解剖心書

一時匣

第1話

「キミは本当にそれでいいのかい?」

男は問う。

「キミが選ぶ道は決して救済への道ではない」

 それでも、と男は再度問う。

「キミは知りたいと願うのか?」

知るということ。

 すべてを知るということは決して救いになるわけではない。

 そういった意味を男の問いは含んでいた。

「キミが知るものは深淵だ。深淵を覗き込む時、深淵もまたこちらを見ている」

かの有名なニーチェの言葉を引用して男は言う。

 そう、確かにその通りだった。男の言うことは正しい。

 これから自分が選び取ろうとするものは、茨だらけの林檎だった。禁断の果実は智慧を与えてくれるが、痛みをも知ることとなる。

 男はだからこそ、三度問う。

「キミにそれが耐えられるだろうか?」

 そう問うた男の不思議な色合いの瞳が、こちらを見ていた。

 否、こちらの心の裡(うち)をじいっと視ていた。

 視線を合わせているだけで、心の外殻を容赦なく切り開かれるような感覚がした。

 それでも自分は迷い無く頷いた。

 瞳は決して逸らさなかった。それが覚悟の印だった。

 暫く視線を交わしたあと、男は観念したように両手を挙げた。

「分かったよ。降参だ。そうだね。キミにはその資格も覚悟もあるようだ」

拳をぐっと握りしめる。そう、自分には覚悟がある。覚悟があると人はこんなにも心が静かになるのだと初めて知った。それでいて心奥には蒼く燃える炎を湛えることも。

 男は微笑みをつくった。うつくしいひとだった。ぞっとするくらいに。

 それこそ神が精緻に作り上げた、特別な人間のようだった。そんなうつくしい男は言う。

「おめでとう。キミはこれでぼくの依頼人だ」

男が手を差し伸べる。その手の指先まで至るまで、男は見事なまでにきれいだった。

 この手が天の使いに見せかけた悪魔であっても、もう構わなかった。

そして自分は男の手を取った。








 赤い蝶が、おんなの真白い腹の上でおおきく翅を広げている。

 鮮烈な赤だった。天高く、遙か高く、上空から眺めたらそれは確かに、一匹の蝶に見えたかもしれない。

 ただし蝶は室内にあった。

 そして蝶が翅を広げているように見えるのは、めくれ上がった人の皮膚だった。

 美しいおんなだった。死に顔も美しかった。奇妙な安らかささえあった。

 年のほどは二十代後半から三十代前半といったところだろうか。広々としたリビングで仰向けになり、長くつややかな黒髪は扇形に広がっていた。一糸まとわぬ姿の女の白い肌は青白く血の気がない。それが一層、その赤を引き立てていた。

 女の白い肌理の整った素肌。その腹は十字に切り開かれていた。切り開かれたその皮膚は四方向へと開いており、釘で留められ、標本箱の蝶の翅に似ていた。

解剖図のように丁寧に切り開かれた傷口からは、充血したような桃色の、内臓がのぞいていた。まだ潤いのあるそれは、てらてらと赤い血で濡れて輝いていた。女の両手首と両足首は結束バンドで拘束され、強ばったサナギのようにも見えた。部屋には濃い血臭が充満していた。死後一日ほどだろうか。まだそこまで経っていないだろうか。

 この凄惨な「殺人現場」で、遺体を見下ろした捜査一課の刑事――岩垣善男は苦々しく顔を歪めていた。体躯の良い岩垣は名字のように岩のような男で、角張った顎は怒りで強く噛み締められていた。感情は捜査の邪魔になる。刑事はそういうものだ。怒りに任せれば冷静に物事が見えなくなる。客観的に物事を見なければならない。けれど、岩垣の中にある正義が、これは邪悪だと叫んでいる。頭の中で幼なじみが忠告する。きみは本当に名を体にしたようなやつだと。それじゃあ見えるものも見えなくなる、とも。幼馴染みの、あの不思議な琥珀色の瞳はいつだって何もかも見透かすのだ。

 三件目か、と岩垣は小さく小さく呟いた。

 これで三件目の殺人だった。

 所謂、連続殺人。シリアルキラー。日本では珍しい猟奇殺人の類いだった。

 欧米ではかの有名なジェフリー・ダーマーやエド・ゲインなど、人種性別年齢問わず、こうしたシリアルキラーが名を連ねているが、日本の猟奇殺人といえばその半分以下なのではないだろうか。実際に調べたことはないので分からないが、岩垣の感覚としてはそうだった。少なくとも刑事人生十年の中で、これは「異質」といえた。その異質さは、死体の腹が蝶の翅のように切り開かれているというだけではない。

 この犯人の犯行はいつだってあまりにも、ていねいだったからだ。

 ていねいにていねいに。

 うつしいおんなは解剖され、まるで標本のように死に至っていた。



* * *



 蝶が好きだ。蝶の標本が好きだ。

 特に赤い蝶は魅惑的だと思う。

 そして赤には黒がよく映える。黒を見ると母の美しい黒髪を思い出す。

 皮膚を切裂く瞬間はたまらなく興奮する。

 そう、この昂奮! 脳髄を沸騰させ、脳幹を痺れさせ、達しそうなほどの昂奮だ。

 だから一つ「羽化」させたあとは、いつも本当はそれをじっくりと眺めたいと思う。皮膚をネイルガンで釘止めする瞬間、いつだって涙が出そうになる。嬉しくて。

 叶うことなら標本にして手元に置いておきたいくらいだが、相反して、この美しい蝶を皆にも見せたいという強い欲求があった。見せびらかして自慢したい。これは自分だけの、特別な蝶なのだと、声高に叫びたくなる。そういう欲求が激しくあった。

 けれどそれはできないことだった。とても悲しいことだ。寂しく悔しいことだ。

 だから結局いつもその場から去るのだが、いつだって蝶を咲かせた死体は寂しそうにこちらを見詰めている気がした。まだ行かないで、というように甘やかに誘うのだ。赤い色。まるでおんなの唇を彩るルージュのように。男のものを銜え込む女陰のように。

 けれどその誘惑を振り切って、胸が引き裂かれるような思いでいつもその場を去る。

 それを乗り越えれば、また新しい出会いが降ってくるから。出会いはいくらでもある。見つけるのは容易い。まだ翅を広げていない蝶々を見つけなければならない。

 蝶は魂の象徴だと何処かで聞いたことがある。

 だとしたら今自分がやっていることは、魂を蝶にして羽ばたかせ、自由にすることと同じことだと思った。この身体も世界も牢獄のようなものなのだから。

 さて次はどんなものを、切り開くことができるだろうか。

 考えるだけで心は弾み、それこそ――絶頂さえ、してしまいそうだった。







「何度も言うが、ぼくは探偵じゃあない」

 今日も白河探偵事務所はその常套句で始まった。

「きみの海馬は死んでいるのか、駄犬。きみの求めるようなシャーロック・ホームズや名探偵ポワロなんていう人々のロマンかき立てる存在は、もうこのコンクリートジャングルからは追い出されちまって、空想の世界の中にしか存在しないんだ。現存する探偵といえば、せいぜい浮気調査から猫探しなんていったもので、有り体に言えば小間使いのようなものだよ。かといって、ぼくはそんな現代的探偵でもないがね」

 キッパリと。

 白河探偵事務所の所長である、白河希(しらかわ・のぞみ)はそう言い放った。

 希という名は些か女性的だが、白河は非常に見目麗しい男なので不思議と似合っている。――と、白河探偵事務所の従業員である北村愛は思っている。

 柔らかな黒髪は少し癖があるが、きれいに整えられている。鼻梁はすっと通っていて、唇の形も良く、長い睫毛に縁取られた瞳はアーモンド型の良い形をしている。なにより特徴的なのが瞳の色で、白河の瞳の色は琥珀色の、日本人とは思えない不思議な色合いをしている。その瞳は角度によっては時折、強い黄金のように輝くのだが、そんな瞳でじっと見詰められると、時々美しさを通り越して何か怖しささえ感じるほどだった。とは言いつつも、あんな美青年に――いや青年とはいっても既に三十路を過ぎている男性――に見つめられ微笑まれたら、大半の女性はイチコロだろう。

 だがたった今、白河に駄犬呼ばわりされた「カオル」という女性には、白河の美貌など露ほども効果が無いようだった。むしろ猛犬のように犬歯を剥き出しにしてカオルは白河に食ってかかった。

「お前はいっつも探偵じゃあねぇって言うが、じゃあ一体何なんだっていうんだよ? そもそもこのビルにぶら下げてる看板ちゃんと見えてるか? 【白河探偵事務所】なんてリッパなもんがぶら下がっているじゃねぇか」

「駄犬。探偵事務所と書かれているからといって、所長であるぼくが探偵であるなんて、ぼくは一言も明言していない」

 確かに白河は一度も自分が探偵であると云ったことはなかった。

 白河は部屋の奥にある重厚なデスクで優雅に紅茶をすする。カオルは言い返せないのか、ぐるる、と唸るように白河を睨み付けた。そのままかみ殺しそうな勢いだが、カオルは何だかんだ白河に逆らえないのだ。それが不思議で以前その理由を白河に尋ねてみたところ、

「あれは駄犬だが忠犬でね」

 とのことだった。意味不明だったが追求するのはやめておいた。

 そんな駄犬であり、忠犬ともいえるカオル。言葉遣いは荒く態度は粗暴ともいえる問題児だが、顔立ちはとてつもなく整った、魅力的なおんなだった。美女、というより美女と美少女の狭間をいくような何処か危うい美しさをもっていた。年齢的には二十四、五ほどなのだが、見た目だけで言うと二十歳前にも見える。兎角、美人なのだ。

 ただし口と態度が相当、悪い。

 そしてその「飼い主」である美青年の白河も相当、性格が悪い。

 二人揃って黙っていれば大変人目を引く美男美女なのに性格破綻者ときている。そこが残念なポイントである。ポジティブに言えば個性豊かと言うべきだろうか。

 兎に角これが白河探偵事務所におおよそ一ヶ月程前から仕事に就いた、北村愛の白河探偵事務所に対する印象だった。ほぼ毎日繰り返される、カオルの罵詈雑言はこの白河探偵事務所のほぼBGMと化している。だがベテラン職員である老紳士の「山崎さん」は全く気にしないで仕事をしている。正直この探偵事務所の看板が落っこちないのは、ひとえに素晴らしき勤労者である山崎さんのおかげだと愛は思っていた。

 思っていたのだが――実際のところ、そうではないらしい。

 なぜなら今まさに大金が絡んだ大仕事が、この白河探偵事務所に舞い込んできていたからだった。



 事の発端は愛が入社して二週間ほど経ったころ。今月十月十日のことだった。

 ひとりの女性がこの白河探偵事務所の扉を叩いた。女の名は小林茜(こばやし・あかね)と言い、連続殺人事件の第二の被害者、小林悠の姉だった。

「犯人のことが知りたいのです」

 静かにそう切り出した小林茜には感情が一切なかった。感情というものを全て削ぎ落とされたような表情と、対して鋭利に研がれた刃のような眼差しが印象的だった。

 白河はそれから、不思議な問答をした。

「きみはどこからここに?」

「岩垣さんからここに」

 岩垣、という名前に愛は聞き覚えがなかったが、被害者と白河を繋ぐ関係者なのだろう。少なくとも白河は承知したように、足を組んで鷹揚に頷いた。

「なるほど。では、きみは全てを承知で知りたいと願うんだね?」

「ええ」

 小林茜は迷いなく頷いた。

「だってそのための事務所でしょう? ……いえ、そのために、あなたにこうして会いに来たんですから」

「なるほど。確かにその通りだ」

 それに、と白河はじっと、あの琥珀色の瞳で小林茜を見詰めた。

「あなたは覚悟ができている。そういう眼をしている」

 白河はそう言うと、

「報酬は百万になるけれど、それでも構わないかい?」

 とんでもない料金をふっかけた。

 いや、ふっかけたというより白河は冗談のかけらもなく本気だったし、それを聞き届けた小林茜も本気だった。顔色一つ変えることなく本気で、その白河の要求に応えた。

「はい。不安なら前金として八割お支払いします」

「いやそれには及ばない。キミはあらゆる覚悟をして、ここに来ている人間だから」

 白河はじいっと、もう一度琥珀色の瞳で小林茜を見たあとそう言った。小林茜は決してその間、目を逸らさなかった。

 いくばくかした後、白河は「ふむ」と納得したように視線を逸らした。

 それから山崎さんの淹れた紅茶を一口、口にすると、

「よろしい。貴方の依頼、承りましょう」

 と鷹揚に頷いたわけである。



 ――というのが先日のことであって。

 カオルも愛と同じことを考えていたのか、

「この前の依頼だって引き受けてたじゃねーか! しかも探偵さん、ありがとうございます、なんて言葉も添えられてよ」

 と口真似しながら云う。白河は微かに眉根を寄せた。

「この前……? ああ、この前ね。確かに探偵だのなんだの言われたかもしれないが、生憎ぼくはそれについてハイともイエスとも言っていない」

「細かいところばっかり覚えていやがって……」

 どうやらそこは本当だったらしい。悔しそうにするカオルを尻目に、白河は何を考えているのか、立派な椅子に腰掛けて宙をぼんやり眺めていた。眠いだけかもしれない。

 愛はというと、依頼人である小林茜が果たしてそんなことを言っていたか、よく覚えていなかった。覚えていられるキャパシティがなかったと言った方がただしい。まるでドラマのような非現実的なシチュエーションが、あの時愛の目の前でされていたのだから。

 けれど、愛は疑問に思うところがいくつかあった。

 まず依頼内容。これはいい。小林茜は、今世間を騒がせている殺人事件の遺族なのだから、犯人が知りたいと言ったのは当然だろう。

 ただ、あの目。

――犯人のことが知りたいのです。

 あの小林茜の冷たい熱を宿した眼差しを思い出すと、ぞくりと肌が粟立つ。それは愛が今までに経験したことのない感覚だった。

 犯人のことが知りたい。それはシンプルだ。納得がいく。けれどそれ以上に何か「覚悟」を秘めたものを愛は感じていた。事実、所長である白河は、あの美しい琥珀色の瞳でじっと見詰めて言ったのだ。「全てを承知で知りたいと思うんだね?」と。

 遺族になった経験はないから、愛にはその覚悟がよく分からない。けれど、あの小林茜と白河の間で為された、無言の契約がまるで――大げさな表現だと思うが――悪魔の取引にさえ見えた。勿論、そんなものは虚妄に過ぎないのだけれども。

 二つ目の疑問は、どうやって犯人を知るのか、ということだった。小林茜の弟である、小林悠は今世間を賑わす一連の殺人事件の二番目の被害者だ。

 そして先日、十月二日に三番目の被害者が出てしまった。

 厳密に言えば三人の被害者が出た時点で、これが「連続殺人」として成立したといっていい――というのが所長である白河の意見だった。一般的に3人以上の犠牲者が出ると連続殺人になるとか。そんなことを白河は言っていた。

 兎に角、そんな警察さえも未だに捕まえられない連続殺人鬼を、白河は警察よりも先に見つけようとしているのだ。

 その方法は依頼があった日から三番目の被害者が出て今日に至るまで、未だに明らかにされていない。若しくは愛のあずかり知らぬ所で色々な調査が行なわれているのかもしれないが、気になるのは当然だ。愛はお茶を淹れて白河に出したタイミングで尋ねる。

「あの、例の依頼のことなんですけど、どうするつもりなんですか?」

 やや言葉を濁せば、白河は形の良い眉をぴくんと神経質そうに跳ねさせた。

「例の依頼というのは、増川洋子さんの家のブチくん雑種雄猫七才の捜索依頼のことかい? それともこの前来た苗木婦人のご主人の浮気調査の件かな? ちなみにあの苗木夫人の件はもうぼくの中で解決している。ご主人がシロで依頼に来た奥様がクロだ」

「はい?」

 突然の言葉の奔流と暴露についていけない愛をよそに、白河は一口紅茶を口にすると、言葉のマシンガンを発射し始めた。

「ぼくとしては愛猫であるブチ君の方が最重要案件かと思うんだがね。でも仕方ない。簡単に言うと苗木婦人が此処に浮気調査に来たのは、でっち上げる為さ。彼女が依頼に来た十月五日は雨だった。けれど苗木婦人はタクシーを呼んだ形跡もなく、記載してもらった住所はこの事務所から徒歩圏外。電車で来たとしたら傘を差していてももう少し濡れていてもいいし、注目すべきは歩きにくいピンヒールだ。世の女性の中にはピンヒールで地平の先まで行ける人もいるかもしれないが、雨の日に少しも濡れずにピンヒールでこの駅から徒歩二十分を歩ききれるとは到底思えない。ということは電車は除外だ。では車はどうか? この大都会東京で車を所持しているご婦人がどれほどいるかはぼくの知ったことではないが、おおよそのご婦人は持っていないだろう。都会じゃあ車なんて必要ないし、事実、車を購入する層は地方に住む人が圧倒的だ。ということは自家用車でもないし、かといって苗木婦人は富豪でも何でもない。送迎の車付の豪邸に住んでいるなんてありえない。地価の高い世田谷区に一軒家だから、ちょっとばかし羽振りがいいとは言えるけれどもね。さて苗木婦人がクロである件だが、まずコートの裾に微かにシワがついていた。これは座った時につくシワだ。歩いていたら当然の話だからシワなんてつく筈がない。車で移動した時についたシワだ。だが、はてさて。苗木婦人は【誰の】車に乗ってきたのか? ご友人な訳がない。こういったきな臭い探偵事務所なんかに誰かを連れ添ってくるならば、特別なご友人だ。この特別っていうのは秘密を共有するような間柄、端的に言うと愛人。証拠に、年齢にしては若作りした化粧、ファッション、それからデートでもないのに甘ったるい香水。勿論、ぼくは身だしなみがしっかりした女性が全て不倫だとか浮気しているとは思っていない。簡単な話、こんな探偵事務所に相談に来るような風体じゃないんだ。単純だろう? それでも彼女は夫が浮気をしていると言って相談に来た。ぼくはそれを引き受けた。なにせ愛人と結託して探偵事務所を利用し夫を陥れ、慰謝料を得ようとするなんて愉快な話、そうないじゃないか。ドラマじゃあるまいし。ところでキミ、苗木婦人が、夫は夫の経営する司法書士事務所の秘書と出来ていると言っていたのを覚えているかい? いやキミが覚えているかなんてどうでもいいことか。兎に角、ぼくたちは苗木婦人のご主人がその秘書とあたかも密会しているかのような写真が撮れれば良かったわけだ。勿論苗木夫人にとってはね。例えばこんな感じさ。旦那が寝ている隙に、ぐーすか寝てる旦那の指を拝借してスマートフォンの指紋認証を解除。あとはLINEで秘書に【大事な話があるから家に来て欲しい】なんて適当に用件を作り出すんだ。その時、苗木婦人は家を空けて夫一人にする。そこで何も知らない秘書が呑気にやってきて、夫との写真をぼくらがパシャリ。でもこれだけじゃ決定打にならない。二人がラブホテルに入る、とかね。そういう写真も欲しい。では問題だ駄犬。どうしたら秘書と苗木婦人のご主人がホテルに入ろうとしている所を撮影できる?」

 急に話を向けられたにも関わらずカオルは驚く様子もなく、応接間のソファにどっかりと座って答えた。

「分かった。奥さんが秘書に変装する」

「馬鹿かキミは。いや馬鹿だったな駄犬。では山崎さん。正解を」

 真面目にデスクで書類仕事をしていた山崎さんが穏やかに答える。

「秘書を買収して色仕掛けですかねえ」

「グッド。流石山崎さん。あなたこそ探偵に相応しい」

「いやいや」

 そう謙遜した山崎さんは何事もなかったかのようにまた書類仕事に戻っていった。納得いかないのはカオルのようだった。

「はぁ? そんなのありかよ? もっとこう、皆がびっくりするようなトリックとかないのかよ。そんな答え、推理小説だったらサイテーのもんじゃねえか」

「はあ……これだから」

 白河はまるで頭痛でも患っているかのように頭を抑え、

「何度も何度も言っただろう。現実世界には人々があっと驚くようなトリックなんてそうそうないんだよ。できて隠蔽工作くらいのものだろう」

 と言った。愛はようやくチャンス到来といったように声を上げた。

「でもそれならどうして例の連続殺人鬼は未だに捕まらないんでしょうか?」

 そんなふうに口を挟めば、白河は愛のほうを見た。琥珀色の瞳が見定めるような、そんな色を宿しているような気がした。

「キミはどう思う?」

 問いを問いで返されて愛はドキリとする。

「私ですか? ええっと……そうですね。証拠がひとつもない、とか?」

「ふうん。無難だし、実際そうなんだろうね」

 白河は聞いてきたくせに全く興味なさそうに鼻を鳴らして、紅茶のカップを持ち上げた。優雅な所作だ。何をするにも絵になる美男子を愛は初めて見た。人格には問題アリだが。

「それで話は戻るが苗木夫人の話なんだがね……ああ、そろそろかな」

「そろそろ?」

 愛が眉を寄せてもお構いましで白河は立ち上がると、応接間のソファで寝っ転がっていたカオルを足蹴にして突き落とす。女性に対して何てことをと思うが、カオルは慣れっこのようで「もうちょい優しい蹴り方しろよ!」と頓珍漢な抗議をしていた。

 それを鮮やかに無視した白河は応接ソファーに腰を落ち着けると、時計を見た。外から車の音が聞こえて、コツコツコツと階段を上っていく音が聞こえる。白河探偵事務所は一階は物置――白河曰く「秘密道具」が置いてある場所――と化している為、二階に客を通している。三階は白河が泊まり込みで何かをしたい時に寝泊まりできるようになっているらしく、従業員でも出入りできるのは白河だけという未知の領域だ。

 扉が開くと共に、先程まで話題に上っていた苗木夫人が現われた。今日も化粧にもブラウンの髪にも洋服にも隙がなく、年齢の割にはきれいにしている。美人の類いに入る女性といってもいいのかもしれない。ただ愛の好みの女性ではなかった。それに顔で言ったらカオルの方がハッとするくらいの美人だ。ただ粗暴な口調や派手な金髪、だらしない服装がカオルの本当の魅力を半減させているだけで。

「やあ、こんにちは。苗木さん。ご機嫌良さそうだけれど何かあったのかな?」

 白河がにっこりと微笑むと、苗木夫人は少し頬を染めてソファに腰掛ける。カオルはいつの間に事務所からかいなくなっていた。ベランダで煙草を吸っているのかもしれない。

「あら、分かりますか」

「ええ、分かりますとも。あなたがさっきまで愛人と寝ていたことも、その愛人を連れ立って白昼堂々とこの探偵事務所に来たことも」

 ひくりと苗木夫人が一瞬顔を強ばらせたが、すぐに笑い飛ばした。

「愛人? いやだ、冗談はやめてくださいな」

「匂い」

「匂い?」

 訳の分からない白河の言動に苗木夫人が聞き返せば、白河は首肯する。

「そう、いつも貴方がつけている甘ったるい香水の中にボディーソープのような匂いが微かに混じっている。愛人とヤった後にシャワーを済ませてから此処に来たんでしょうね。夢中になって約束の時間までに時間がないと少し急いだから、目元のマスカラの液がほんの少し瞼に付着している。濃いブラウンのアイシャドウで誤魔化そうとした辺りが時間の無さを証明しているし、何より今日も雨なのにあなたは殆ど濡れていない。ついでに自動車の音も聞こえた。ほぼ間違いなく愛人の車だろう」

「な、何を言っているのか分かりませんが急いでいたのは確かに事実です。でも愛人なんていませんし、タクシーで来たんです、私」

「タクシーじゃない」

 きっぱりと白河は言う。それは自信満々といった感じで。どんな推理が飛び出すのかと愛は期待し、そう告げられた苗木夫人のほうは動揺する。

「そんなこと、どうして思うんですか?」

 夫人の問いに対し、白河はベランダから顔を出したカオルと視線を合わせる。あ、と愛は間抜けな声を上げた。どうやらカオルがベランダに出ていたのは喫煙するためではなかったようだ。いつの間に打ち合わせたのだろうと思っている間に白河は話を続ける。

「ご覧の通り、うちの職員がバッチリ見ていたからです。駄犬、車種は何だった?」

「トヨタのレクサス。色は黒」

「ふうん。レクサスのブラックなら、女性よりも男性の乗車率が圧倒的に高いだろう。その上、高級車ときている。愛人もご主人と同じくらいに高収入か。兎に角、さっきまで貴方が一緒にいたのは愛人に決定。というわけで苗木さん。あなたの浮気調査の件だが、ご主人のほうはシロだ。真っ白。純白そのもの」

「そんなはずは!」

 声を震わせ叫びかける苗木夫人に白河はすっとぼけたように問う。

「何でそう思うんです? 我々の調査に瑕疵があるとでも? それとも奥様。何か我々に秘密にしていることでも?」

「い、いえ、そういうわけじゃ」

 しどろもどろになる苗木夫人をよそに、白羽はにっこりと微笑んだ。

「いやぁそれなら良かった良かった。旦那様の潔白が証明されたんですからね。夫婦円満。何よりです。そういう訳で事前にお話したようにお支払いをお願いします」

 やたら芝居がかった口調でそう言うと白河は山崎さんを呼んで会計を始めた。苗木夫人はすっかり白河のペースに陥っており、しっかり報酬を支払っていた。苗木夫人は本来なら愛人の存在やら性交やらを指摘されて激高すべきなのに、そうしないのは利用しようとしていた白河に計画を暴露され、しかもそれが頓挫したことによる失意からだろう。

 愛は思わず白河のやり方に小さく苦笑してしまう。これじゃ追い剥ぎと同じようなものだ。心を丸裸にされた挙げ句、苗木夫人はお金も支払うことになったのだから。他人から見たら憐れなのだろうと愛は思ったが、探偵事務所を利用して慰謝料をぶんどろうとした、たちの悪さは白河と負けてはいないのかもしれない――と愛が思っていたら。

「ああ。そうそう。実は話はこれで終わりじゃないんですよ」

 ちらりと白河が時計を見る。午後三時を指していた。 

 苗木夫人は呆けた顔をした後、素っ頓狂な声を上げた。

「え? は? 終わりじゃないってどういうことです?」

 問いかけを無視して愉快そうに白河は言う。

「お、時間通り。ご到着だ」

 とんとんとんと誰かが事務所の階段を上ってくる。そして開いた扉の先にいた男性に、苗木夫人は顎が外れそうなほどあんぐりと口を開いた。愛は見たことのない男性に首をひねる。けれど白河は壮年の男性を鷹揚に迎え入れた。

「こんにちは、苗木さん。今この通り奥様をおもてなししていた所でして、時間ぴったりで何より」

 握手を交して白河は苗木夫人の隣に男性――おそらく苗木夫人の夫を座らせた。苗木夫人は未だに状況が飲み込めていないのか、口を魚のようにぱくぱくと言わせている。

「あ、あなた、どうしてここに」

「ああ失礼。実はご主人からも依頼を承っていましてね。依頼内容は妻の浮気調査。苗木さん、いやご主人の方ですね。こちらが依頼内容の結果になっています。ちなみに結果から申し上げますと奥様はクロです。黒も黒。真っ黒です」

 依頼結果を受け取った男性の方の苗木は、中にある写真を見て顔を顰めた。おそらくそこには妻の不貞を示すものがいくつもあるのだろう。不穏な空気が苗木夫妻の間に流れるなかで軽快に白河だけが話を進めていく。

「というわけで今回の報酬ですが事前に申し上げた通り本日お支払い頂くことになります。山崎さん、何度も悪いけどよろしく」

「はいはい。では苗木様。ああご主人様の方ですね。現金でのお支払い御願いします。領収書はご入り用ですか?」

「いや必要ない。それより冬美。これはどういうことだ」

 雑に札束を置いた苗木は声を怒りで震わせて妻を睨み付ける。修羅場の訪れを察知した白河が「はいはい、それでは依頼完了ということでお引き取り下さい」と無慈悲に二人を追い出した。扉の外から早速罵倒の嵐が巻き起こっていたが、白河は今あったことなんてちっとも気にしていないかのように奥のデスクに戻ると、どかっと革張りの椅子に腰掛けて煙草をくわえた。火を付けて一服しているところに、愛は恐る恐る尋ねる。

「いいんですか? あのまま苗木夫妻を放ってしまって」

 問うと白河はきょとんとした顔をして言った。

「いいに決まっているじゃないか。ぼくたちはもうやるべきことはやった。あとは本人達がどうするか。弁護士様が活躍するだろうよ。それにぼくの城を荒らされちゃ我慢ならないからね。お帰り頂くことが最善だっただろう?」

「えっ、で、でも、仲裁に入ったほうが……」

 口ごもる愛の背後からカオルが肩を組んでくる。きらりと派手に染色した金髪が揺れる。

「ハイハイ新人。希にそんなこと言ったって無駄無駄。こいつは心なんてないんだよ。優しいの正反対の位置にいるような極悪人なんだからさ」

「それは否定しないがね」

 意外にも白河はそう言うと、吸いかけの煙草を揉み消して立ち上がった。コートかけにかけてあった黒いトレンチコートを羽織ると、鴉みたいだった。それから希は上質そうなステッキを持った。足に古傷がある所為だとかで、あると色々と便利らしい。

「それじゃあぼくは散歩に出てくるから。あとはよろしく山崎さん。あとキミと駄犬」

 名指しになっているのが山崎さん一人だけというのも少々気になったが、白河のおおよその人間像を知った今なら新人である愛の名前を呼ばないのも納得できた。むしろカオルが駄犬呼ばわりされていることのほうが気になった。気になったがカオルは慣れっこのように「おーおー、せいぜい背後から刺されないように気をつけな」と物騒なことを言って見送った。事務所の扉が閉じると、愛はカオルに尋ねる。

「所長、外に出ることが多いですが元からですか?」

「あー……そうだなぁ、どうだろうなぁ」

 分からないというよりカオルは曖昧に濁しているように見えた。そんなに信用ないだろうかと愛は少し落胆するが、すぐに山崎さんが穏やかに声をかけてくれた。

「安心してください。所長は依頼内容によってはしょっちゅう外に出ることもあれば、逆に引きこもりっぱなしになることもあるので。要は極端な方なんですよ。こんなことは毎度のことなんで、あまりお気になさらずに。振り回されるだけです」

 山崎さんはそう言うが、愛は表面上は納得したふりを見せながらも内心は気になりっぱなしだった。これは仕方が無い。本当は、ちゃんと名前だって呼んで欲しい。

 何故なら愛は、白河希という男に、一目惚れというやつをしたのだから。

『――続いては都内で起こっている連続殺人事件の続報です』

 不意に事務所に置いてあるテレビから音が聞こえてきた。どうやら白河が出て行ってすぐにカオルがつけたらしい。白河がいるときはたいていの場合、クラシックやジャズが流れているのでテレビをつけられないのだ。テレビはカオルが勝手に持ってきたものらしい。

『今月二日、都内の会社員、清水ゆかりさん(二十七才)が殺害された件で、警察の調べによると清水さんは自宅マンションで殺害されていたところ、一緒に住む同居人の男性が発見したとのことです。現在警察はこの同居人である男性から事情聴取を行い、近隣住民からの目撃情報を引き続き募っていく方針を明らかにしています。しかし未だに物的証拠は見つからず、捜査は難航しているようです――……』

「おーおー、警察も困ったようだなぁ。犯人、捕まると思います? 山崎さん」

 ソファを独占したカオルが書類仕事を終えた山崎さんへと話しかける。山崎さんは「そうですねえ」と考える素振りをしながら、急須でお茶を淹れていた。

「まあ最終的には捕まるでしょう。この犯人は」

「希の野郎が探しているからか?」

 所長である白河の名前をカオルが出せば、山崎さんはもちろんと頷いた。どうやらカオルはそれが気に入らなかったらしい。

「いい加減、あいつも探偵ごっこじゃなくて探偵とでも名乗りゃあいいのに。あいつだったらマジで現代を生きるシャーロック・ホームズにでもなれるんじゃねぇか」

 皮肉たっぷりに言うが当の本人はここにはいない。カオルはくわとあくびをすると、ソファに身を横たえて眠りに入った。山崎さんも午後の休息とばかりにお茶を飲んでいた。相変わらずテレビからは殺害された被害者の写真や、告別式の様子、涙を堪えて哀しみを口にする遺族の映像が流れていた。

 愛はそんな遺族たちの姿をじっと見詰めていた。

「……遺族の方たちはどんな気持ちなんでしょうね」

 ぽつりと漏らした愛の言葉にカオルが反応する。

「そりゃあー悲しいんじゃねぇか。悔しいだろうし、できることならブッ殺してぇと思うんじゃね? 犯人のことをさ」

 私だったらブッ殺してぇもんな、と言うカオルの瞳は獣のように鋭い。まるで過去にそういった経験があったみたいな口調ですらあった。だからそれ以上、愛は踏み込まなかった。なにせまだ採用されて一ヶ月しか経っていないのだから。

「でも確かにそうですよね。愛する人が殺されたんですから」

 だから愛は無難な答えしか用意できなかった。

「遺族の方の気持ちを思うとたまらない気持ちになります」



* * *



 白河が約束していた行きつけの居酒屋「虎や壱号店」へと足を運ぶと、いつも通りの顔ぶれの店員たちが今日も実に愛想良く出迎えた。事務所から近いこの店はチェーン店だが、しっかりと完全個室になっている。食べ物も飲み物も並だが値段も並なので、全てに於いて普通の居酒屋といえた。平日の夕方とあってか人は少ないようだった。

 足元を仄かにライトアップされた廊下を店員に案内され、通された薄暗い個室には既にがっしりとした体つきをした男――岩垣善男が白河を待っていた。強面で愛想が無いが、顔や体格に反して正義感であることを白河はきちんと理解していた。小学校の頃からちっとも変わらない。その凶悪とも言える双眸がじろりと白河を睨み上げた。

「おい、遅いぞ希。またすっぽかされたのかと思ったぜ」

「善男。キミは善い男と書いて善男だろう? そのくらい許してくれたまえよ」

 名は体を表すと言うが、まさに岩垣はそういう男だった。だが岩垣自身はそう思っていないらしい。

「名前と俺の性格は関係ねぇだろうが。ちゃんと連絡を入れろ。そのくらいできんだろ」「ちょっと忙しくてね。キミたち警察とは違って」

 言いながらコートをハンガーにかけると、案の定、太い声で文句が飛んでくる。

「暇なのは探偵ごっこをしているお前だろ。どこぞの探偵様と違って俺たち警察は忙しいんだ」

 探偵ごっこ。探偵。白河は聞き飽きたというばかりに溜め息を吐き出した。

「はぁ……善男。キミもあの駄犬と同じなのかい? 何度言ったら分かるのか知らないが、ぼくは探偵じゃあない。探偵ごっこなんてしているつもりもない。探偵事務所の所長をしている。それが今のぼくの立場だ。それ以上でもそれ以下でもない。それで、刑事の岩垣善男くん。早速だがビールを頼んでくれたまえ」

「毎度思うが、酒を飲みながら話す話かよ」

 仏頂面で言う岩垣にへらりと白河は笑い返す。

「逆さ。酒を飲まないとやってられない。それにぼくがザルだということは知っているだろう? だからそこは安心して欲しい」

「んなもん知ってる」

 そう言うと岩垣の無骨な指が店員の呼び出しボタンを押した。岩垣も岩垣で、何だかんだ腹が減っていたのだろう。メニューを見ながら「からあげ」だとか「ピザ」だとか「フライドポテト」だか子どもが好きそうなものを注文する。そして店員が退いて行ってから再び岩垣は白河に向き合った。白河は煙草に火をつけ、煙をふかす。あからさまに岩垣が嫌そうな顔をしたが、そんなのは白河はちっとも気にしないで話を切り出した。

「それで? 例の捜査はどうなっているんだい?」

 白河の言わんとすることはもう岩垣にも分かっていた。岩垣はその巨躯には見合わぬ黒い鞄から書類を取り出すと、白河へと渡した。受け取った白河は愉快そうに眼を細める。岩垣はその表情が気に食わず、むっとへの字に唇を曲げた。

「何がおかしいんだよ」

「いやぁ、正義のヒーローになりたいと言っていたキミが、本当に警察っていう正義のヒーローになったくせに、今や汚職刑事に成り果てちまったからさ。いや感情を切り離せない正義漢だからこそ、こうなったというべきか」

 そう言うと白河は岩垣が渡した資料を、扇子で扇ぐようにひらひらと揺らした。岩垣はそれについては何も返す言葉がなかった。岩垣の今までしてきたことは、警察の規則に反している。今、岩垣が白河に渡した書類もここ一連の連続殺人を扱った捜査資料――言ってみれば機密中の機密なのだ。

「さてさて、それじゃあ読ませて頂くよ」

 そう言うと白河は資料に目を走らせ始めた。

 最初の事件が起こったのは先月九月九日。被害者は杉本花菜という牧野高校在学の一年生で、当時十六歳だった。死亡推定時刻は午後四時から六時の間。発見現場は自宅リビングで、第一発見者は同じ区に住む従兄弟だった。その従兄弟は杉本家と交流が深く、その日も杉本花菜とゲームをする約束をしていたらしい。大抵の場合、第一発見者を容疑者候補として見る場合が多いが、この従兄弟のアリバイは既に証明されており、シロということが分かっていた。

 被害者である杉本花菜は全裸でリビングに放置されていた。手首と足首には結束バンドで拘束され、身体は真っ直ぐに伸びた状態で見つかった。そして、腹を切開され四方に皮膚をめくり上がらせられていた。ご丁寧にめくった皮は蝶の翅をピンで留めるように、グルーガンで釘打ちされていた。露わになった臓物もまた飛び出し、それは丁度、蝶が翅を広げたような形につくられているようだった。

 死因は背後から複数回刺されたこと、そして腹を切り開かれたことによる失血死若しくはショック死とされた。腹を切裂かれたのはまだ辛うじて生きている間にされたものだと、司法解剖の結果明らかになっている。

 そして次の事件が同月二十日。二番目の被害者が出た。被害者の名は小林悠。栄生西高等学校という定時制高校に通う二年生だった。死亡推定時刻は午後五時から七時。両親を早くに亡くした小林家の、自宅リビングにてこちらも発見された。発見者は姉である小林茜であり、帰宅時に小林悠の遺体を発見している。小林悠の遺体も杉本花菜と同じく、死因は失血死かショック死であり、腹は切裂かれて釘で止められていた。

「――で、今度は三人目の被害者が出た、と」

 白河が資料に目を通し、そのまま記入されていることを読み上げる。

「被害者の名前は清水ゆかり。年齢二十七才。都内の金融企業に勤める会社員。死亡推定時刻は午後三時から五時の間。手口は全く同じ。遺体は全裸にされ背中側に四カ所の刺創、腹は切裂かれ釘打ちされていた。手首足首には同じメーカーの結束バンドが使われていた。身長は168センチの、体重五十五キロか……ふうん」

 そう言ったところで丁度良く注文した品々が届き、机の上に並んだ。白河はビール、岩垣はウーロン茶を手に軽く乾杯する。

「善男、キミも呑んだらいいのに」

「ばかやろう。俺はまだ仕事が残っているんだよ。それに仏さんがまた出ちまったんだ。悠長に休んでいられっかよ」

 烏龍茶をぐっと飲み込んだ善男に、ビールジョッキを片手にした白河が笑う。

「馬鹿だなあキミは。休むのも仕事のうちだよ。それにキミが今何をしたってどうせ何も変わりやしない。だったらその無駄にでかい図体と、入っているのか分からない脳味噌を休めることをおすすめするね。ところでキミ、最近彼女と別れただろう?」

 ぶっ、と岩垣はウーロン茶を吹き出しかける。

 白河は煙草を吸いながら「何もそんなに驚くことじゃないだろう?」と不思議がった。だが岩垣にとっては青天の霹靂だったらしい。噎せ込みながら白河を睨み付けた。

「てめぇ……てめぇんところの探偵でも使って調査してもらったのか?」

 岩垣のその推理に、白河は形の良い眉を寄せた。

「馬鹿かキミは。ぼくは大切な従業員をそんな無駄なことで動いてもらいたくないし、そもそもキミの恋愛事情なんかどうだっていい。ただぼくは捜査に影響が出ると困るだけ。いや違うな。共犯者として困るだけって言いたいのさ」

 そう言うと白河はビールを気持ちがいいくらいに一気に呷った。白い喉がごくごくと嚥下するのを見詰めながら、岩垣はぐっと眉根に力を寄せて尋ねる。

「なら何で分かった? お得意の推理か?」

 岩垣の問いに、ぷは、と唇をジョッキから白河は離す。それから小馬鹿にするように笑って答えた。

「推理? 面白いことを言うなキミは。ぼくはいつだって何事も推理なんてしたことはない。推理っていうのはね、優れたミステリー小説や映画に出てくる主人公や助手がするもので、ぼくがしているそれはただの妄想みたいなものさ。つまりぼくは推理じゃなく、ただ妄想じみたことをぺらぺらとそれらしく喋っているだけということだ。ああでも強いて言うならキミの身なりを見て直感したことを言ってみたというのもある。恋人ができた当初は無精髭なんて絶対に生やさなかったし、コートもスーツもそんなにくたびれていなかった。けれど今のキミは髪もぼさぼさ、唇も荒れていて、どう考えてもキミが付き合っていた恋人にとって許せない姿をしている。ということは放置されているということだ。こういうヒントを拾ってみて、訊いてみたんだよ。かまをかけてみた、と言い換えてもいいかもしれないね。実にシンプルな方法だよ。結果的に当たっていたようで何より」

 べらべらと喋った白河に、どん、と岩垣は烏龍茶の入ったグラスを置いた。ちゃぷん、と烏龍茶がグラスの中で優雅に踊った。だが岩垣はこの上なくご機嫌な斜めで、瞳は鋭角的にすらなっていた。

「何が何よりだ! 人の恋愛事情探っておいて!」

 糾弾口調で岩垣は言うが、白河は取り付く島もない様子だった。

「探ってなんかいないさ。キミが勝手に認めただけだろう。それに問題はキミが仕事の忙しさにかまけて彼女をほったらかしにして破局したことじゃなく、恋愛というダメージの所為で元々馬鹿だったのが更に馬鹿になってしまうということだ。それではぼくが困る。いや馬鹿というのは言い過ぎかな。著しい思考能力の低下と言い換えておこう。まあそんなことはどうだってよろしい」

 勝手にそうやって白河は幕を下ろすと、真剣な表情で資料へと視線を戻した。

「三人目の被害者ということは、いよいよ連続殺人鬼らしくなってきたね。シリアルキラーってやつだ。手口も同じ。それどころか洗練されてきているんじゃないか?」

「洗練?」

「善男。キミだって気付いているだろう? 背中側の刺創が徐々に少なくなっている。つまりはだ、この殺人鬼はできる限り生きた状態で切り開きたいんだ。解剖か……それとも他の何かがこの犯人を満たしているんだろうが、これをする意味は一体何だろう」

「被害者を痛めつけたい変態野郎なんじゃねぇか?」

「その可能性も十分あるね。けれどそうだな、ただ痛めつけて快感を得る性的サディストなら、腹を切り開いて釘打ちする必要なんてないと思うんだ。彼等は生きている内に拷問したりすることを好むからね。ではなぜ、犯人がこんな死体を造ったのか。それが気になる。興味深い。例えば善男。キミはこの遺体を見た時、最初に何を感じた?」

 琥珀色の白河の瞳が、不思議な色合いで輝く。その目で見詰められると、勝手に脳内をいじくられて記憶の針を戻されてしまう。岩垣はこの連続殺人で、一番最初に遺体と対面した時のことを思い出す。白い少女の裸体、赤い血、黒髪が広がって。死の静謐が横たわっている、あの異様な殺害現場を。

 岩垣は口の中にたまっていた唾をごくりと飲み込んで、答えた。

「……一枚の、絵画みてぇだと思った」

 ぽつりと呟いて岩垣は自分の発言に嫌悪感を覚える。何が絵画だ。あれが芸術だと少しでも思ったというのだろうか。岩垣は自責の念に駆られるが、白河は対照的だった。

「なるほど、キミはそう感じたんだね。でも奇遇だね。ぼくも同じような印象を最初に覚えた。そう、何もかも非現実的で絵画でも見ているような心地になるんだ。次に襲ってくるのが乖離していた現実感。生々しい死と、惨たらしい遺体に対する哀悼の意。善男、キミはきっと今した自分の発言にどうせ自責の念を覚えていることだろうが、気にしないほうがいい。むしろそういう第一印象を大事にすべきだ。ぼくたちは……いや、ぼくは依頼人の為に殺人鬼がどういうヤツかを知らなければならないんだから」

 白河は遺体の写真を見ながらビールを口にする。まるで酒の肴にでもするかのように。まったく悪趣味というか、人の心がないというか。岩垣はこっそり溜め息を吐いた。

 白河と岩垣は小学校一年生の頃からの付き合いである、所謂「幼馴染み」という関係だ。腐れ縁といってもいいのかもしれない。兎に角、長い付き合いなのだ。それなのに岩垣は未だにこの「白河希」という奇っ怪な人間が未だに理解が及ばない所にいる。いや実際、この白河希という人間は人智を超えた存在であることには間違いないのだけれども。

 だから岩垣は時々、白河希という人間は美しい人の皮を被った、何か別の生き物かと思ってしまう。だがこうやって飲み食いしているところを見るとちゃんと人間だと分かる。

「何をじろじろと見ているんだい?」

 手元の資料に目を落としていた白河が、少しだけ視線を持ち上げてうっとうしげに岩垣を見た。その琥珀色の瞳は黄金色にも見える。不思議な色合いだ。岩垣は「別に」と素っ気なく返すと鶏の唐揚げにむさぼりついた。白河の箸も唐揚げに伸びてかっさらっていく。その形の良い唇に運んで、真珠色の歯でかぶりつき、咀嚼する。ただそれだけなのにこの白河という美形がやると、高級な食材に見えるから不思議だ。そもそも殺人現場や遺体の写真を見ながら、よくもまあ肉が食えるものである。

 白河は肉をビールで流し込んだ。それからまた店員にビールを注文し、新しいビールを一口、口に含んだあと何の脈絡もなく、

「黒髪」

 と言いだした。

「はあ?」

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった岩垣をよそに、白河は勝手に喋り続けた。

「いやね、犯人の気持ちになって被害者の共通項を探していたんだ。彼女……ええっと三人目の被害者の、清水ゆかりさん。黒髪だね。今時珍しいとてもきれいな黒髪をしている。黒髪がブームだとか言うのを一時期聞いたことがあるが街を歩けば染髪している若い女性の方が圧倒的に多いように感じる。ほら、この清水さん。メイクもネイルもまぁそれなりにちゃんとしているように見える。ああ善男。これだけじゃ足りないから次合う時はもっと写真を持ってきてくれ。本当は現場を見てみたいんだが……まあそれはそれとして。兎に角、おしゃれにそれなりに気を遣っている若い女性が黒髪というのは珍しいといえば珍しいように思えたんだ。だからぼくの眼をひいた。そして、もうひとつ」

白河は一本指を立てて言葉を継ぐ。

「一人目の被害者の杉本花菜さんも黒髪だった。もちろん彼女は高校生だから校則もあって黒髪なんだろうけれどね」

「黒髪が関係しているとでも言いてえのか? だったら矛盾するだろ。二番目の被害者、小林悠は男だし髪は金髪だ」

「ふうん。そう。それじゃあ警察の見解はどうなの? 聞かせてくれたまえよ」

 ビール片手にさあどうぞと促す白河に、岩垣は眉根を寄せて答えた。

「犯罪分析家のご意見も踏まえていうなら犯人はおそらく男性で、年齢は二十から四十才。性的不能により被害者を刺すことで快感を得ている。だからバイセクシャルということになるが、周囲にはそのことは黙っている。争った形跡もなく被害者をどれも自宅で殺していることから、顔見知りの犯行だと――」

「あはははははは! 本気か? 本気でそんなことを言っているのか? だとしたら今すぐその犯罪分析家の首を刎ねたほうがいい! それをおすすめするね。だいたい二十代から四十代って幅が広すぎて絞りきれていないに等しいじゃないか。十代、五十代はなぜ除外されたのか、ぼくには大いに謎だ!」

 遮るように言うと、愉快愉快というように煙草をふかした。煙を真っ向から顔面に浴びた岩垣は思い切り噎せ込みながら白河を睨み付けた。

 だが、白河はそんなことはお構いなしに喋りだした。

「そもそも犯人が男か女か、そんなものはまだ、はっきりとは分からない。確定事項ではないことだ。バイセクシャルというのも不確定事項だ。少なくとも必ずしもこの殺人はバイセクシャルに限ったものじゃない。異性愛者が犯人でも何らおかしくないだろう」

「じゃあ何で二番目の被害者は男だったんだ?」

「人を殺すことに快感を得られるなら、男も女も関係ないだろう? この犯人の場合、殺人だけじゃなく、腹を切り開く行為にも快感を感じているようだし、被害者の条件として今のところ分かるのは『被害者の容姿が人並み以上』ということかな。ああ、あと顔見知りの犯行という線も消せないがおそらく低いだろう。もしも自宅に招き入れられるほどの仲であったら、とうに容疑者は捜査線上に浮かんでいるだろう? けれど善男、キミのその浮かない表情を見る限り容疑者は1人として浮かんでいないように見える。それから性的不能というのも疑わしいね。よくナイフは男根の象徴だと言うと、それなら何故被害者は背中から何度も刺されたあと、切り開かれ、挙げ句の果てにはしっかりと釘で留められたと思う?」

 問いかけられても岩垣は困るばかりだ。岩垣は警察であって殺人犯ではない。それでも岩垣は想像力を巡らせて、どうにか答えを捻り出した。

「切り開いて、蝶の翅みたく釘止めするためか?」

「そう、犯人が被害者を背中側から襲って刺したのは身動きを取れなくするためだとぼくも思う。結束バンドで固定し、切り開き、釘打ちすること。それが本命じゃないか?」

 それは確かに白河の言う通りだと岩垣も思った。岩垣も性的不能がどうたらと言う部分には違和感のようなものを感じていたからだった。これは現場に実際に立った岩垣の印象からだが、あの場の空気は性的なものとは全く異なるものに感じた。

 だがそんな刑事の直感など採用されるわけがない。警察にとって重要なのは犯人と、その犯行を示す確固たる物的証拠なのだ。状況証拠だけでは弱い。

「犯人の目的は確かにてめぇの言う通りなのかもしれないがよ。何でてめーは男か女かまだ分からないって言うんだ?」

 その問いに対し白河はどこ吹く風といったように答えた。

「分からないからさ。分からないものを分からないと言って何が悪い」

 その妙に堂々とした態度に岩垣は呆れ混じりの溜め息を吐き出した。

「偉そうに……そんじゃアレか? お前は何一つ分かっちゃいないってことじゃねぇか」

「そうだね。そうかもしれない。だってぼくは探偵じゃないからね。シャーロック・ホームズや探偵小説、漫画、映画に出てくるような名探偵とは全く違うんだ。トリックなんか使われた日には丸一日かかっても分からないだろうね。ただ唯一言えることは、犯人は被害者の自宅に穏便に入れるくらいには信頼を得られる存在、ということだ。ここでの信頼っていうのは別に顔見知りだとか、そういうレベルじゃない。いやそういう次元の話じゃないと言ったほうが正しいかな」

「どういうことだ?」

 何を言いたいのか分からず岩垣が尋ねると、白河はじとりと眼を細める。

「善男。たまには自分の頭でも考えてみろ。そのちっぽけな脳味噌を活性化させるチャンスだ。頭がうまく働かないというのなら酒でも飲みたまえ。岩みたいに固っ苦しい頭を柔らかくしてくれる。それかブドウ糖をとるといい。手近なブドウ糖と言うとお菓子のラムネだろうか。だがここは居酒屋なので、矢張り酒を飲むといい」

「酒を飲んだら普通は思考力が落ちるもんだろ」

 岩垣はそう反論して烏龍茶をちびちびと飲む。白河がおかしいのだ。酒をいくら飲んでもちっとも酔わない。それどころかアルコール依存症かと疑うほどにアルコールを日常的に摂取している。いつか肝硬変になっちまうぞ、と岩垣が言ったことがあったが、白河はご心配ありがとうと言うだけだ。

 そんな白河は岩垣から答えが出ないことに焦れたのだろう。

「それよりぼくが気になるのは被害者の特徴の方だ。これが全く分からない問題だ」

 白河は「難題だ」と繰り返した。

「さっき言ってた被害者の髪の色のことか?」

 岩垣が疲れたような声を出す。黒髪、とか言ってたか。けれど黒髪が何だというのだ。岩垣には理解できない。けれど白河は正反対に、何処かご機嫌そうにさえ見えた。

「そうとも。一番目の被害者が黒髪、二番目が金髪、三番目が黒髪……それじゃあ四番目は何が来るか? 四番目の被害者が出るかは分からないが、これで金髪だったら規則性が産まれてくるね。勿論、一番良いのはこれ以上被害者が増える前に、犯人を警察の方々が見つけられることであり、ぼくはそれを祈ってはいるけれど」

「規則性って、つまりあれか? 黒髪の次は金髪、金髪の次は黒髪、っていう」

「そうそう。黒、金、黒、金……そうやって髪の色を交互に変えて殺すという規則性が産まれてくるんだが、それはそれで困ったことになる」

「困ったことになるってどういうことだよ。分かりやすくなったじゃねぇか」

 まるでオセロみたいだと岩垣は思う。けれど白河にとってはそうではないらしい。

「逆だ。いいか善男。加害者の気持ちになってみろ。殺人鬼の気持ちだ。黒髪と金髪に拘るから殺すのか。それとも無差別に殺して偶然、金髪と黒髪になったのか。はたまた敢えて黒髪と金髪を狙って殺すことで捜査を攪乱させようとしているのか。どれもあり得るだろう。だが前者の……黒髪と金髪の二つに拘って殺しているという可能性は低いとぼくは思う。何故ならこの犯人は強い拘りを持っている。黒髪と金髪という対照的なものを選択するのか……? だが3人の遺体の状況や容姿から考えても、犯人は敢えてあの3人を選んでいるように思える。容姿は人並み以上ということは、とても大事な鍵だ。だがそうするとやっぱりおかしい。どうして一人だけ金髪なんだ? いや、それを考えると二番目の被害者だけ男だったのも、おかしいのか? ……分からない。意味不明だ」

白河はまるで仲の良い友だちが「何故あのガールフレンドを選んだのか?」を悩むような口ぶりでひとり語り続ける。

「けれど髪の色が黒か金、どちらかでいい……というのは拘りを放棄しているように思う。この犯人は『拘り』を大事にしているのか? そう感じるのに、男と女、黒髪と金髪……矛盾している。少なくともぼくにはそう思えるんだが……それとも単に殺し方に重きを置くだけの無差別殺人ということか? いや、それもどうにもしっくりこない。何かが引っかかって、どうにも全体的にしっくりこないんだ」

 殺人鬼の心を解き明かそうと思考をこねくり回す白河に、岩垣はほとんどもう呆れながらポテトフライをつまんで言う。

「さっきから色々言っているが、犯人が髪の色に拘るだとかそういうのは、あくまでお前の意見だろ。ただ単に被害者たちの容姿が良かったから殺した。それだけで殺すには十分だった。それだけかもしれねぇじゃねーか」

「確かにそれもあり得る。だが善男。そんなぼくの何の意味も為さない、妄想にも等しい意見が聞きたくて、キミはこうやって何度もぼくの所に足を運んでいるんだろ? 今までの事件だってそうだったじゃないか。ぼくとキミは謂わば同盟を組んでいるんだから、ぼくのやり方に今更ケチつけるなよ」

 同盟。確かにその通りだった。

 岩垣善男と白河希は同盟を組んでいる。決して正しくない道を共にしている。

 だが後悔があるかと言われれば岩垣はノーと答えるだろう。一方の白河が何を考えているかは分からないが、非道徳的な人物ともいえる白河の中にも、ある種の「信念」があるのには違いない。幼馴染みの心は相変わらず見えないが、それだけは直感していた。

 日本という国は被害者は丸裸にされて、加害者は守られる国だと、そう岩垣は思っている。刑事をしてきて岩垣が目にした現実は、そういったものだった。被害者の交友関係も家庭環境も洗いざらい調べられ、顔写真も何もかもテレビやネットで公開され、挙げ句、被害者側が悪いとさえ声を上げる輩もいる始末だ。そして遺族の悲しみも無視して「悲劇」という美味しい餌に飛びつくマスコミは、岩垣の正義とは反する正義だった。

 本当に丸裸にされるべきなのは加害者ではないのだろうか。それが対等なのではないだろうか。加害者の人権も確かにある、と岩垣は思う。同情の余地が十分にある、そういった類いの加害者も勿論これまで見てきた。だが、今追っている連続殺人鬼のように、人を人とも思わぬ事をし続けた癖に、裁判の場になると被害者たちのように痛めつけられることなく、絞首刑という死刑であっさりと終わりだ。それなのに残された遺族はただ悪戯に大切な人を殺され、何も分からないまま哀しみと喪失の大地に放り出されるのだ。

 それが、どうしても岩垣は許せなかった。

 刑事としての今の己の在り方は間違っていると岩垣はきちんと自認している。けれど岩垣は「自分の正義」を貫きたいと思った。だから、白河と手を組んだのだ。

 やりきれない思いを抱えた被害者遺族に、白河希というある種のモンスターを紹介することを。岩垣はある思いを持った遺族に白河を紹介する。そして白河は依頼を全うする。

 そしてその遺族の思いとは勿論――「犯人を知ること」だ。

 ありとあらゆる意味で、全てを知る。

 知ることで救済になるか、それともより一層の破滅へと追い込んでしまうのか岩垣にも分からない。それでも知りたいと願う遺族を無視することはできなかった。残された遺族の中には必ずいるのだ。犯人が「どんな人間」だったか、を。その深層部まで白日の下にさらしたいと願う者がいる。そしてこの事件の遺族たちの中にもいた。

 だから岩垣は今、目の前にいるこの、ぞっとするくらい美しい幼馴染みと共にいるのだ。本当に白河希の容貌は整っていると男の岩垣でさえ思う。女性的にも見えるし、実際女性に間違われたこともあるらしい白河は、非常に中性的で――いや、無性というものが人間にあるのならば、無性の美という単語こそが白河に相応しかった。長い睫毛に縁取られた琥珀色の瞳、すっと通った鼻梁、少し酷薄そうにも見える形の良い唇、すっきりとした輪郭、それから漆黒の絹のような髪。そこまで見て岩垣はふと思う。白河の「殺人鬼黒髪性癖論」が成り立つならば、白河自身もそれに当てはまるのではないか、と。

 そんなことを考えてぼんやり岩垣が白河を眺めていると、白河は義手の方の左手でポケットから器用に煙草を取り出し唇に咥えた。右手で火を付け、ふかす。

「善男。また何か小難しいことを考えているのかい? それともぼくに見とれていた? 後者だとしたらいよいよキミは有給を申請すべきだね」

 そう言って幼馴染みは煙を吐き出す。岩垣は舌打ちした。

「うるせぇ。俺だって俺なりに色々と考えることがあるんだよ」

「そうかい。でも安心したまえ。もう餌は蒔いてあるし、もしかしたら引っかかているかもしれない。まだ何も分からないけれど、ぼくはこのまま餌を蒔き続けよう」

「餌……? お前、また何を考えているか知らねぇが無理すんじゃねえぞ」

「無理はしないさ。だが深淵をのぞき込むには、深淵の縁に立たなきゃいけない。化け物と対峙するには、こちらも化け物にならなければならないのさ。あちら側からも見られていたとしても、ぼくはいずれ深淵を視る必要があるんだ」

 そうだろう、と。白河のあの、琥珀色の瞳が岩垣をのぞきこんでくる。

 ――そう、この眼だ。

 白河希の瞳は、犯罪者を暴く。それは正体を明らかにするという意味だけではない。

 犯罪者の心を、この眼が丸裸にするのだ。 



* * *



 彼女は緩やかに沈黙の海へと流れ出していた。

 長く艶やかな黒髪を床に広げ、その白い四肢は結われている。結束バンドなんて俗っぽいものでしか締め上げられないのが憎い。本当はもっと綺麗なもので結わきたい。ブーケを彩るリボンのようなものが、美しい蝶に羽化する前のサナギに相応しいのだから。

 本当はもっともっと、きれいに殺したい。

 いや、殺したい、というのだろうか。分からない。殺したくて殺しているのか、それとも蝶を作る過程で殺してしまうのか、自分がどちらに対して昂奮を覚えているのか。曖昧なところがある。ただ背中を刺す瞬間だけは、少し興ざめする。蝶を捕まえようとするために色々と用意しなければならないような、そんなある種の面倒くささがあるのだ。だからただ刺すこと自体には昂奮を覚えないのだと思う。

 刺すのは、蝶を網に捕らえて身動きを取れなくするためで。

 次第に精度は上がっているけれど、やはり傷の少ない遺体のほうが、うつくしい。いや、余計な傷が少ない身体だからこそ、赤い蝶が映えるのだ。標本と一緒だ。どんなに捕まえたものがうつくしくても、捕えた過程でぐちゃぐちゃになってしまえば台無しだ。けれど人を昏倒させる薬物など手にできない自分にとって、方法としてはこれがベストだった。

 これはもう自分を納得させるしかなかった。光と影があるように、表面だけがきれいであればそれでいい。

 もう一度彼女を見る。彼女の喉からは細い、ひゅー、ひゅー、という声が聞こえる。可愛らしい声だと思った。その目と唇は薄らと開いたままで、ひどくそそった。女性らしい肌理の整った白い肌も、まろやかな乳房も、曲線を描くくびれから腰にかけてのラインも、すべてがうつくしかった。その背には深い刺し傷がいくつかあるのだけれど、これは裏面だから気にしないことにする。それよりも彼女のうつくしさは、まだ内側に秘めたままだ。

 これから羽化させなければならない。

 手に馴染んだナイフを持って、傷一つない腹部に刃を入れていく。ああ、と彼女が喘ぎ声のような声を上げて、それがますます自分を興奮させた。けれど人間の脂は刃をすぐ駄目にするので、切っては拭いてを繰り返し、ゆっくりと十字に切裂く。切れ目を入れたといった方がただしいのかもしれない。あとはナイフを手を使って、四方へと思い切り引っ張る。ここで引っ張る力が足りないと、折角浮かした翅が閉じてしまうから気をつけなければならない。かたかたと震えていた彼女の身体は完全に、いつの間にか沈黙してしまっていた。それが少し残念だった。以前のあの若い青年は、もっと可愛らしかった。涙を流したあの理由は何だったのだろう。絶望か、怒りか、恐怖か。いずれにせよ苛烈で、けれど静かな涙だった。あんまりにもうつくしい涙だったので、口づけをしたくなったが我慢した。それにああ、何て失礼なことをしてしまったのだろう。今目の前にいるのは彼女だといいのに、違う男のことを考えるなんて。自分を自責しつつ、改めて腹に蝶の翅を開かせた彼女を見て、小さく笑った。はあ、と感嘆の溜め息と共に下半身が熱くなる。

 彼女は中身もやっぱりとてもきれいだった。赤いルビーのような臓腑が詰まっていて、それに触れる想像をするだけで背筋がぞくぞくとし、快楽が波打って襲ってきた。この臓腑にキスができたら、きっと言い知れぬほどのオーガズムを感じるのだろう。

 それをやりたい。

 けれどできない。

 だから、何度やっても何度やっても何度やっても、きっとこれは止められない。

 なにせ戯れの時間はいつも短いのだから。本当は家に持ち帰りたいくらいだけれど、仕方ない。それに今は、別のものが自分にとって興奮の対象になってくれている。それを見つけられたのは幸運だ。きっとあの出会いがなかったら、一生気付かないままだったと思う。彼女も彼も皆、自分の戦利品だ。家に持ち帰らなくともいい、大切な思い出。それをいつだって巻き戻すことができるのだから。

 ああ、本当に自分は幸運な星の下に生まれていると思う。


 だって、あんなに美しいひとも見つけられたのだから。



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