十四

 その夜、アーロンはアナンに何も言わなかった。家族の誰もがこのことに触れないようにしているみたいだった。アーロンは、やはりアナンがノートを持っていることを村人に正直に言ってほしかったに違いない。それでアーロン家は何事もなく済むのだから。しかし、アーロンはアナンに判断の全てを委ねた。それがどんな結末を迎えることになろうとも、アーロンはそれを受け入れることにしたのだ。

 アナンはアーロンから無言のまま、そのような気持ちを感じ取っていた。そして、自分が固めた意志に対して、家族の皆にただ申し訳ない気持ちで一杯になった。しかし、大人として責任を持って決めたことだ、アナンは自分にそう言い聞かせた。家族には簡単な書き置きだけ残して、去るつもりだった。そしてクリスにも。

 アナンは、北の海岸線まで行くことにした。そこで、島を脱出するための簡単な船を作るためだ。そのためには若干の工具も必要だ。数週間分の食料もかき集めたので、荷物はだいぶ重くなってしまった。本当はもっと慎重に事を運び、食料や道具などもきちんと考えて持っていくべきなのだろうが、何しろ時間がなかった。身の回りで思いつくものを全て集めた。家族には悪いが、お米や芋などを少しくすねさせていただいた。それだけの準備ができると、いよいよアナンは森の奥に入っていった。


 船を作るためには、海辺まで行く必要がある。アナンは北の森を突き抜けて、海岸線までやってきた。岸に沿って数百メートル東側に歩けば、いくつか漁船が並ぶ場所まで辿り着くが、逆に村人がこのような場所まで来ることは滅多にないはずである。ただ、明日の朝になれば村でもアナンが失踪したことで大変な騒ぎになるはずだ。もしものことを考えて、森の中に何箇所か簡単な隠れ場所を作っておいた。

 それから二日の間、アナンはひたすら船を作り続けた。森で木を切り、これを海岸線まで運び、船を組み立てた。木はノミを使って、木が嵌め込まれるように丁寧に削っていった。アナンは実はこれまで船は作ったことがなかった。だから、水が船の底から漏れないか、非常に気を使い、そこに一寸の隙間も無いよう細心の注意を払って木を組み上げた。

 船は何度か海の上に浮かべてみた。アナンにとっては意外によい出来で、ほとんど最初の設計から問題なくここまで作れたことにちょっとした驚きを感じていた。船は、人一人が寝そべることができる程度の小さなボートのようなものである。しかし、食料や水を積む場所をうまく工夫して、バランスよく配置する必要があった。また、風が少しある日は帆を立てて走れるように、帆の骨組みを作り、大きな葉を用意することにした。こちらのほうは実際に海に出てみないと本当にうまくいくかはわからない。

 アナンができることは全てやった。後は、海に出て行くだけになった。このまま、これ以上ここにいればいずれ誰かに発見されてしまう。その前に出発しなければならない。そして、家を出てから三日目の夜、アナンは島を出ることに決めた。


 アナンはこれまでの十八年間のことを想い出した。

 幼い頃、クリスや近所の友達と野や山や海を駆けて遊んだ日々。学校時代にカレルと共に木工でいろいろなものを作った想い出。父アーロンの絶対的な存在とそれへの反発、そして恋人になったクリス。

 アナンにとって、もっとも心残りなのはクリスだった。二人が結婚の約束を交わしたのは、ほんの三ヶ月ほど前のことだ。アナンは今でもクリスのことが大好きだった。でも、クリスにさえ本当の事は言えなかった。もし、全てをクリスに話したら、クリスは一緒にこの島を離れて死ぬまでアナンの傍に居てくれただろうか。しかし、そんなことをクリスに強要してはいけないのだとアナンは思った。犠牲になるのは自分一人でいいのだ。

 たった一週間で世の中は全く変わってしまった。アナンとカレルが山でアンディの遺品を発見してしまったからだ。これほど急速に、全てが変化したことはアナンの人生においてこれまでなかったことだ。運命を呪いながらも、自らが自分の行く末について自分だけで決断したことをアナンは誇らしく思った。今こそ、アナンはアーロンと肩を並べたような気がした。

 その晩も月がこうこうと照らす夜になった。

 波はどこまでも穏やかだった。静かな海に、ついにアナンは船を押し出し、そして漕ぎ始めたのである。水を掻き分ける音だけが、月夜の海の中にこだました。ふと振り返るとゴルトムント島は月で照らされた空と海に挟まれて、真っ黒に見えた。誰もアナンの旅立ちを見送る人はいなかった。

 アナンはどこまでも果てしない孤独な世界に、一人ぽつんと残されたことを痛感していた。アナンがこの孤独な旅に耐えることができるのか、それは全くわからない。この舟に積んだ十日ほどの食料が尽きるまでに、どこかに辿り着くことができるだろうか。それもわからない。これほど先が見えない旅なのに、アナンには不思議に不安はなかった。


 アナンはアンディの書いた日記帳をそっと胸に当てた。今はアンディこそがアナンの守護神だった。このノートさえあれば、アナンにはどこまでも信念を貫くことができるような気がした。

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