十二

 アナンはノートに書いてあったことを一気に読んでしまった。

 ここに書かれていたことは全く信じ難い内容で、アナンにはあまりに衝撃的だった。この島では何百年もの間、人が人によって殺されたなどという記録は残っていない。ましてや、その苦痛に耐えかねて自殺した人間の心境はアナンには全く無縁であり、想像し得ないものであった。

 アナンはこの日記の内容を自分なりに解きほぐして理解しようと努めたが、そのあまりの内容の重さに目が眩みそうであった。アナンは苦悩の末、自殺したアンディのその最期の気持ちにずっと囚われていた。本当にファーストビジター達は、この島に元からいた人々を殺す必要があったのだろうか。これが解決されぬ限り、アナンはこの島の幸せがまるで砂上の楼閣のように崩れていってしまう気がした。不幸の上に成り立つ幸福などあり得ない、アナンにはそのようにしか思うことができなかった。

 もう少しゆっくりこの日記の内容について考えるべきだとアナンは思った。もうすっかり夜は更けている。まずは早く家に帰らなければならない。海岸線は月の明かりを浴びながら、美しくも妖しい光を放っている。夜の風景は、こんなにも毒気の強いものだったろうか、とアナンは思った。全てが明るく健康的な昼間の世界と対照を成している。こんな夜遅くまで起きている人はこの島にはいないだろう。夜の闇は、自分の思考さえ何かしら不穏な方向に持っていきかねない。これ以上、何か深刻なことを考えるのは良くないような気がした。

 アナンは家に着くと、まだ家族が寝静まっているのを確認して、音を立てないように気を付けながら、自分の床についた。しばらく興奮して眠れなかった。目を瞑っても、想像の中で勝手に膨らんでいたアンディ、シミック教授、ブラウン助教授、そしてキャシーの姿が頭に浮かんでくる。シミック教授はアナンの頭の中で、恐ろしく大柄で怖い目つきを持った人物としてすでに固定化されていた。

 その夜、アナンは夢の中で、シミック教授から刃物を与えられ、ユディを刺すように告げられた。仕方なくユディの元に行くと、そこにいたのはカレルだった。今ここで刃物を使ってカレルを刺さなければならない。後ろから殺せと命じるシミック教授。しかし、アナンはどうしてもカレルを刺すことができない。「ダメだ、できない」と大声を上げたところでアナンは目が覚めた。


 早朝にもかかわらず、アーロンはすでにヤナのところに出かけていた。ヤナはすでに危篤とのことで、ここのところアーロンは彼の親族と一緒に看病を続けている。

 今朝起きたところで、アナンはこのノートをアーロンに手渡すつもりだったのだ。もし、朝アーロンがまだ家にいれば、あまりの事の大きさに、この日記の内容をすぐにアーロンに話してしまったかもしれない。そのあては外れたが、アナンはしかし、段々とこのノートをアーロンに渡すべきではないと考え始めていた。

 その日、アナンは農作業中もそのことばかり考えていた。

 このノートに書かれていたこと、それはアンディが冒頭に書いたように、伝えてはいけない歴史なのではないだろうか。だいたいこの日記は誰にも読まれないまま、永遠に葬り去られるはずだったのではないだろうか。この島の歴史は本来、無人島から始まるべきだった。今も村の人々はそう信じて疑わない。

 ファーストビジターは自らの手で、この島を切り開き、農耕を始めて、生活の基盤を作り上げた。これが村人の誇りだ。ファーストビジターの記録はほとんど残されていないが、村人は最初にこの村を作った彼らを心より尊敬していた。もし、村にキリスト教の教会がなければ、ファーストビジターはこの村を守る神様として崇められたに違いない。実際、教会には十九人のファーストビジターの名前が石碑に彫られており、多くの人々がその場で祈りを捧げる。キリストへの祈りは、普遍的でかつ個人の心にありように対するものであり、ファーストビジターへの祈りは、豊作の願いと村全体の繁栄に対するものと人々は使い分けている。

 アナンは今や、ファーストビジターの恐るべき事実を知ってしまった。今まで村の人々が神格化していた彼らの赤裸々な生活や、その末に起こった惨劇は、村人の想像を一から覆すものになるだろう。それは、この村全体にどんな影響を与えるだろうか。

 アナンはまだ若かったから、両親が熱心に教会に通い、心の底から祈っている姿を見ても、そこまで神様にすがろうという気持ちがあまり実感出来ない。しかし、所帯を持ち、歳を重ねるに従い、守るべきものが増える。そうすれば、きっと両親が神様に祈りたくなる気持ちを理解できるのではないかとアナンは漠然と思っていた。

 だから、守り神として村人が信頼していたファーストビジターのこの事実を知ったとき、村人の精神的なショックは極めて大きいのではないだろうか。慰霊祭の習慣も、ファーストビジターやこの島を切り開いた人々に対する畏敬の念から起こった、などという話は疑わしい。先住民を殺害した九月一日という日付が、慰霊祭の日になっていることからそれは容易に想像できる。アンディでなくても、ファーストビジターにとって先住人たちの祟りを恐れる気持ちは、どうやっても払拭しきれないものであったに違いない。そもそもこの村に語り継がれている魔物伝説こそ、この惨劇の記憶から生じているものではないだろうか。しかし彼らは魔物などではなかった。れっきとした人間だったのだ。

 考えれば考えるほど、アナンはあのノートを村の誰にも読ませてはいけないという結論に達せざるを得なかった。このノートに書かれた内容は、自分が心の中にしまい、死ぬまでこの村で話してはいけないのだ。それだけの十字架を背負ってしまったのだ、とアナンは自分に言い聞かせた。しかしそれ以上に、自らが知っていることを一生話してはいけないという誓いがどれほど大変なことか、それを考えるとアナンは気が遠くなるのだった。


 夕方遅くになってアーロンが帰ってきた。帰ってくるなり、アーロンはアナンを探し大声で叫んだ。

「おい、アナン、どこにいる。ちょっとこい。大事な話がある」

 その日アナンは、ノートのことで頭がいっぱいで作業に集中できず、随分へまをやらかして、仕事を切り上げるのが遅くなってしまった。アナンが家に帰ってきたのは、アーロンが帰宅するほんの少し前だ。アーロンがアナンを呼んだとき、アナンは仕事の疲れのために、自分の部屋で少しうつらうつらしていたところだった。しかし、アーロンの声で朦朧としていた意識はすっかり吹き飛んだ。心に何やら不安がよぎる。

「──父さん、何」アナンは部屋を出て、アーロンのところまで行った。

「アナン、ちょっとこっちに来い」アーロンは部屋を見回し、母や弟が居るのを確認した上で、家の外の離れまでアナンを連れて行った。わざわざ、こんなところに連れてくるなんて一体何の話だと、アナンは益々不審に感じた。

「ザハールがさっき私のところまで来て話してくれたんだが、アナン、お前、おととい森の奥で見つけた金属の箱から、何か薄い本を持ち出したそうじゃないか。カレルから話を聞いたらしいぞ」

 突然心臓がバクバクと高鳴る。アナンはそれを悟られまいとするのに精一杯だった。

 今日一日かけて、ノートの内容をこの島で一生人に話さないという決心をしたつもりだったのに、まさかこんな形であっという間に露見してしまうとは。カレルがわざわざそんなことをザハールに言ったことも、アナンにとっては信じられない気持ちであった。

「アナン、どうなんだ。父さんたちが回収したものが全てではなかったのか。あの中から、お前が勝手に何か持ち出したのか。もしそうだったら、父さんはそれを回収しなければならない。それが村の掟だ。我々長老が、その中身を吟味し、しかるべき処理をしなければならん。お前が勝手に読んだり、ましてや処分することは許されないんだぞ」

 どうしたらいい。アーロンに全てを話して相談を持ちかけるか。アナンは再び迷った。アーロンだってこの内容を読めば、そのまま長老のところに持っていこうということにはならないかもしれない。そして、アナンと同じように、このノートを永遠に封印しようという結論に至るに違いない。秘密は二人で保てばよい。

 しかし、それならばアナン一人が貝になって何も言わなければいいのではないか。秘密はそれを知る人が多いほど守られるのが難しくなる。それならば、なぜアーロンに言う必要がある。アナンは絶対的な存在感を持つ父と対等に渡り合いたかったのだ。ここでアーロンに助けを請うのは、アナンにとっては敗北を意味していた。結論が同じなら、アナンが頑なに何も言わなければいいのだ。

「──アナン、どうした。なぜ、何も言わない」アーロンは畳み掛けてくる。

 アナンはひたすら無言を通そうとした。アーロンは詰問するようにアナンの目を見つめた。アナンはその視線を避け、ひたすら床を見つめている。

「いったい、どういうつもりだ。アナン、何も拾わなかったのなら、そう言えばいいんだ。お前は何か拾ったのか。そう黙っているということは、拾ったということか」

 そうだ、最初からそんなノートのことは知らない、と言えばよかったのだ。アナンはそれに思い至ってひどく後悔した。あとは、カレルにさえ黙ってもらっていれば。しかし、時は既に遅かった。アナンは黙秘戦法を一度取ってしまったのだ。いまさら、とぼけた顔でそんなノートのことは知らないといっても信用してもらえないだろう。

「アナン、何か言ったらどうだ。アナン、アナン」

 アーロンは声を荒げた。今にも手が飛んできそうな雰囲気だ。少し短気なアーロンはいつもならもうアナンを殴っていたに違いない。しかし、長老になってからアーロンは少し変わった。今も、こぶしを握り締めながら、その想いを必死にこらえているようだった。

 何も言わないわけにはいかないと思った。このまま、アーロンと口を利かなくなるというのは悲しすぎる。しかしノートの内容のことは口が裂けても言ってはいけない。

「──父さん、僕は話すわけにはいかない。見逃して欲しい」

「どういうことだ。なぜ話せない。お前は長老の息子だぞ。私がお前を見逃してみろ、私は長老失格ということになる。いくら親子といったってきける話ときけない話がある」

 アーロンが許してくれるはずもない。アナンは依然として、この事態をどう収めたらよいか全く見当がつかなかった。

 突然、アーロンはトーンを下げて囁き声でアナンに問いただした。

「──アナン、何か見たのか。何かまずいものでも見たのか」

 図星だったアナンは、思わず顔を上げてアーロンの顔を見てしまった。咄嗟に、しまったと思った。アナンはすっかり狼狽して、視線をあちらこちらに泳がした。

「アナン、何を見たのか言えないのか。なぜだ……。それはとてつもない責任感のせいなのか? お前が、それを言ったら大変なことになると考えるからか?」

 もはや、アーロンには全て悟られてしまった。アナンがファーストビジターに関係する何らかの情報を仕入れたことはアーロンにはもちろんわかったことだろう。それを長老に提出することをためらうということは、それなりに理由があるはずだ。アーロンはもはや、そのように納得するしかなかった。長い沈黙の後、ようやく重々しく口を開いた。

「アナン、わかった。もうこれ以上、お前には聞かない。お前は何も持ち出さなかったということにしておく。

 だがな、その全ての責任はお前が負うんだぞ。お前が隠し続けるその責任は、お前自身が負うのだ。それが大人のやることだ。この村の大人としての生き方だ。わかったな」

 アナンはうなだれた。結局、父の方が一枚上手だった。このままで本当にアナンはこの秘密を一生隠し通せるのだろうか。いつか、アーロンに話してしまう日が来るのではないだろうか。そう思うと、アナンの心は果てしない暗闇に覆われてしまうのだった。

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