第4幕 姫は鏡に映らない

姫は鏡に映らない(1)


              ※


 月光降る夜の中で、その女は静かに嗤っていた。


 夜闇に溶け込むような黒い髪。対照的なまでに白く浮き上がる肌を、漆黒の衣に包み込んだ凄絶なまでに妖艶なその女は、紅い唇を三日月に歪めて、夜空を見上げている。


 金色の瞳。


 神代かみよの獣たる証。その黄金の輝きが、見上げた月の輝きを弾いて鮮やかに煌めいている。


「……銀狼が、ようやくきてくれたか……」


 己を狙う追っ手の到来──で、あるはずなのに、まるで焦がれた想い人を待ち望むようにうっとりと恍惚こうこつに、金瞳を細めて嗤う。


「これで我が仔がほふられるのは九体目、本当に、健気な〝兄様あにさま〟……」


 愛しげに、恋しげに、まるでそこに想い人がいるかのように、伸ばした両手で虚空を掻き抱いて呼びかける。


「銀狼、銀狼、そんなに我が憎いのか? 血脈をいとい、掟をうとみ、自由を求めた愚かで優しい兄様。せっかく戒め縛る〝かせ〟を消し去ってあげたのに……」


 血のしがらみを、掟の呪縛を、あの地に留まらねばならない全ての理由ときずなを喰い散らして消し去ってあげたのに。

 本当に、本当に、健気な人だと、忌刃の黒狼はわらう。


「銀狼、銀狼、其方の中の黒い心は、どれだけ深く膿んだのか? 我を憎む想いは、どれだけ濃く猛っているのか? 嗚呼ああ、その闇をねぶれば、さぞかし甘くとろけようぞ。その闇を喰ろうたら、さぞかし強い仔をはらめようぞ」


 陶酔に身を震わせてあえぐ黒狼。

 その闇色のそばに座したもうひとりが、小さく舌打ちする。

 同じく黒い髪に、褐色の肌、月明かりがなければ夜闇に溶けてしまいそうな色彩の少女。


「……母様がモタモタしているから、面倒なことになったのよ」


 少女は面白くなさそうに、くだらないと毒突くように、声音も低く呼びかける。

 不機嫌もあらわな我が仔の反抗的な態度に、けれど、黒狼は嬉しそうに笑い返した。


「何が面倒なものか、むしろ理想的であろ? 其方があの娘を喰らえば、銀狼はさぞ怒るであろ? 恨むであろ? なればその心の黒き色彩はさらに深く、濃く……あぁ、想像するだけで子宮が火照ほてってくるじゃないか」


 うっとりと頬を染めて身をよじる黒狼に、少女は心の底から軽蔑するように口の端を歪めて立ち上がった。


「相変わらず、母様はどうかしている。けど、そういうことならもういいよね? わたしが行って、喰ってしまってもいいんだよね?」


 詰め寄る我が仔に、黒狼は恍惚の笑みで許しを示す。


「好きになさい。其方も、そろそろ空っぽの穴を埋めてしまいたいであろ。……けど、銀狼に手を出すのはいけないよ? アレは、我のものだからね」


 黒狼の艶笑に、少女は返事もせずに身をひるがえし、長い黒髪をなびかせて駆け出た。

 許しを得た今、もういても立ってもいられぬと、すぐにでもあの憎い女を喰い殺さずにはいられないのだと、夜闇の向こうへ駆け出していった。


「本当に、仕方のない仔だこと。誰に似たのやら……」


 我が仔に宿り猛る憎悪の美しさが、頼もしくも微笑ましくて──。

 黒狼はニタニタと、おぞましいほど妖艶な笑みに美貌を歪めたのだった。


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