第2話 - 間に合え!入学式!②

 私達はとにかく走った。背中から、野太い怒号が浴びせられるが、振り返ることすらせず、ひたすらに走った。

 地を砕かんばかりの、猛烈な足音が迫りくる。怪物が、激情を発散させながら、手負いの私達に追いすがってくるのだ。


「はっ、はっ、はっ! どこか……どこかに、隠れられる場所は……!」


 さっきまでドバドバに溢れていたアドレナリンは何処へやら。熱を帯びた叛逆心は、追われる恐怖に塗り替えられ、青々とした冷たさに変貌していく。

 私が思わずそんな弱音を口にすると、顔の真横を、ひゅん、と小さな物体が飛び抜ける。それは握り拳ほどの石だった。はるか前方の地面に落下し、ばらばらに砕け散る。

 首を回し後ろを見ると、そこには憤怒の形相で、手に大量の礫を握りしめる鬼の姿が――。


「や、やば、やばやばやば! はやくはやく、逃げないと……!」


 その時、ぐいと私の手を引く感触があった。


「こっち来て!」


 小さな手に引かれ、私の体重はそちら側に揺れた。

 すると、急激に全身が重力に引っ張られる。

 そこには、道に逸れるように作られた、小さな坂道があった。

 息も絶え絶えの中、必死に足を動かしていたコウくんの、小脇を抱えるようにして走っていた少女が、私を道連れにするようにして、坂の下方に転がっていった。

 私も抗えるはずもなく、彼女らと一緒になって、仲良くごろごろ転がっていった。


「いたたたた……う、ん、ここは……」


 坂を転がった先には――なんということだろうか。一軒の、建物があった。

 簡素な門の中に庭が広がり、その中心に、貴族の別荘のような建物が、ちょこんと立っていた。

 素朴な外観なのだが、植物の蔦や黒いシミができており、寂しげな印象を与える。

 長い昔に、主を失ったその洋館は、幽霊のような儚さを湛え、今もそこに鎮座していた。


「早く入って!」


 ほんのしばらくそこに見入ってしまっていた私を叱責する、少女の声。そして一瞬遠くなった、あの荒々しい足音が少しずつ近づいてくる様が感じ取れる。

 私達は慌てて立ち上がり、その門に手をかけると、大した抵抗もなく、錆びた軋みを上げながら開いた。

 館へ通じる道を走り、私達はすぐそこにある館へと急ぐ。疾走する勢いで、小さな風が巻き起こり、伸び放題だった雑草が、静かに靡いた。

 いよいよ玄関まで辿り着くと、私は取手に手を掛けた。

 後方を振り返ると――鬼女と鬼の二人組が、ほんの、すぐそこまで、肉薄している。早くここに籠城しなければ、と精一杯扉を引っ張る……が。

 全く動かない。傷だらけの扉は、冷酷に来客を拒否する門番のようであった。

 嘘。ここまできて、あ、やば。

 捕まる……そう、思わず観念しそうになった瞬間。

 ビシュ、と、なにかが飛沫くような音がした。

 その赤い液体は真っ直ぐに飛んで、何かを叫びながら飛びかからんとしていた嘉門の目に直撃する。


「ガぁぁぁああああああああ!」


 鬼が絶叫する。

 隣を見ると――コウくんが、不敵な笑みを浮かべながら、腕をだらりと下げていた。

 彼は、左腕に刻まれた傷痕に、もう片方の手の爪を、深く立てている。

 私は、言葉を失った。

 コウくんは、己の傷を更に広げ、流血の目くらましをお見舞いしたのだった。


「へっ、どうだ。デキの悪い男の、熱い血潮の味はよォ」


 そして ギィ、としんどそうな音が鳴る。少女が洋館の扉を押して、開いていた。


「洋風の建物なんだから! 内開きに決まってるでしょ! バカ!」


 嘉門が両目を必死にこすり、絶叫を続けている。キサラは感情的に「早く捕まえなさい!」と叱りながら、手の扇を彼の巨体に何度も叩きつけていた。

 コウくんの、身を削って生まれた時間を無駄にするわけには行かない。

 私達は転がり込むように館の中に入り、急いで扉を締めた。

 そして、鍵を回し、分厚い閂を降ろして、完全に施錠する。

 扉の向こうからは、怪物の憤怒の雄叫びと、女主人の、神経が切れんばかりの金切り声が響いていた。

 私達は、目を合わせ、へなへなと座り込んだ。




 その場に居続けるのも危険だという判断から、私達は二階へと移動した。

 館の中には埃が充満していて、歩くたびに、もうもうと舞い上がる。それは、窓から差し込む日差しを反射して、きらきらと天使の羽のように輝いた。


「きっと、このへんに……」


 少女が先頭に立って、奥まった場所にある部屋の扉を開けた。

 そこには、簡素なベッドと、小さな椅子。そして、薬品が並んだ棚があった。


「医務室……?」


 そう。学校の保健室に近いような設備が完備されていたのだった。もちろん、最近まで使われた形跡はなく、ところどころのガラスに皴が入っているような状況だったが。

 彼女はコウくんを静かにベッドに横たえさせると、棚をがさごそと漁り、どこからか見つけ出した傷薬と包帯を手に持って、彼の脇に座った。


「ほら、大人しくしていて。応急処置だけど、なにもしないよりはマシだから」

「あぁ……クソ。痛え。あんなデカイだけの、ノロマに、逃げることしかできねえなんて」

「無駄口叩く元気なんかないでしょ。寝てなさいってば」


 テキパキとした動作で、彼の患部に、白い布が巻かれていく。私は馬鹿みたいに、ほえー、なんて声を出してその様子を見ていた。


「おぉ……。すごいすごい! あっという間に、血の流れが止まった」

「――力技で固定してるだけよ。ちょっとでも動いたら、また傷、開くから」


 つっけんどんな言い草で、彼女は私の称賛を受け流した。

 そして、ある程度処置を終えたところで、ふぅと息を吐き出し、こちらに向き直った。


「……助けてくれて、どうもありがとう」

「あっ、あっはい! いや、そんな、当然のことをしたまで! ……ですわ!」


 しっかりとお礼をしてくれた。そんなタイプの子には思えなかったので、思わず面食らい、怪しいお嬢様語がまた出てきてしまう。

 そんな私をじっと見つめながら、彼女は言った。


「私は、石蕗芙蓉つわぶきふよう。こっちのは、三島紅みしまこう。私の『彼氏』よ」

「芙蓉ちゃんと……紅くん、だね! 私は芹沢優希。どうぞ、よろしく!」


 私はずいっと、芙蓉に向かって手を伸ばした。

 彼女は、そんな終始無防備な私をどう思ったのだろうか、ぶすりとした顔のまま、とりあえず握手をしてくれた。


「……貴女は、何故だかは全くわからないけれど、その場に居合わせた私達に味方をしてくれた」

「いやいや! そんな大したもんじゃないってば! むしろここまで、私も助けてもらった側っていうか――」


 えへへなんて笑いながら、芙蓉の言葉を有り難く頂戴しようと思った、瞬間。

 ぎゅっと、握手してる彼女の手が固く握りしめられ、続けて、ダン! なんて鋭い音がして。芙蓉が、近くのテーブルに、小さなメスを突き立てていた。

 えっ。

 背筋が凍る。とんでもないホラーに一変した。


「何が目的なの」

「も、目的!? いや、そんな、大それたこと考えてない……」

「しらばっくれるな!」


 そして少女は、握手した私の手に向かって、感情に赴くまま、錆びたメスを打ち込もうと腕を上げ――。


「ふう」


 コウくん……三島紅の、鋭い声によって、それは止められた。

 彼は、横たわりながらも、衰えぬ眼光で、少女を咎める。


「やめろ。そんで、理解しろ。この女は、マジだ」

「そんな訳ない……! この学園に来る奴を、信じちゃいけない……!」

「聞いてみな」


 紅くんは、そして、私の目を、じっと見つめた。


「目の前で腹割って話し合った奴を、見極められねえようじゃ、どの道駄目だ。ふう。『淑女』になったんだろ? 話してみろよ」


 促され、芙蓉は、うぅぅ、なんて小動物の唸りみたいに喉を震わせながら、再び私の方に向き合ってくれた。


「……芹沢さん。本当になんの計算もなければ、貴女があそこで、私達を助けるメリットなんて、欠片も無いはず。どうしてあんな真似をしたの? 答えられる?」

「えぇ……? そんなの、だって」


 私は、本当に困惑した。聞かれたことに、ただただ正直に答えるだけだった。


「デキが悪いとか言う、意地悪な子にイジメられてたら、そりゃ助けるでしょう」


 それだけの話なのに。そんなの、皆一緒でしょう?

 芙蓉はその答えを聞いて、ぱちくりとまばたきをして。紅くんは、腹を抑えながら、あひゃひゃ! と楽しそうに笑った。

 

「ふう! な、わかるだろう!?」

「うるさい! ……見たことないくらいの、バカだってだけよ」


 おそらく悪口を言われているのだろうけど、彼女を取り巻いていた、張り詰めた空気が少しだけ緩まった。

 芙蓉はぎゅうぎゅうに力を込めていた手を離し、もう片方の手に握っていたメスを、遠くに放り投げた。


「……正直、貴女を信じていいのか、まだよくわかっていない。だけど、一時的な共同戦線だと思って、今の状況を、整理して、共有しようと思う」

 

 目線を合わせて、そう伝えてくれた。

 芙蓉の言葉は、冷静だった。こんなにちっちゃい体から発せられる言葉は、私の背筋を少し伸ばすくらいの力が秘められていた。


「うん、うん! そうだね! こうなっちゃったら、協力するしかないよね!」

「……能天気な物言いね。とりあえず、私達側の事情を話すわ」


 そして少女は、訥々と、ここに至るまでの経緯を話し始めた。

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