第二夜 花燻リ

 網戸越しに流れてくる湿気った生ぬるい風。時計の針が頂で重なって久しい時刻だが、一向に雨はやまない。本降りは過ぎたようで、今は軽く地面を撫でるような音をぼーっと聞いていた。屋根が薄いからか、頭のすぐ上を水が流れているような気がする。


 鱗粉を散らして蛾の舞う天井を呆然と見つめて木目が人間の顔に見えてきた頃、放心状態のまま、どうやら自分は風呂を済ませていたということに少年は気付いた。


 夏とはいえ、雨に濡れたら風呂で温めるというのは実に祖母らしい発想で、ずぶ濡れになって帰ってきた少年は、食事の前に風呂へと入れられた。

 伸びてしまっては勿体ないから、と祖母は茹でた分の蕎麦を一人で平らげ、少年が上がったのちにもう一度茹でた──らしい。


 湯船に浸かり、身体を洗って、もう一度湯船に浸かってから外に出る。髪の水分を銭湯土産のタオルで拭い、ただでさえ蒸し暑い空気の中でドライヤーを使った。


 記憶喪失というわけではない。しかし、はっきりと覚えているわけでもない。ただ放心状態である、とそう表すのが最も適当に思える。

 疲れて帰ってきて、気を失うようにベッドへ倒れ込んで朝を迎えたが、無意識のうちに寝間着には着替えていた──そんな感覚に近い。


 畳の上で寝返りをうち、右腕を枕に両膝を畳む。

 放った心がどこにあるのかといえば、それは当然あのバス停だろう。今日の夕暮れごろの出来事、ついさっきの記憶は随分と遠く、昨日か一昨日のことのようだ。


 そっと左手を己の首筋から肩へと這わせる。夢じゃない。確かに触れられた感覚がある。ほんの一瞬の間、は隣に座っていたのだ。

 濁りも無ければ光も無い、黒い双眸が頭から離れない。わずかに掠れ、それでいて心地よい声が耳孔の奥底で響いている。


 しかし、やはり不自然だ。どう考えてもこの集落に、あんなにも幼い少女がいるとは思えない。最後にこの地域を訪れたのは少女と同じくらいの年頃──小学校の時であったような気がする。面倒くさそうな母の横顔と車窓から覗いた同じ景色を覚えている。きっと今の季節と同じような夏。盆参りの時期のことだ。


 その頃からこの村は変わらない。新たに子供連れの家族が住まう地としては、お世辞にも便利とは言えないし、候補にも入らないだろう。

 自分と同じく、盆で帰省したと考えてみればどうだ──いや、直近のお隣さんでも数キロ単位で離れている。何の目的かはわからないにせよ、少女が一人で歩いてきたとは考えにくい。

 

 ──じゃあ、あの少女は


 雨の音が五月蝿くなる。風が強く吹いたのか、網戸に付いた水滴が大きく膨らんで部屋の中へと垂れてきた。

 なんとなく立ち上がるのが億劫で、足を伸ばしてつま先で窓を閉めた。続けて障子に親指を引っ掛けて、蹴るように滑らせる。木が湿気を吸って膨らんだからか、あるいは蹴って敷居から落ちてしまったのか、完全に閉まることなく隙間を残して止まった。

 ガラス戸が閉まっていれば、雨が入ってこなければそれでいい。

 お隣さんは数キロ単位で離れているのだ。どうせ誰かから見られているわけでもないから、障子をきちんと閉める必要もないだろう。それすら怠い。眠い眠い。


 しかし、そう思いつつも生じた隙間からは得体の知れない視線を感じる。立ち上がって、しっかりと閉めた。

 振り返って押し入れを開く、ほんの少しカビ臭い。敷布団を抱き上げて畳の上へ。


 ──今日は、もう眠ろう。


 きっと疲れているのだ。考えて結論のでない問題ならば、考えない方が良いに決まっている。抗えないこと、どうしようもないことというのは、やはり存在する。だから、考えたって仕方がない。だから、考えない。

 意味もなく指の関節を鳴らしていると、小さく欠伸がでた。反射的にまばたきすると、涙が押し出される。

 無理にでも眠ろうと思ったが、実際に身体は疲れを訴えている。


「喉乾いた……」


 布団に入る前、コップ一杯の水が飲みたくなるのは自分だけだろうか。本来の少年の部屋ならば、天然水のペットボトルないし緑茶が机の上に飲みかけで置いてあるから、それを飲み干して横になる。

 しかし、ここは自分の家ではなく、少年の部屋でもない。水道は一階の台所にある。日中に買ったラムネが残っていれば良かったのだが、そのラムネの瓶は──


 脳裏を過ぎる少女の表情。ラムネを一気に飲んで「辛い」と言っていた。印象的だった下駄の音が、からりころんと反響する。

 また考えてしまった。悪い癖だ。きっとラムネの瓶は畦道に忘れてきたのだろう。


 ふすまを開き、部屋の外へと出る。細い廊下は階段までの一本道。壁に触れてスイッチを探し、指先に触れた突起を弾く。ぱちりと乾いた音が鳴る──が、電気は点かない。

 小さく嘆息を漏らして、壁伝いに歩く。夏の廊下は裸足にひんやりと気持ちいい。


 やや急な階段を下り終え、居間を抜けて、台所へ。タイル貼りの床はより冷たく、冬の朝のように背筋が伸びた。

 ぴたん、ぴたん。ステンレスの洗い桶に張った水へと、蛇口から水滴が落ちる音だ。僅かに差し込む外の明かりと水音を頼りに、蛇口まで辿り着いた。


 すぐ傍のかごに、洗ったコップが逆さまに伏せられている。

 一つ手にとって蛇口をひねる。この集落の水はすべて井戸水だそうで、かなり冷たい。昇る水面が人差し指を超えたところで水を止め、口元へと傾けた。

 奥歯に少し痛みが走ったのち、乾いた喉から肋骨の奥を冷水が通っていく。この瞬間、なんとなく植物の根を連想する。


 空になったコップを軽くすすいでかごに伏せ、あの少女が居てはくれないか──うっすらと思いながら振り返る。勿論、そこに少女は居なかった。

 うすら寒い己の思考に嫌気が差して、少年は頭を掻きながら部屋へと戻った。


 今日はもう眠ろう。蒸し暑いから布団はかけない。タオルケットでいい。扇風機のスイッチを入れる。



 ○



 朝方のこと。とは言っても実際は午前三時に差し掛かるくらいのこと。


 一頻り雨を吐き出したからか、昏い橙色の空にはほとんど雲がなかった。家の前の古びた街灯が明滅し、今が朝なのか夜なのか判らず右往左往しているようであった。


 昨晩の雨には随分と驚いた。梅雨の時期は随分と前に抜けているはずだ。ニュースで言っていた。

 盆地なのに、こんなにも雨が降るのか。いや、盆地だから雨が降っているのか。地理で習ったような。復習しなければ、自分は受験生なのだ。


 ──と、最悪な思考から目が覚めた。冷めたと形容してもいい。


 一番最初に視界へと入ってきたのは、夜通し首を振っていた扇風機。購入した当初は真っ白だったのだろうけれど、今はプラスチックが劣化して黄ばんでいる。

 眠っている間にすっかり追いやられたタオルケットは、少年の足元で丸まっていた。ベッドでの睡眠に慣れている身としては、地面で寝ているような感覚に身体が休まらず、むしろ少し疲れたような気がする。


 なんとなく覚醒一番に手を伸ばしたのは、枕元に転がしていたリュックの中──スマートフォンだ。傾ければ自ずと光る画面を覗く。

 今の時間が知りたかっただけなのだが、それよりも先に視界へと飛び込んでくるのは『本番まであと150日‼ 弱い自分に打ち勝とうっ‼』という文字列。

 日付が変わるたびに、予備校から生徒へと一斉に送られるものだ。開眼して早々に嫌なものを見てしまった。


 どうして、人生で一番経験不足で、精神が不安定な時期に、人生の岐路に立たせるのか。


 勉強なんて結局は当人のやる気次第。周囲がいくら囃し立てたところで、結局は少年少女が動くどうか。それ次第なのだ。

 だから、やろうと思えば受験勉強を放棄することだってできるのだ。


「まぁ……やるけど」


 机に向き合っているのは癪だが、大馬鹿者でもいられない。故に、結局は勉強や成績にしがみついて結果を出すしかない。

 自分をこんな状況に貶めた元凶を抱いて歩かなくてはならないなんて、憎んだモノすらアイデンティティの一部に組み込まれていたなんて──なんて、皮肉な話だろう。


 何をやるにしても中途半端。


 結局のところ、その一言で自分という人間は表現できてしまう。なんと底が浅く、薄っぺらい人生か。

 悶々とした少年の心象を喩えるならば、ぬるい風が茹だりそうな空気をかき混ぜる残暑。まさに今の季節だ。


 こんな季節だから思考が堕ちていくのだろう。どうせならば、星の見える夜のほうがいい。わずかに涼しさを残した夏の初め、日が沈みかけた淡い橙色と濃い藍色が同居して、月や星が少しずつ見えてくるような──晴れた夜。


 夜でこそないが、雨上がりは少年の描いた空に近いモノがあった。


 まだ鳥も鳴かぬ早朝。吸い寄せられるがままに、靴も履かず外へ出た。完全に日が昇る前のひんやりと湿った空気。

 流れる雲の動きは速いが、一歩歩くたびに大気が押し流されてゆくのが分かるほど、風がない。

 ひどく澄んだ空で夕雲と朝雲が混ざり合う様は、自然と昨晩のことを思い出させる──


「おい、お前さん」


 からり、と乾いた下駄の音に続いて響く涼やかな声音。両の足が言うことを聞かなかった。少し遠く背後から確かに聞こえた──身体のすべてがその事実に動揺し、振り返ろうとしなかった。

 歓喜や恐怖とは全く違う感情。どうするべきかと悩み、硬直する思考を遮るように──


「おい、何を呆けておる。レデーを待たせるな」


 からからと、早足に音が近づいてきた。鼓動が高鳴り、下駄の音に裏拍を打つ。急かされるように息を呑んだ少年は振り返る。

 手を伸ばせば触れられそうな距離まで、少女は近づいていた。


 昨晩とは違う限りなく黒に近い藍色、喪服のような着物だ。しかし、相変わらず肩は余っている。立って向き合うのはこれが初めてで、少女の小柄な体格がより強く感じられた。

 今はまだ完全に日が昇りきる前。少年は玄関を背にしていたにも関わらず、急に背後へと現れた。やはり、この少女は普通じゃない。


 ふと、ここに来るまでに幾度か耳にした「もののけ」という単語が少女と重なる。普段ならば行き着かない思考ではあるが、この少女の放つ妖しさはその思考を後押ししてやまない。

 それならばこの状況は、逃げ道を塞がれたと考えるのが自然か。少年は僅かに半歩引いて身構える。


「何じゃ、じろじろ見おって。獲って喰ったりはしないよ」


 少女は薄く艶のある唇の端を持ち上げて、鼻で笑った。半歩下がった少年に対して少女は数歩ほど歩みを進める。

 来るな、と叫びたいところではあるが咄嗟に声が出ない。背中をチクチクと冷や汗が刺し、何かを吐き出しそうなほどに心臓が跳ねる。


「……忘れ物、じゃ」


 か細く儚げな声でそう言った少女は、着物の帯に挟んでいたラムネの瓶を取り出し、一挙一動に驚く少年へと差し出した。

 理解できずに硬直する少年へ「ん!」と、瓶を押し付ける。

 胸に押し当てられた冷たいガラスの感触。少女が握っていた部分は、ほのかではあるが温かい。


「中に入っているこのガラス玉──これは何じゃ?」


 己の腰へ握った拳を当て、少年が両手で胸元に握る瓶を指差す。決めポーズの様な姿勢だ。

 つられて少年は己の胸元の瓶へと視線を落とした。「ついでにその酒の銘柄も」と涼やかな声が付け加える。

 この娘は何を言っているのか。思考も言動も全く先が読めない。


「これは、その……蓋になってる」

 

 少年は、瓶をひっくり返して飲み口を塞いで見せる。ビー玉によって塞がれた飲み口を覗き込み、声を上げて感嘆する少女。


「なるほど……! 蓋か。小一時間考えても解らなかったワケだ」


 どういうワケなのか、そう切り返すことはできなかった。ただ眼前の少女が瓶を引ったくって、嬉しさのあまり飛び跳ねている様を眺めることしか少年にはできなかった。

 それでも、少女が喜んでいる姿を見て喜んでいる自分が居た。受験だとか、人間関係だとか、そんなことで鬱々としている自分とは全くの反対。

 ラムネの構造ごときを理解して本気で喜んでいる人間に対して、微笑ましさと羨ましさが湧いてきていた。


「それは、お酒じゃない。ラムネっていう、えっと……清涼飲料水」


「セイリョウインリョウスイ……?」


 からからと飛び跳ねるのをやめて、少女は怪訝そうな顔をする。聞いたことがない単語なのか。ますますわからない。

 散々はしゃいでいた自分が恥ずかしくなったからか、少女は一つ咳払いして瓶を少年へと返し、


「では、良いことを教えてもらった礼をひとつ」


 猫のような双眸で少年を射抜き、にっこりと口角を上げた。「昨晩、伝えそびれた事じゃが」と前置きしつつ、


「お前さん」


 少年の襟に人差し指をかけ、己の口元に少年の耳を寄せる。他に誰かが聞いているわけでもないのに、少女は声を潜めて、



「──今晩、死ぬぞ」

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