第二章:日向と日影が交わるとき 6

 円珠庵は、天王洲の空き倉庫に置かれたソファーに腰かけていた。その対面には、鷹の瞳で古い装丁の書物を眺めるフェリクスがいた。その他には誰もいなかった。


 連れ去る際にフェリクスが述べた通り、説話魔導師らは円珠に対して害することはなかった。むしろ新たな同胞として彼女を温かく迎え入れた。そして、そんな彼らは先ほど魔法転移でどこかへ行ってしまった。唯一残ったのが眼前にいる鷹の男だった。


 発する圧は人間のものではなく研ぎ澄まされた野生のそれ。纏う空気は人外でどこか虚ろのよう。超高位魔導師へ抱く畏敬にも似た念を、既に円珠はフェリクスに感じていた。


 おずおずと円珠はフェリクスへ声を掛ける。


「あなたは、行かないんですか?」


 傷跡だらけの顔を上げたフェリクスが笑む。


「なに、俺としても行きたいところなのだがな。ニコラめが先陣を切りたいと言う。ならば長として任せるまでよ。花道はあやつらが用意してくれる。だが、ただ待つ身は焦れるのでな、こうして書から眺めている」


「心配じゃないんですか?」


 円珠の問いにフェリクスは当然の摂理のごとくに答える。


「我らは既に死んだ身。なれば何を臆することがあろうか。未来の説話のために我らは死の道を逝く。そなたが説話に新たな芽吹きを齎すのだ」


「私に、何をしろっていうんですか?」


「なに、我らが説話の未来を作る。お前は心配せずとも良い」


「失敗したらどうするんですか」


「知れたこと。お前に罪などない。こたびの戦にそなたは無関係なのだからな」


 円珠はぞっとした。フェリクスの考えが彼女には理解できなかった。


 無関係だが無関係ではない。円珠庵は説話魔導師だ。そして、この事件で説話魔導師は生きるか死ぬかの革命を起こした。それは生死の問題だけでなく、未来での社会的生死すら決まる。負ければ生き延びても社会的には死ぬのだ。直前まで一般人だった彼女にとって、それは死よりもつらい運命だ。


 円珠にとって、もはや先に見える未来は絶望しかないように思えた。説話魔導師が勝てる未来が想像できなかった。


 たった二十数名あまりで、世界に戦いを挑む馬鹿がどこにいる?


「こんな、こんなことになるなら魔法使いになんかなりたくなかった!」


 円珠は顔を覆って嘆いた。こんなはずじゃなかったと絶望に身を堕とす。フェリクスはそれを眺めると、そっと本を閉じて口を開く。


「俺は以前弟子を何度か持っていたのだが、どいつもこいつも小生意気な小童どもよ。お前のようにか弱い娘は初めてでな、どう導いて良いのか分からん。俺は戦いしか知らぬ凡愚ゆえ、お前の不安など拭ってやれるだけの甲斐性がない」


 鷹の男が困ったように笑った。フェリクスは《連合》時代から戦い続けた男だ。見た目こそ四十代だが、実年齢は七十を超える。ふたりの関係は、例えるなら祖父と孫だ。元々違う価値観に歴史が重なれば、より大きなすれ違いを生む。


「少し昔話でもしよう」


 フェリクスが新たな書を取り出した。書が淡い燐光に包まれるとひとりでに浮いて開き、頁がまくられる。頁はまっさらだった。だが、猛烈な勢いで文字が書かれていく。魔法で記憶を書に書き写しているのだ。


 指の隙間からその様を見た円珠が目を見開く。ようやく人を傷つけない説話魔法を見ているのだ。それを行っているフェリクスは、まるで息でもするかのような当たり前のごとき自然体だった。これが超高位魔導師の魔法だ。


 超高位魔導師は、手足を動かすように魔法を使う。


「どれ、このくらいか。あまり見られても恥ずかしいのでな」


 頁が巻き戻る。一頁目に戻った書から、放射状に光が溢れた。燐光が世界を作り出す。直径四十センチメートルほどの半球状に展開された世界は、西洋の景色を作り出していた。そこには、かつてのフェリクスとひとりの少年がいた。少年の歳の頃は十代前半か、茶髪の前髪から覗く瞳には力強い光が宿っていた。


「これは何年前だったか。因果体系の少年を教えていたときの景色よ。場所はアルザスのストラスブール」


 くつくつとフェリクスが笑う。


「こやつめ、魔法で己が家族から捨てられてな。魔法を憎んでいた。だというのに、魔法で人々を幸せにするのだと息巻いておった。おかしな奴だろう? 俺の他にも師はいたゆえ、あまり教える機会はなかったが、命の息吹を感じる良い眼をする童だった」


 場面が変わる。どこかの射撃場だろうか。遠方にある円状の的に、少年が拳銃を構えて引き金を引いていた。奇妙な光景だと円珠は思った。魔法使いが武器を使っているからだ。彼女の表情を読んだフェリクスが呵呵と笑う。


「やはりお前も不思議に思うか? こやつ、魔法使いで初めて銃器を使ったのだ。こやつのもうひとりの師が変わり種でな? 二十一世紀だというのに刀一本と魔法で戦う、まことにおかしな奴だった。そやつが考案したのだ」


「刀、ですか? 二十一世紀ですよね?」


「おうよ。たかだか三十数年前の話よ。当時は魔法も古の産物ではあったが、刀もそうであった。折角だ、教えよう。その師というのは、オーバン・ラロという。この童を拾ったのがオーバンだな」


 場面にひとりの男が現れる。サングラスをかけた大男だ。恰好は黒い革のジャケットにジーパン姿。確かに、ベルトに日本刀を挿していた。明らかに恰好からして浮いている。


「笑え笑え。こやつめ、刀に取りつかれた阿呆でな。生まれる時代を間違えた愚か者よ」


 見れば見るほど変な光景だ。片や魔法使いなのに拳銃を撃ち続ける少年。片や刀を持って少年を眺める大男。それが二十一世紀にあった光景なのだから、色々とちぐはぐだ。


「それでこの童だが、結局魔法の道へ進みおった。当時因果体系は不遇でな。使えない魔法体系だと揶揄されておった。あまつさえ、拳銃を使って戦うのだから、他の魔法使いからは邪道扱いされておったよ」


 フェリクスの瞳には懐かしさがあった。己自身でも回想するようにまぶたを閉じる。


「その子は、どうなったんですか?」


 円珠の問いにフェリクスは目を開き、口端を吊り上げた。


「驚け。いまでは第九にまで駆け上がり、ASUの精鋭部隊、重犯罪魔導師対策室の室長をしている。名はラファラン・ラロという」


 円珠はかすかにだが聞いたことがあった。


 魔法世界が具現する以前の魔法社会は、いまよりも更に過酷だった。フランス国家と裏で繋がり、世界の恒常性をかいくぐって作った僅かな資源、そして血がにじむ努力で生み出した技術を提供し、資金を得ていた。そして、いまよりなお魔法使い同士で争い、血で血を洗う毎日だったと。そんな時代に、自分よりも歳の若い子どもが、そして同じく不遇とされる魔法体系でありながら、愚直に魔法使いの道を進んだのだ。驚かないわけがない。


「俺は今日、そやつと戦うかもしれん。かつての弟子に討たれるやもな。さすがに俺にこいつは殺せん。こいつはいまのASUにおいて、真っ当な人間の価値観を持つ数少ない魔法使いよ」


「なら、なぜ戦うんですか? かつての弟子と戦うかもしれないと分かっていて、なぜ……?」


「なにもせぬ凡愚より、せめて動く凡愚でありたい。それだけのことよ」


 フェリクスが書を閉じる。魔法で作った世界が消えた。


「俺はもう説話が堕ちる様など見たくはない。同胞が未来を絶望し、犯罪者となっていく様を見るのは耐えがたいのだ。魔法は神秘の力だ。ならばせめて、万人の未来を明るく照らす奇跡となってほしかった。だが、そうはならなかった。そうはあれなかった。それは我ら《連合》時代の魔法使いの責任よ。なれば、せめて俺だけでも、未来の説話らに証を残したい。たとえ討たれようと、希望を残せるのであれば、俺にとってはなによりも代えがたい死出の花道となるだろう」


 フェリクスが立ち上がる。


「なに、俺の我儘だ。なんの正当性もありはしない。いまの世を生きる魔法使いたちには悪いとは思っている」


「なら、説話の者たちを止めては下さいませんか?」


 突然、第三者の声が庫内に響いた。ブリジットだ。いつの間にか翡翠色をした妖精がふたりの前に飛んでいた。声はそこから発せられているのだ。


「シャーロットの甥っ子か。随分と早いな」


「その伯母上から場所を教えてもらったのです」


 フェリクスが愉しそうに笑った。


「そうか、シャーロットが動いたか。その不幸な贄はお前の配下か?」


「午前に会っていますよフェリクス殿。刀を使う錬金魔導師。八代弓鶴といいます」


 ほぉ、とフェリクスが感嘆を露わにする。


「確かにいたな。オーバンの再来か。そういえば、目はどことなくラファランに似ていたな。そやつは来ていないようだが、どうした?」


 フェリクスが開いた書に目を落としながら言った。説話魔導師は、自身の周囲に起こっている出来事を書に記すことで視ることができる。簡易的な千里眼だ。


 倉庫の扉が開かれる。春の香りが庫内に舞い込む。中に入ってきたのは、ASUの三人の魔法使いだった。円珠を警護していたブリジット、ラファエル、オットーだ。


 子どもではなく大人姿となったブリジットが、一歩足を踏み出し部下の前に立つ。


「弓鶴はアイシアの救出へ向かいましたよ」


「ほぅ、仕事を棄てたか」


「ええ、どうやら仲間を守りたいようでして」


「なるほど。そこまで魔法使いのあり様から逸脱しているか」


 そう言ったフェリクスは嬉しそうだった。彼は一般的な価値観を持つ魔法使いがいることを喜んでいるのだ。


「エルヴィンめ、存外に苦戦することになりそうよ。だが、これでラファランを呼び出すきっかけがひとつ減ったな」


 ブリジットの瞳に怪訝の色。


「あなたは、ラファラン殿に討たれたいのですか?」


 フェリクスが肩をすくめる。


「まさか。そこまで死に急いてはおらぬ。だが死ぬ前に会話のひとつでもしたいと思ってな」


 ブリジットが眉をひそめる。


「フェリクス殿。あなたは言っていることが滅茶苦茶だ。本当は一体なにがしたいのです? 説話の未来のためといいながら自ら首を絞めることをやっている。まるで説話と心中でもするかのようだ」


「無論、説話の未来を切り開くためだ」


「フェリクス殿、はっきり言わせて頂く。これは自殺行為だ。負ければフェリクス殿は討たれ、説話魔導師の未来は本当に閉ざされる。そんな簡単なことが分からないあなたではないだろう」


「何をかいわんや、負けねばいいだけの話」


 フェリクスの科白にブリジットが目を剥いた。戦力差を理解していないはずがないフェリクスの言葉とは思えなかったからだ。


 過ちの道を突き進むフェリクスへブリジットが叫ぶ。


「あなたは絶対に負ける。《二十四法院》すら敵に回した。ASUは全力であなたを、そして説話を叩く。そこには滅びしかない!」


「おうおう吠えるな童よ。ASUの全力とな? 結構ではないか。この俺をそこまでの敵と認識したか。これほど魂を震わせることはあるまいて」


 フェリクスの言葉には説話への未来など感じられない。ただただ華々しく命を散らすことを切望する武人だ。時代が時代ならばそれも良いだろう。だが、この二十一世紀の世で受け入れられる価値観ではない。


「あなたは、狂ってしまったのか……?」


「狂っている? なにを今さら。我ら魔法使いは狂っている。そんな常識すら忘れたかブリジット。俺は正しく狂っている。俺も、お前も、ASUもだ」


 さて、とフェリクスが両手を広げる。まるでもう、話し合いなど終わりとばかりに。三人が即座に臨戦態勢になる。


 フェリクスが獰猛な笑みを浮かべた。それは、人間のものではない野生の笑みだ。


「前座だ。遊んでやろう。胸を借りるつもりでかかるがいい」




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