今度はアナン一人で車に乗り込んだ。未だ、このナルチスシティではどのような生活が繰り広げられているのかアナンには知る由もなかったが、市民権をもらったことで何となくここで生活できる保障を得たような気分になっていた。

 それにこうやって車に乗るだけで好きな場所に行けるのはなんと快適なことだろう。多分これからもっともっと便利なことに出会えるかもしれないという期待が、アナンの心に拡がっていた。

 アナンの乗った車には運転する操作類がない。もともとこの車は規格道路のみで走ることを目的としているからである。座席の前にはモニターがあり、さっきから環境省関連の告知やニュースが表示されている。恐らく、環境省が客人を乗せるために所有している車なのだろう。基本的にはナルチスシティ内の規格道路では人は運転しないが、規格道路から外れた道路で人間による操作が出来るタイプの車もある。これは、一部のドライブマニアや、ナルチスシティの外に日常的に移動する人によって利用されている。

 自動操縦されているアナンの乗った車が停止した。今度は十分ほどで到着してしまったようだ。止まった場所は、石造りのアパートメントが立ち並ぶ、清閑な住宅街だった。車のすぐ横には四階建てのアパートメントがあった。アナンは車を降りたが、一体どこがクサーヴァの家かわかりそうもない。しばらく考え込んで、アパートに入ろうとしていると、三階と思われる窓から「アナン!」と呼んでいるのが聞こえる。アナンは引き返して、アパートの前に立って上を見上げた。窓から先ほどモニターで見たクサーヴァが顔を出しているのが見えた。

「アナンです。どうやって入るんですか」アナンは叫んだ。

「入り口から入って右側にあるエレベーターに乗って、三階で降りてくれ。そこがもう私の家だ。あ、そうそう、エレベーターから出るときは、指輪をセンサにかざさないと扉が開かないからね」

 アナンは言われたとおりにエレベーターに乗った。十センチ四方と聞いていたセンサの位置はすぐわかった。なるほどこの位置なら、右手をかざすのが一番楽そうだ。

 アナンは指輪をかざすとエレベーターの扉が開いた。アナンはナルチスシティの市民権を初めてこの場で行使した。扉の向こうにはクサーヴァが立っていた。クサーヴァの身長は二メートル近くあっただろうか。アナンは、三十センチも上にあるクサーヴァの顔を見上げなければならなかった。

「ようこそ、アナン」

「こんにちは、クサーヴァ」

「まあ、奥まで入り給え」

 アナンはクサーヴァに従って、家の奥に入っていった。さっき、保健省の壁面モニターで見たときとちょっとクサーヴァの印象が違う。いつの間にか、ネクタイを外してラフな服装になっているみたいだ。

「どうだい、まずはお昼でも食べないか」

 この言葉を聞いて、アナンは随分お腹が空いていることに気付いた。飛行機から降りて以来、ナルチスシティではまだ食事を取っていない。

「ありがとうございます。お腹ペコペコなんです」

「そうか、そりゃ良かった。それじゃ妻と三人で食事にするか。あ、そうそう向こうに妻のフローラがいるから紹介しよう」

 そういって、クサーヴァは妻のフローラを大きな声で呼び出した。奥からフローラが現れた。一目見てアナンはその美しさに驚いた。身長は恐らくアナンよりも十センチは高いだろう。細身ではあるが、身体にフィットした毛織のセーターは、豊かな胸の形を現している。肩に付くほどの長さの髪はブロンドで、くっきりと高い鼻がその美しさを際立てていた。ラウリーが言っていた人間の理想形とはこういうことを言うのだろうか。ナルチスシティの全ての女性がこんなにも美しいのなら、もはや男たちはナルチスシティの外に住みたいなどと二度と言わないかもしれない。

「ハイ、アナン。お目にかかれて嬉しいわ。仲良くしましょうね」

「は、はい、アナンです。初めまして、よろしく」

 美人を目の前に、思わず緊張したアナンの舌は縺れてしまう。アナンにとって、美しいということはそれだけで崇高なことだ。今、未知なる崇高なものに初めて遭遇した、そんな気分がしたのである。

 まるでアナンの気持ちを逸らすかのように、クサーヴァは大きな声を出した。

「さあ、三人で食事だ」

「アナンが来るって聞いて、お昼はナシゴレンにしてみたの。アナン、ゴルトムント島では食べたことあるかしら」

 フローラが言ったが、残念ながらアナンにはナシゴレンと聞いても思い当たる料理はない。それでアナンはちょっと首を傾げた。

「おいおい、ゴルトムント島にはそんな料理ないだろう。そりゃいくら南洋の島とはいってもね、アナンたちと僕らと先祖は一緒なんだぜ」

「そうなの? エージェントに聞いたらナシゴレンがいいって言うんだもの」

「調べ方が悪いんじゃないか」

「南の島でよく食べられていた料理は、って聞いただけなのよ」

「そりゃ、フローラが育てたエージェントだからね」

 フローラは少しむっつりして、クサーヴァを睨み付けた。

 二人の会話を聞いていたら、アナンはクリスのことを思い出した。ああ、今頃クリスはどうしているだろうか。まだ、僕のことを思って心配しているんだろうか、とアナンは一人想いを巡らした。


 フローラが作ったナシゴレンは本当に美味だった。アナンはこれまでこんなに洗練された料理を食べたことがなかった。F島や機内で食べた食事は、乾燥された食材をお湯に溶かしたような簡単な料理で、とてもおいしいとは思えなかった。この程度の料理なら、ゴルトムント島のほうがはるかに料理はおいしい。ナルチスシティの食べ物はこんな程度なのかと、実際のところ諦めていたところである。しかし、今食べたこのナシゴレンの美味さといったら、生まれて初めて経験したというほどのものだった。

 美しい女性がこんなにもおいしい料理を作ってくれる、まるで夢のような世界だとアナンは思った。だが、ナルチスシティで料理をするということは、アナンの考えていたものと全く違う行為だったのである。

「この料理、本当においしかったです。フローラは料理が上手なんですね」

「ナシゴレンはね、初めて作ったのよ。というか、正直に言うとエージェントにレシピを全部検索してもらっちゃった。私はね、そのレシピをそのまま入力しただけなの。あんまり誤解されちゃ困るんで、最初に言っちゃうけど」

「ははは、それにフローラはね、包丁を使うような人じゃないからな」クサーヴァは笑いながらそう言った。

「包丁を使わないで、料理をするんですか?」

「あそこを見てごらん。あの白くて細長い、少しいかめしい機械があるだろう。あれが料理用のロボットアームだ。エージェントに指令を出せば、あれを自由に動かすことができる。それでも、料理は一種のアートだからね、まだ包丁や菜箸を使って料理をする人も少なくはないけど」

「──エージェントって何ですか?」

 アナンは、さっきも気になった言葉の意味について聞いてみた。

「そうか、その辺りも説明しとかなきゃいけないな。アナンにもいずれ限定付きのエージェントを与えることになると思うけど、そもそも、リニアネットとスクリプトFのことを知らないと話にならんだろう。

 リニアネットは分かるかな。電子機器やそれらによって制御されるロボットはほぼ全てリニアネットに繋がっている。物理的にケーブルが繋がっていなくても、必ず無線でコントロールできるようになっている」

「本では読んだので、何となくは分かります」

「そうかい、そりゃ優秀だ。

 それでだ、私たちは機器に命令するためにスクリプトFというコマンド体系を使わなくちゃいけない。このスクリプトFは、人間が話すような言葉ではなくて、コンピューターが理解しやすい形になっている言語のようなものだ。機械たちがどのような手順で、何をするかをすべて指示するための命令の文法が規定されている。

 スクリプトFを使う際、マクロと呼ばれるコマンドの固まりを仕込んでおけば、より簡単かつ自分に合った方法で、効率的なスクリプトの記述が可能になる。このマクロ体系にもいろんな流儀があるが、そういったマクロの数々を保持したり、場合によっては自動生成するために、個人単位でリニアネット上で動作するプログラム群を保有している。このことをエージェントと呼んでいるんだ。これは狭義の意味でのエージェントだがね」

 クサーヴァは丁寧に説明していると思うのだが、アナンにとっては前提となる知識が足りないせいか、今ひとつ理解が出来ない。

「なんでエージェントなんて必要なんですか。ちょっと僕には難しいなあ」

「今日来たばかりじゃ仕方がないなあ。私も説明にも困っちまうよ。そうだ、さっきのフローラの料理の話を例にしてみよう。具体的な例があるとわかりやすいだろう」

「そうですね、そうしてください」そう言うとアナンは身を乗り出してきた。

「うちのキッチンには、冷蔵庫と複合加熱器、料理用ロボットアーム二機、それから食器洗い機がある。もちろん、いろんな料理器具もね。実際、エージェントを介してスクリプトFでロボットアームに命令を出すだけで、人は全く食材に手を触れずに、食事を作ることが出来る。

 あそこにあるロボットアームに対して、エージェントを介さずに私が直接スクリプトFを書いて、それを送ることは可能だ。ただ、そうすると単純な動作をさせるためだけにも大量の記述が必要になるし、ロボットアームの持つ莫大な動作命令を私が覚えなければいけない。世の中にある全ての機械、ロボットが万事その調子だと、私たちはそれらのコマンドを覚えるために無限の記憶力が必要になる。私たちはスクリプトFのマクロ定義機能によってこういった細かい処理を抽象化し、カテゴライズし、さらに使いやすくするためにそれらをまた組み合わせる。そうやって、自分独自のマクロ体系を作り上げていくことになる。

 もう少し柔らかい言い方をすれば、エージェントというのはね、リニアネット内で私の代わりになって、私の意志をその他の機械に伝えるためのソフトウェア群なんだ。つまり、自分の電子秘書みたいなものさ。新しい機器を初めて操作する場合は、自分のエージェントがまず相手機械からそのコマンド一覧や機器の持つマクロ体系をダウンロードする。それが済めば、後は自分の言葉で、つまりこれまで自分が定義したマクロでエージェントに指示すればよい。そうすれば、エージェントは相手機械に適切なコマンドを送って、それを動作させることが出来るんだ」

「機械と自分との翻訳者みたいなものですか」

「まあ、そんな風に考えてもらってもよいだろう。結局マクロの作り方は人によって違うからエージェントの動作はどうしても一人一人異なってしまう。自分のエージェントは自分で責任もって学習させねばならない。それがうまくいかないと、機械を誤動作させることになりかねないからね」

「で、フローラは彼女のエージェントを通して、ロボットアームに動作命令を出したわけですね」

「そう、その通り。しかもさっきも言ってたように、フローラはナシゴレンのレシピ自体を、リニアネットからエージェントに検索してもらったからね。そして、そのレシピをそのままエージェントに送り込んでロボットアームを動かしたんだから、実質、フローラは今日の献立を決めただけってわけさ」

「まあ、ひどい言い方!」フローラが拗ねた感じで口を挟んだ。あわててクサーヴァは「ごめん、ごめん」と軽く謝る。フローラは優しい笑みを湛えながらアナンに言った。

「いまどき皆、そうやって料理を作っているわ。単純でいつも繰り返すような作業は人間でなくてロボットがやるべきことなのよ。でもアナン、これから大変ね。私たち小さい頃から、こういう環境に慣れているし、当然のことのように思えるのに」

 食事が終わり三人は食器を後片付けすると、フローラはそれ以上アナンとクサーヴァの話に加わるつもりもないらしく、「それじゃ、お二人でご存分に」と言って奥の部屋の方に行ってしまった。アナンは目の前のオアシスが突然消えてなくなったような気分になった。

 フローラを見届けた後、アナンはクサーヴァに尋ねた。

「──僕にもスクリプトFって使えるのかな」

「残念だが、スクリプトFを使うには国家試験を受けて免許を取得する必要がある。このナルチスシティでスクリプトFを使えるということは、晴れて大人になったと同じような意味がある。なんてったって、いろいろな機械を自分の思いのまま動かせるのだからね。しかし、それにはもちろん責任が伴う。だから免許制になっている。普通は、高校に入る前、十五歳程度で免許を取る。

 でも、二十年前に高論理能力遺伝子群の遺伝子操作が解禁されてから、最近は免許取得年齢の最年少記録がどんどん更新されているよ。この前は七歳四ヶ月の子供が合格した。また、そら恐ろしい子供たちが生まれてきたものだ。

 アナンも話を聞いた限りでは、筋は悪くないと思うよ。モッドでは無いとはいえ、頑張れば免許を取れるかもしれないな。まあ、それまでは子供たちが使うマクロ固定タイプのエージェントとゴーグルをアナンにプレゼントするから、それを使ってくれたまえ」

「ゴーグル?」

「ああ、いつでもどこでもリニアネットにアクセスして、自分のエージェントを呼び出すには、端末を身に付けていなければならないだろう。僕のを見せてやろう。ほら、これだ」

 クサーヴァは食事前まで付けていた眼鏡を取り出した。どうやらこのことをゴーグルと呼ぶらしい。一見、普通の眼鏡とほとんど変わりないが、レンズには端末の表示が映るようになっていて、これを見ながらスクリプトを打つことができる。また、耳かけの部分に小型スピーカーが、そして鼻が当たる部分に小型マイクがついており、音声での指示や情報確認も出来るようになっている。

 また、ゴーグルとセットで使われるのがラップトップキーボードである。キーボードといってもビニールのような感触で、折り曲げたりすることが可能だ。通常はどこにいても操作できるように腿の辺りに装着するのが標準的である。そのために、キーボードは二つに分かれていて、ズボンの上から腿に巻くような形で身体に装着する。使うときには、この膝の上のキーボードに触れればいいのだ。ラップトップキーボードはいつでも身に付けているものなので、ファッションの一部として様々なタイプがある。最近はズボンとキーボードが一体化したものが、わざわざ服の上に装着する必要がないということで人々に受けている。

 アナンは、環境省でピエールが何度も足の腿の上で指を動かしているのを思い出した。妙なクセのある人だと思っていたが、今考えるとラップトップキーボードを打っていたに違いない。そういえば、ピエールはゴーグルと思しき眼鏡もかけていた。

 つまりナルチスシティに住む人々は皆、このラップトップキーボードとゴーグルを付けて、日常的に自分のエージェントとスクリプトFで会話をするという生活を送っているのだ。何もかも自動で便利であるその代わりに、スクリプトFを瞬時に扱うだけの高度な知的能力を持っていなければいけない。それこそがモッドの世界なのであった。

 アナンは突然、激しい眠気を覚えた。アナンが初めて体験する時差ボケだった。ナルチスシティに来てわずか四時間ほどの間だが、アナンには全てが初めてのことばかりで、とてつもなく長い時間に思えた。F島ではもう真夜中の時間だ。アナンの意識は遠のき、クサーヴァの家のソファで、アナンはこの街で初めての深い眠りについた。

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