26 真実

「あの日、俺達は夢の国にいた。杏子の両親に結婚の意思を伝え、承認してもらった、その祝いのデートだった。俺達はどこにでもいる、ありふれたカップルだった」

 塩見は肌を撫でるように、その巨木に触れならが言った。

「渦に巻き込まれた多くの人々は、あの場に集まっていた。声を掛け合い、お互いを支え合っていた。杏子と俺もそうだった。幸い、食料に問題はなかった。店舗ごと運ばれてきていたからな。そんな風にして、それから数日、俺達はあの渦を前に、飛び込む勇気も見つけられず、そこで過ごしたんだ」

 塩見は続けた。

「当然、現地の人種も俺達に興味を持った。でも、言葉がわからない。コミュニケーションは難航した。だが、子供たちに限ってはそうじゃなかった。彼らはすぐに仲良くなった。面白いよな。言葉は通じないのに、まるで気持ちが通じ合っているかのようでな。あのひっ迫した空気の中、子供たちの明るい声は俺達大人に勇気を与えてくれたよ。そしてその輪の中に、杏子はいた。彼女は保育士だったんだ」

 巨木は、幹が反り返るように緩やかに曲がっている。まるで、人間が太陽を浴びながら伸びをしているかのように。最初に伸びる大きな枝は、腕のようだ。

「そんな時、誰かが渦に飛び込んだ。そしてそいつは、再び渦から帰ってきた。あの渦の向こう側に日本があると知ったとき、俺達は歓喜に包まれた。それは、俺達とこの世界の別れを意味した。やっと帰れる。俺達大人は、全員がそう思ったはずだ。でもそれは子供たちには通用しなかった。子供たちは友達と別れるのが嫌だった」

 そりゃあそうだよな、と、塩見は巨木に話しかけるようにして言った。

「杏子は、泣きわめく異世界人の子供をあやしていた。数日で、子供たちはすっかり杏子に懐いていたんだ。そうして別れを惜しんでいる間に、俺達以外の大半は渦の向こうへ行ってしまっていた。俺は早く帰りたくて、彼女の手を半ば無理やりに引いたんだ。そして、それは起こってしまった」

 塩見は巨木に額をつけた。その表情は、見えない。

「杏子の体は、みるみるうちに樹木化していった。その瞬間を、俺は見たんだ」

 塩見の肩が、震えた。

「最初は腕が、次に足が。体の末端から浸食されるようにな。彼女の四肢が完全に樹木化して、俺は気が付いたんだ。それを見る異世界人の表情に。これは、未知の現象ではないのだと」

 その現象に遭遇した時、人の取る行動は深層心理に影響される。塩見は直感したのだ。ならば、治す方法もあるはずだと。

「だが、言葉がまるで解らない。誰もが親身に言っているようにも見えたし、はぐらかしてくれているようにも見えた。俺は焦った。彼女の体をおぶさり、そこら中を走り回った。そうしているうちに一人のエルフが訳知り顔でな、ここを案内してくれたんだ。着いた頃には、夜が明けていたよ。そして、俺が背負っていた杏子は、もう人では無くなっていたんだ」

 塩見は続けた。「俺は諦められなかった。この水が彼女を元に戻す希望だと信じ、俺はここに残った。この世界を歩き、情報を集めた。日に日に言葉を理解して、得られた情報から想定できることは全てやった。だが、何も変わらなかった。彼女は日に日に大きくなっていって、それが最早ただの木でしかないのではないかと悟った時には、既に三年が経っていた」

 想像を絶する現実が、塩見から語られている。京子は、それをただただ、受け入れるしかなかった。

「その頃だった」

 塩見が言った。「耶霧じゃむと出会ったのは」


 大木を前に泣き崩れる塩見に、声を掛けたのが耶霧だったという。

「哀れじゃのう。失った恋人は、既に木になってしまった。どれだけ泣こうが、戻ってこないという事に、既に気づいておるのじゃろう? ならば、そんなに空しいことは辞めることじゃ」

「黙れ、狐」

 塩見は巨木の枝に腰かける耶霧を睨みつけた。

「主はまだ生きとる」

 耶霧は子供を諭すように言った。「元の世界に帰るが良い。そこでお主を待っている者がおるはずじゃ。お主までがここで身を滅ぼしてどうする。亡くした者を想うなら、そのぶんお主が生きてやらねば、そやつも浮かばれぬよ」

「お前に何がわかる」

 塩見は狂犬のような顔をして、言った。

「突然未知のものに一番大切なものを訳も分からぬまま奪われた俺の気持ちが。綺麗ごとで片づけるな。だったら、お前の大切なモノを同じ目に合わせてやろうか。言えなくなる。その覚悟が無い者が、俺をわらうな」

 悲鳴のような言葉が、森に木霊した。

「知りたいか」

 耶霧は塩見の前に立ち、言った。

「なぜお主の女が巨木になってしまったのか。なぜこの世界はこんなふうなのか。その理を知りたいか」

 耶霧は、塩見を見定めるようにして言った。

「すれば、お主は納得ができよう。しかし、この世界を忘れることはもうできぬ。主はこの世界と関わりを持ち続けることになる。それが知る者の責任じゃ。お主に、その覚悟はあるのか」

 その差し出された手に、塩見が手を伸ばすのは時間の問題だった。

「わっちは耶霧。悠久の時を生きる妖狐の種族よ。主を軽んじた詫びじゃ、とことんまで付き合ってやる。その左腕に誓ってな」


「それから俺は、耶霧と旅をしながら、あらゆることを学んだ。この世界の多くを知って、エーテルを知った。そして、この世界で生きる人々を知ったんだ」

 塩見は自身の左手を見つめながら、言った。

「だが、知れば知る程、日本への影響が気になった。文化が交わることで起こる影響は、俺の論文のテーマだった。俺は、なぜ自分が生きているのかを考えるようになった。そして、俺がやらなければならないことがあることに気づいていた。そうして、俺が再び日本の地を踏むんだ時、日本では五年という歳月が流れていたんだ」

 あとは知っての通りさ、と言って塩見は肩をすくめる。

「そこを拾ってくれたのが、検見川だった」

 都合がよかったのさ、と塩見。

「俺はここにいた。そして、耶霧もいた。俺達は双方のことを理解した。それは異世界交流を目論む日本にとって、喉から手が出るほど欲しい存在だったのさ。それで俺はと言えば、異世界からやってきた日本人ということで、噂になっていたからな。そのままでは居場所は無かったに違いない」

 塩見は、ようやく京子に振り返り、言った。

「別に俺は悲劇のヒロインを気取ってるわけじゃない。ただ、俺にとってこの世界は他人事じゃないのさ。俺には責任がある。それだけの話だ」

 塩見は立ち尽くす京子の肩に触れ、車に戻るぞ、と言い残して歩き始める。

 しかし京子はその背を見送り、反対側へと歩き始めた。

 彼女の前には、巨木がある。

「まだ、挨拶が終わってないから」

 京子は、塩見の話を黙って聞いていた。それがどれだけの理解だったのか、塩見に聞いてみなければわからない。だけど、それは京子の魂に深く刻まれたのだった。それは、彼女の生き方を左右するほどに。

「私、越中島京子って言います。塩見さんには、いつもお世話になっています」

 京子は、巨木に向かって話しかけた。

「越中島って苗字長いから、みんな下の名前で呼ぶんだけど、なんで塩見さんは頑なに呼んでくれないんだろって、ずっと思ってて。そっかぁ、名前、同じだったんですね。なんか、親近感、沸いちゃいます」

 そして京子は、額をその木肌につけた。塩見と同じように。

「また、会いに来ますね。杏子さん」

 その二人のやり取りに、塩見は決して振り返らなかった。

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