【十六】


 乗っている車両にはあかりを含めて五人しかいなかった。

 尾行者らしい人物はいない、と思った。

 窓の外に目をやる。進行方向の左側には山あいからとびとびに田園が覗き、右側は緑の濃い山々が続いている。時折集落らしい民家の一画が窓の外を流れ去って行った。山が切れると窓から入ってくる日差しが車内の冷気を蒸発させるような熱量であかりの腕を熱くした。

 列車が減速する。車内放送が素っ気なく駅名だけを告げた。

 みつるが言っていた北野張の駅を過ぎてもう三つめだ。だんだんと山の奥深くに入って行くような気がする。

 停車した、扉が開く。誰も降りず、誰も乗ってこない。

 合図もなく扉が閉まる。ごとっと一度揺れ、列車が動き出した。


(ジュディ……大丈夫かな)


 指定された新高村駅に着いた。降りたのはあかり一人だ。


 ホームが一つしかない。線路の両側にのしかかるように山が迫っており、太陽は山の陰に隠れていたため駅全体はすでに日陰になっていた。

 頬を撫でるわずかな風は涼しく、山地特有の緑の匂いがあった。

 周囲を見まわして少し不安になった。

 ホームの端を下に降りて線路を渡る。越えたところが改札になっていた。駅舎とは名ばかりの掘っ立て小屋だ。ひと気はない。

 券売機の前に木製のベンチがあるだけの出口を抜けると、車が転回できる程度の砂利敷の広場。その先は幅十メートルほどの道路に面している。道に車の姿はない。

 携帯を取り出し、みつるの番号にかける。呼び出し音が三度鳴っただけで相手が出た。

「着いたわ」

 辺りに目を配りながら言った。

「迎えが行く。その場所で待っていろ」切れた。


 改めて振り仰ぐ。山の緑は深く、その暗さは立ちふさがる闇の壁のようだ。。

 悲鳴のような鳥の声がする。道には一台の車も通らない。不安が襲ってきた。


(これから、どうなるんだろ)


 ――つかまったら殺される。


 ジュディの言葉を思い出した。風呂での会話がもう何年も前のような気がした。

 あの時にはなんの実感もなかったが、今現在この場所にいるのは、その『敵』におびき出されたからなのだった。

 かすかに手が震える。指を噛んだ。


(みつるを助けなくちゃ)

 今はそれだけを考えることにした。


 十五分ほどで、道路を近づいてくる車の音がした。そう遠くない場所で待機していたに違いない。そう思った。

 白いセダンの後にグレーのワンボックスが続き、広場の前で停まった。

 緊張しながら近づいていく。セダンの助手席の窓が開いて、浅黒い男が「後ろの車に乗れ」と言った。

 ワンボックスの後部ドアのノブに触れると軽い音がして扉が横に滑った。

 南米系と思われる、口ひげを生やした男が銃を腰だめに構えていた。

「乗れ。妙な真似はするなよ」

 七人乗り。運転手が一人。

 後部座席にはネコがいた。ちらっとあかりの顔を見る。無表情だ。



 あかりがふっと笑った。

 ネコの目に一瞬おびえたような色が浮かんで、すぐに消えた。


 あかりが乗り込むと扉が閉まり、前にいるセダンに続いて走り出した。







「車が動きました」壁側のモニターに顔を近づけている隊員が言う。「衛星画像はどうだ」

「捉えてます、感度良好」別のモニターを操作している隊員が答える。

「『ブルトン』、追跡モード続行。バッテリー残量六十パーセント」

 別の隊員がキーを操作しながら言った。

「ズームでナンバーを記録して。本部に照会させてちょうだい」

 二人がけの席に一人で座っていたギイが言いながら、インカムを動かした。

「トキ、見えてる?」

「はい、見てます」スピーカーから声がする。

「先回りできないかしら」

「一本道だから無理ですね。とりあえず今はそちらの『目』だけが頼りです」

「仕方ないわ。今どこ?」

「宇都宮から北へ向かってます。山側から回り込むルートを使います」

「『視界』からははずれないわね?」

「お任せください」トキの声が少し笑いを含んだ。


「――あの車、ネコが乗ってますね」

 別の席で手を組み、目を閉じているジュディが言った。ギイがちらっとジュディを見た。

「ワンボックスの方?」

「はい」ジュディが頷いた。

「そう――やはり手引きしたのはあの娘ね」

 宙を見据えた。

「こちらも移動を開始します」隊員が言う。「とりあえず西へ向かえ」ボタンを押して運転席に指示を出す。

 少し揺れて車が動き出した。


 ギイたちが乗っているのは偽装した移動基地だった。外観からは窓をシールした観光バスにしか見えない。

 敵の二台が走っている県道と山ひとつ隔てて平行した別の県道を使っていた。


「どこへ向かう気かしら」

「あの先は当分山が続きます。県道自体は途中で分岐してますが、南へ行けば日光方面へ抜ける国道。もし北側を行ったとするともう二つ山を越えたところに量子研究所がありますね」

 別の画面を見ながら隊員が言った。ギイの眼が光った。


「――量子研究所?」







 誰も口をきかなかった。もう一時間近く経つ。

 道を走っているのはこの二台だけだった。

 山肌を這うようにカーブが続いている。窓から見えるのはどこまでも続く原生林だ。山頂に近づくと西日が容赦なく顔を焼く。冷房が弱いせいか多少蒸し暑さを感じた。

 右左に揺れるカーブの連続で少し気分が悪くなってくる。

 元来乗り物には強い方なので吐くまでには至らないが、風が欲しくなってきた。

「窓、開けてもいいかしら」

 前を向いたまま、男の顔を見ずに訊いた。

「だめだ」男がにべもなく言う。

「逃げやしないわよ。窓開けて叫んだって誰もいないんだからいいじゃない、こんな山の中。熊でも呼ぶの?」

 口を曲げた。

「うるさい。だめだ」

「けち」

 ネコが新幹線で酔ったのを思い出した。

、車は平気なのね」

 あさっての方を向いて素っ気なく言う。

 背後で身じろぎする気配がしたが、ネコは無言だった。

「黙ってろ」男が銃をちらつかせた。

 あかりはふん、と鼻を鳴らして横を向いた。

 意識して『鍵』はかけていた。

 男たちの思考を読んだところでろくな結果にはなりそうもないし、ネコは心を閉じているだろうから覗いたとしても何も読めないと思ったからだった。


 山頂近くを過ぎ、下りのカーブが続く。植生が変わってくる。山裾近くはもう日陰だった。

 左右に杉林が広がり、道が直線に近くなってきた。相変わらず後続車も、対向車もいない。

 ぼんやりと杉林に目をやる。永遠に林が続いているようだ。頬にかすかな風を感じる。こんな旅でなければ気分もいいだろうに、と思った。


 ――え、風?

 慌てて前を向く。


 前を走るセダンが急に速度を上げた。

 みるみるうちに距離が離れていく。

「前、どうしたんだ」運転している男が前のめりになる。隣の男が右手に銃を持ったまま、左手でポケットを探ってレシーバを取り出しボタンを押す。

「エンリケ、どうした。――おい、返事しろ」

 答えはない。

 車はぐんぐん離れていく。

 

 まさか。

 あかりは『鍵』を外し、前の車に意識を集中した。


 眼前に真っ赤な荒野が広がった。

 地平線にたなびく砂煙。

 車の運転席から見える風景。全速力で突進している。

 右を向く。隣に車。その向こうにも車。車、車、車。左側にも車。同じようにどこまでも続く車があらん限りの速度で走っていく。

 砂煙が近づいてくる。形がぼんやりと見えてくる。

 地平線を埋め尽くし、物凄い速度で近づいてくる横一列に並んだ車。

 みるみるうちに距離が縮まっていく。


 頬を両手で押さえ、息を飲んだ。ぶつかる!

 目を閉じ、同時に心を閉じた。


 ばきいん、と遠くで金属が割れる音がした。目を開く。

 ワンボックスが急に減速して止まる。運転手がドアを開けて飛び出した。

 ガラス越しにセダンが直線道路の彼方のカーブでガードレールを突き破って、スロー映像のように向こう側に落ちていくのが見えた。

 運転席の開いたドア越しにばきばき、と木の折れる音が延々と続き、やがて水音と同時に重いものが潰れる嫌な音がした。

 二人の男はしばらく呆然とそれを見ていた。

「あっち、谷底だぞ。どうなってんだこりゃあ……」

 隣の男があかりに向き直った。銃を突きつける。

「おまえか? ――おまえがやったんだな!?」

 銃で腹をつつかれながら、あかりは前を見ていた。

「ちがうわ」

 男に目を向ける。視界の端にネコのひきつった表情が見えた。


「――『レイジ』よ」




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