁の面――その、最初に敦司が目にした彼女だけは、未だに仮面をかぶったままだった。女子の冬服セーラーと老爺の顔、そしてその恭しい口説き文句の不協和音に、鳥肌が立つ。

 だというのに、他の女子生徒たちはそれに黄色い声を上げてみたりする。


 お決まりのやり取りなのかもしれないが、部外者たる敦司の目には、異様な光景に違いはなかった。




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