第2話 強くなりたい


「うひゃー、また隆司たかしの勝ちか」


 マスターは頭をかかえ、吸い始めたばかりのたばこを灰皿の縁に押しつぶした。観戦や応援に熱が入ると、ついついたばこを消してしまう。

 兄とぼくがこの「つかさ将棋クラブ」に通うようになって灰皿を取り換えるペースが驚くほど早くなったと嘆いていた。


 将棋盤を取り囲む大人たちは中盤の戦況を振り返り、口々に失着や勝負手を考察する。


「駒得より盤面を優先すべきやったな」

「後手にも挽回するチャンスはあったぞ」

「十手ほど前から圧倒されとった。茂さんには厳しい将棋になったわ」


 六十歳をとうに超えている対戦相手の茂さんは悔しそうにほぞを噛むわけでもなく、投了盤面に静かな視線を落としていた。

 もう一人の指し手である兄も黙ったまま頭を垂れている。

 ぼくは将棋盤の真横で「銀」の駒をかたどったキーホルダーを握りしめていた。


 わずか六十七手での終局だった。

 これで「つかさ将棋クラブ」で最強と称えられる茂さんの五連敗になる。


 小学校にあがり詰め将棋で頭角を現した兄は父を相手に腕を磨いていたが、やがて父の手に負えなくなると自宅から徒歩で通えるこのクラブに預けられた。

 四年生の兄。一人で大人に交じるのはさすがに不安だろうからと、二つ年下のぼくも一緒にだ。


 人相の悪い老人たちが棲息する空間は小学生にとっては空恐ろしくもあった。

 それにプロじゃないとはいえ、将棋指しをこころざしたことのある人たちが通うクラブで常勝できるほど将棋は甘くない。


 通い始めの頃は兄にも相応の緊張があったはずだ。手痛い負けを何度も喫し、そのたびに負け将棋を家で並べて牙をいでいた。


『負け将棋ほど棋士を強くするものはない』


 敗戦は将棋指しにとって試金石のようなものだ。


 兄はどんな負けにも腐ることなく、得られる養分をできうる限り吸収していった。

 ときにビンの底に残った一滴を惜しむように舐めとり、ときに水を注ぎ、盤上の後悔が溶け込んだ濁り水を余すことなく飲み干した。


 ぼくとは違い、兄は話すのがあまり得意ではなかった。家でも言葉を発する姿をほとんど見たことがない。

 いくら口やかましくぼくが喋っても、兄は唇を結んだまま首の動作だけで応対する。


 こんな調子で学校に友達はいるのだろうかと心配もしたけど、将棋を指す兄は常に優しかったし、クラブからの帰り道、兄の小遣いで買ったアイスを半分ずつにして食べる時間をぼくはとても楽しみにしていた。

 性格の違う男二人兄弟の仲は「将棋」という橋渡しがあったことですこぶる良好だった。


 ぼくと兄は毎日、夕方まで「つかさ将棋クラブ」で将棋を指した。

 めきめきと棋力をつけていく子どもの若々しさに影響を受けたのか、年老いた将棋指したちもみるみるうちに活気づいていった。


「これで五連敗やな」


 昨日の三連敗の持ち越しもあって、ちょうど茂さんの五連敗目だ。

 将棋は日によって心身のリズムのようなものにも左右されるからあえて日をまたいでの勝負だったが、結果に変わりはなかった。


 各々に講評を終えたあと、クラブには老兵の負け戦に一つの時代の終わりを告げるような哀愁が立ちこめていた。

 ぼくは単なる勝敗以上に、兄の一方的な将棋だったという印象を持った。


 表面上の駒の取り合いは互角としても後手番は地力の差によって徐々に押し込まれた。足元のわずかな綻びから敵の侵入を許すと、なだれ込まれるようにして城は瓦解がかいした。


 兄は立ちはだかる兵たちに構うことなく、まっすぐに王将を討ちに行った。

 歩兵をと金に変え、飛角を走らせ、相手から奪った得意の「銀」を6二の急所に打ち据えた。

 最短ルートで捕らえられた茂さんの王将は、うなだれるように7三の地点で投了を迎えた。


 先手番からすれば完璧な一局。

 勝負のついた盤に歴然とした棋力の差が刻まれている。


「隆司、将棋は好きか?」


 茂さんの問いに、こっくり、と首を縦に下ろす兄。動作の一つひとつに礼儀正しさが見てとれる。

 兄はいつもそうだ。相手への敬いの念を絶対に忘れない。

 飛車落ちでぼくを負かしたときのあの表情。将棋盤をひっくり返したいくらい悔しいのに、もう一度手合わせしたいと思わせてくれる小さな、やわらかい微笑。


「全国にはわしなんかよりもっと強い将棋指しがぎょうさんおる。お前と歳の変わらん子どももや。自分がどれくらい強いか試したいか? 自分より強い相手はおるのか。自分は日本で何番目なのか。自分はどこまで強くなれるのか」


 さっきまで騒ぎ立てていた観戦者たちは茂さんの話に聞き入っていた。どうしてか鼻を啜りたてる人までいる。

 切々とした語り口に、兄は「強くなりたい」と声をあげて応えた。


 その一言には生まれて間もない子鹿が立ち上がってくるひたむきさや、ライオンに襲われても事切れるその瞬間まで倒れることのない親鹿のような気高さがあった。


 茂さんはフレームのないメガネをおでこにずらして目頭を抑える。息をついてから自陣の王将を討った兄の「銀」にゆっくりと手をのばした。


 兄の静かな熱意が宿る、冷たい「銀」。


 茂さんの横顔は少年みたいだった。

 深い皺は蜘蛛の子を散らしたようにいなくなり、肌が若き日の張りを取り戻している。

 ぼくはこの笑顔はきっと兄が初めて将棋に出会った日の顔そのものだと思った。


「マスター。お父さんと相談して関西の奨励会への入会を薦めたってくれんか。推薦人はわしが見繕う。もうここでは隆司の力は伸びんよ」


 茂さんは誰も目にしたことのない美しい宝石を愛でるみたいに潤んだ瞳で兄を包んだ。

 ほんのひととき、全員の息が止まる。カチカチ、と一定のリズムを謳う柱時計さえ気を配ってくれている気がした。


「兄ちゃん、すげえ……奨励会ってプロになる人たちが通うとこやろ」

「おぉっ! 隆司!」

「たかし! やったな!」


 唖然とするぼく以上に、クラブの大人たちが分別もなく沸き上がった。

 それこそまるでプロの将棋指しになったかのような喚きようで、みんな何度も兄の頭を撫で、肩を揉み、涙ぐんでぼくのことまで抱きしめた。


 幼心おさなごころに兄もぼくもここで大事にされていたんだと実感した。

 場違いな小学生。口うるさい弟の手を引いてやってくる寡黙な兄。


 話の合わない子どもの将棋相手をすき好んでする大人がいるものか。

 お前らと指したくて、顔を見るのが楽しみで仕方なかったんだ。

 いつからか兄を「つかさ将棋クラブ」出身のプロ棋士にすることがみんなの夢になっていたと。


 兄を偲んだ際、マスターは当時のことをそう教えてくれた。



 強くなりたい――


 兄がプロ棋士をめざすことを決意した瞬間。小学四年の七月一日。

 茂さんに五連勝した、蒸し暑い夏のはじまり。

 右手に握り込んだ「銀」のキーホルダーが帰りがけのアイスに負けないくらい冷たかったことを、ぼくは未だに覚えている。

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