五雀六燕の術

 翌朝、チュンチュンと雀に起こされた。遣戸を開けて廊下に出れば、元気な朝日が笑っている。雨の気配はまったくない。庭に降りて、朝日に向かい「元柱固具がんちゅうこしん八隅八気はちぐうはつき、‥‥‥」

 もうすっかり慣れ親しんだ朝の祓いだ。

 何時の間にか、宋子が、忠吉が、カー助が、兎丸の後ろを固めている。昨日、傍に居なかったことを後悔しているのだ。

 庭先で揃って朝ご飯を食べていると、燕がヒューンと軒下に飛び込んだ。

「ふんむ、燕の親子も元気だのう」

 思いのほか、機嫌の良い時景だ。

 さぞや叱られると思えたが、とんだ水難事故に対する説諭はなかったので、兎丸はほっとしている。

「さて、朝食も済んだようだな。今日の勉学を始めるとするか」

(えーっ、今日は五の付く日ではないはずだ)

 悪戯を仕掛ける子供のように時景は楽しそうだ。

「ほれ、見てみろ。庭に雀が五羽遊んでいる。そこへ燕が六羽飛んで来た。みんな合わせて一斤だぞ」

(量ってもいないのに、なぜ一斤だと分かるのだ?)

 兎丸は、顔をしかめて雀を見やる。

「雀五羽の重さは燕六羽より重い。雀と燕を一羽ずつ入れ換えると同じ重さ半斤ずつとなる。さて、雀と燕の重さは如何に」

(はぁ、分かる訳ないでしょう)

 回答が分からないばかりではなく、問われている内容も理解に苦しむ。

「では、単純に一羽の雀と一羽の燕では、どちらが重いかな」

 首を捻る兎丸を尻目に、宋子が「みゃぁお、雀であろう」と口を出す。

「ほう、宋子どのは分かるか」

「はい、雀だと云っております」

 うんざり顔の兎丸。

 三匹の式神が騒ぎ出す。なんと計算を始めたのだ。ネズミ算なのか、忠吉まで両手を擦って参加している。

 驚きの時景の顔が、にやついて来る。

 遠い昔、宋が漢と呼ばれていた頃、九章算術と呼ばれる数学書があった。

 その中にある『五雀六燕の術』だ。陰陽師はともかく、東国武家などに出来る計算ではない。

 さんざん騒いだ三匹が怪しい吐息を庭先の雀に放す。何に怯えたのか雀が一斉に飛び立った。

「宋子どの、如何に」

「数字が細かく、まだ答えに至りません。しかし、雀を四つに分けたうちの三つ分が燕一羽と同じでございますな」

「ひゃっひゃっひゃっ」

 時景が、異様な笑い声を上げる。

 雀が飛び逃げたのは、宋子らに四つに切られて殺されると思ったからだと、兎丸は気付いた。

「楽しそうだのう」

 身形を整えた親職がやってくる。出仕するのだ。

 問題は解決しないが、嬉しそうに親職を見上げる兎丸だ。

 分かっても、分からなくても、兎丸は満足だ。この頃、空っき腹を忘れている。何時も何時も、食べても食べても、空いていたお腹が空かないのだ。十分食べているからだが、浜で友達と夢中になっているとお腹のことなど、すっかり忘れ、気付けば、腹の中はすっかり空で、萎れている。それでも、先に友達に握り飯を配り笑顔でいられる。

 浜の児らは、日常、姫飯など食べることはなく、兎丸がいればこその柔らかく確り握られた丸い飯にありつけるのだ。

 まだまだ、兎丸には庶民の暮らしが分からない。難しい計算より、村の暮らしを浜の暮らしを知らなくてはいけない。そうでなければ、人々の役に立つ立派な陰陽師とは云えないと思うのだ。

 時景先生に、云われた訳ではない。兎丸が、自分で思い至ったのだ。

 そっと、宋子に告げてみれば、唐猫は優しい瞳で「にゃぁ」と鳴いた。


 すべての望みを捨て去ってしまった老爺に、明日の生きる術をもたらしてくれる兎丸一家を丁寧に遇する時景だ。

「宋子どの、兎丸の書の進み具合は如何かな」

 佐紀に倣い、時景も唐猫に敬称を付けて呼ぶ。

 首を傾け「にゃぁ、みゃあ」云うが、残念ながら理解出来ない時景は、宋子と同じ向きに首を傾ける。

「宋子どうしたのだ。先生に我がままを云ってならぬぞ」

 廊下を足早にやって来た兎丸だ。

 兎丸は、裏庭で算術盤の掃除をしていたのだ。


 時景が使っていた物だ。明日を失っていた老爺が仕舞い込んでいた占いの道具だ。天地盤とも呼ばれ、天を表す円形の天盤と地を表す方形の地盤から成る。時景の秘蔵品は、大人の手のひらに載るほどの小さな物だが、正式な素材で作られた貴重な品だ。占いに必要な文字や記号が記されており、天盤を動かして、それらを組み合わせることにより簡易な計算の効果が得られると云う。

 この計算盤を使い六壬神課と呼ばれる占術の基本の説明と如何に使い占うかの解説書の写しも時景の手元にある。この写しの元本を著したのは、もちろん安倍清明である。

 若い頃の時景が、得意とした吉凶の占いや天変の占い、天文の占いに用いた道具だ。時景の汗と涙が沁み込んだこの世にたった一つの価値ある天地盤が、今、兎丸に授けられようとしていた。

 小さな天地盤一つを胸に仕舞い込み、時景は鎌倉へ下って来たのだ。

 兎丸は、天地盤を両手で掲げ持ちじっと見つめた。やはり、文字の読み書きが必要だ。


 まずは毎朝、朝日に向かって唱える御挨拶。耳から覚えてしまったが、これを書かなければならない。


 元柱固具がんちゅうこしんの『元』は易しいと思えるが、ほにょほにょ曲がって情けない。


 心を入れ替え、真剣に取り組まねがいけない。兎丸は胸を張り、両袖を括った。

 静かに墨をする。

 右手に心を込めて。

 百会から吸い込んだ天の気を丹田に収めてから、右手に流す。

 逸る心を抑え、墨をする。

 硯は、どっしりとした唐硯とうけんだ。父、安倍晴秀の残した逸品だ。

 唐代の風字硯ふうじけん。長方形で、丸味のある縁をもつ奥より、手前側が幅広く縁がない。大仰な飾がなく単純な造りだが、白地に紅色の糸模様が美しい。『紅糸石』と呼ばれる石で作られた宋でも貴重な唐物だ。

 道具立ては立派だが、基本がなっていない。陽動二衝厳神おんみょうにしょうげんしんなど、唱えても難しい呪文の漢字を練習しても仕方ない。

 基本的な筆使いからやり直すことにした。

 姿勢を正し、手首だけを動かしていたのを、腕から動かすよう心掛ける。

 文机に向かい、『一』の文字を書く。起筆きひつ収筆しゅうひつに心を込めて、ひたすら『一』を書く。紙色が失せ、筆跡も失せ、黒点を飛ばした兎丸は、世にも稀なぶちの兎だ。

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