第6話 更生

 棟上げ式が終わろうとしていた。


 棟上げ式とは、新築の一戸建ての家を建て初めに沢山の大工が集まり、一気に骨組みを建ててしまい、その完成を祝うと同時にこれからの工事が無事進行するようにと、施主せぬしと設計士、大工、電気、設備、屋根、内装、外構などの家を施工する職人たちが集まり、ねぎらう会である。


 ささやかではあるがお酒と料理が施主から振舞われていた。


「それでは最後に一本締めをしてお開きにしようか」


 そう言ったのはこの建築の責任者で前島工務店の社長の前島幸樹だ。若い頃は相当ヤンチャをしたらしいが、高校を中退した後に大工の見習いになり、三十歳の時に独立して今の工務店を作ったやり手である。やり手ではあったがいまだにヤンチャの名残なごりがあり、右目の上にかなり目立つ切り傷のあとは威圧感があった。そういう訳で、仕事でヘマした時は口より先に手が出る事も多々あるのである。


「武士、お前やれ」


 社長が俺に一本締めの音頭を取れと指名してきた。予期していなかった俺は大いに戸惑とまどった。


「俺ですか」

「そうだよ。この現場はお前に任すんだから、やれ」有無を言わせぬ言い方だった。


 施主の安東さんを見るとにこやかにうなずいてくれていた。変に遠慮してグズグズしていると社長の手が飛んでくるので、俺は意を決して立ち上がった。出席者の目が俺に集まり、大工仲間たちが冷やかしの拍手をした。


「緊張してチビるなよッ」

 

 お酒を飲み過ぎた岩さんからチャチャが入ると、出席者からドッと笑いが起こった。おかげで緊張が少しほぐれた。


「それでは僭越せんえつながらめの音頭を取らせて頂きます」


 僭越という言葉を初めて使った。いつも社長が言っている言葉をそのまま真似して口にしたのだ。そして挨拶とクソの時間は短いに限るという社長のモットーを実践じっせんした。


「えー、安東邸の建築がつつがなく終了する事を祈願きがんして、お手を拝借はいしゃく


 一同の顔を見渡した。皆笑顔であった。


「よーおッ」


”パンッ” 一斉に手が叩かれた。


 短すぎる挨拶にまたチャチャが入るかと思ったが、誰も何も言ってこなかった。会はほどなく解散になった。


 酔いをます為に家から少し離れた場所で車から下ろして貰った。下戸げこの多田さんはこういう時に決まって運転手をさせられる。


「お疲れ様でした」


 多田さんの運転する車はクラクションを優しく一つ鳴らして走り去った。


 ここは神奈川県厚木市飯山。最寄り駅の小田急線本厚木駅からバスで三十分揺られなければならず、お世辞にも交通の便が良いとは言い難い場所である。しかし大工の俺にとっては交通の便は関係ない。通勤は基本車やバイク移動だし、一つの現場に通うのは長くても三ヵ月だ。だから俺的にはあまり不便は感じていない。スーパーには歩いて十五分で行けるし、コンビニも二十分以内に二軒ある。


 畑と雑木林の間の道を通り抜け、神社の前を通り過ぎると我が家が見えてくる。周囲を畑に囲まれた飛び地に八区画、五十坪の土地がコの字型にあり、そのうちの三区画に三戸家が建っているうちの一番奥に建っている家が我が家だ。畑の地主が相続税を払う為に売った土地を、不動産業者が造成して販売していたところを、社長の口利きで安く手に入れたのだ。一番早く家を建てたのは一番手前にある佐々木というサラリーマンの家だ。三十代後半の夫婦に小学五年生の女の子が住んでいる。次に家を建てたのが一番奥の俺の家で、その向かいの土地に今月初めに新たな家が完成したのだが、居住者はまだ越して来ていなかった。その家の建築過程を覗き見ていたが、大工の俺に言わせれば、見栄えは良いが中身は安価な材料を使用したチンケな家だった。おまけに建築を請け負った大工の腕もたいしたことはなかった。うちの工務店に任せて貰えていたら、同じ値段でもう少し良い材料を使用した丈夫で立派な家を建ててやったのにと思ったものだ。


 おや。


 その家の玄関前の外灯がともっているのが見えた。今朝家を出る時にはなかった車が駐車場に置かれていた。引っ越して来たのだろうか? 門柱や郵便ポストには名前は出ていなかった。どんな人が越して来たのか気になったが、どんな人であれゴミや騒音をき散らかさない人であれば歓迎する。


 自分の家のインターフォンのボタンを押した。


「俺」マイクに向かって言った。

「お帰り」優しくはずんだ声が返ってきた。


 門扉もんぴを開けて玄関へ向かった。玄関に到着する前に鍵が外され内側からドアが開けられた。


「お帰りなさい」妻の直美が飛び切りの笑顔で迎え入れてくれた。


 直美は美人の部類には入らないかもしれないが、愛嬌あいきょうのある狸顔たぬきがおのカワイイ女であった。


「ただいま」

「お疲れ様。棟上げ、上手くいった?」

「ああ、けど社長にいきなり締め音頭を取れって言われてあせったぜ」

「フフッ、目に浮かぶ。でもそれってお父さんが武ちゃんに期待しているって事じゃない」


 直美は前島工務店の社長の娘だ。


「で、上手く出来たの?」

「当たり前だろ。それより病院どうだった? 行って来たんだろ?」

「うん。順調だって」


 直美は妊娠七ヵ月だった。せり出したお腹はまさに狸腹であり、今日は定期健診の日だった。


「やっぱり女の子で間違いないって」

「やっぱり女か」


 娘が生まれるのは嬉しかったが、複雑な心境にもなった。それは、あの事件が影響えいきょうしている事に間違いなかった。


「なに、そんなに男の子の方が良かったの。女の子だって私たちの子供なんだからね」


 子供が出来たと聞いた時から俺は男の子がいいと言い続けていたのだ。


「分かっているよ、勿論もちろんそうだよ。ただ女の子だと色々心配な事があると思ってよ」

「やだ、もうボーイフレンドの事とかを心配しているの」


 直美は娘を持つ父親の気持ちを推察してケラケラと大声を出して笑った。


 確かにそれも心配だったが、俺にはそれよりももっと心配な事があった。それは直美と生まれてくる子供に、あの事件の事を知られるのが何よりも心配だったのだ。


 今の俺は過去の罪を償い、あの事件の事など覚えていない人々が暮らす土地で生活しているのだからそんな心配はしなくてもいいと思うのだが……。


「ご飯どうする?」


 棟上げ式で少し食べてきたのでお腹はあまり減っていなかった。


「お前食べたのか?」

「ううん、まだ」

「だったら貰うよ。たいして食べてこなかったから」


 直美は一人の食事だとお茶漬けなどで済ませてしまうかもしれない。妊婦には栄養のある食事をたくさん食べて貰わなければ困る。


「支度するからその間にお風呂に入って来ちゃって」

「ああ、分かった」


 俺は言われるがままに風呂に入る事にした。


 湯船にかってしみじみと思う。こんな幸せな日々が俺の身に起こるとは、数年前の俺は想像もしていなかったと。


 俺は、あの事件の罪を償う為に五年間少年刑務所に収容されていた。七年の刑が言い渡されていたのだが、真面目な生活態度と真摯しんしに反省している事が評価され、五年で出所する事が出来たのだ。そして二十一歳になった俺は社会に戻って来られたのだ。


 両親は俺の起こした事件が発覚し、逮捕され、裁判が結審する前に離婚をし、ほどなく二人ともどこかへ消えてしまっていた。マスコミに叩かれ、近所の人たちから白い目で見られた事に耐えきれず、逃げ出してしまった事は子供の俺にも理解出来た。


 保護者を失った俺は、保護司の紹介で山梨県甲州市にあるぶどう園で働く事になった。しかし二年が過ぎ、保護観察期間が終わった頃、仕事を辞めなければならない出来事が起こったのだった。


 俺が少年刑務所に入っていた事は、ぶどう園で働く人たちには知らされていたのだが、具体的にどんな事件を起こして入っていたかまでは知らされていなかった。


 当初は遠慮して突っ込んで話を聞いて来なかった人たちも、一年も経つと根掘り葉掘りどんな悪さをしたのかを好奇心旺盛に聞いて来るようになった。


 真実を知れば引かれる事は分かっていたので、引かれない程度の話をでっち上げて誤魔化していた。しかし保護観察が終わってしばらくくしたある日から、ピタリと俺に話しかけてくれる人がいなくなり、周りの俺に対する目が明らかに変わったのを感じた。


 それで俺は俺が起こした事件の事がバレたのだとピンときた。


 それでもホントにバレたのかを確かめたくて、一番親しくしていた少年院上がりの先輩の佐井という男に事情を聞く事にした。話を聞けるとしたら佐井しかいないと思ったのだ。


 佐井は俺の問いに素直に答えてくれた。


 それによると先週の日曜日にぶどう狩りに来たお客さんのブログに、俺の事と俺が起こした事件の事が詳しく書かれていたらしく、そのブログを書いた人物の友人がぶどう園で働いていた水野さんの知り合いで、知り合いは野次馬根性を出し、水野さんに俺の事を聞いて来た事で、俺が隠していた事件の事が一気にぶどう園で働く人たちに広まってしまったのだった。


 俺にはそのブログを書いた人物に心当たりはなかった。


 あの事件を起こした時、俺は十六歳の未成年だったのだが、地元ではちょっとしたワルとして知る人ぞ知る存在で、事件を起こした犯人が俺である事は周知の事実となっていたようだった。だからそのブログを書いた人物も、あの当時地元に住んでいた一人なのだろう。


 佐井は興味津々きょうみしんしんで『マジでお前がやったのか?』と聞いて来た。俺は少し迷ったが、ここで否定したところで意味がないと思い『そうだ』と正直に答えた。


『お前、マジでヤバい奴だったんだな』佐井は引きつった顔を見せてそう言った。


 ヤバい奴。そう、確かにあの事件の内容を知れば俺は相当ヤバい奴と思われても当然だった。


 事件の事が知られしまった以上、いくら『今は更生して真面目になりました。だから安心して下さい』と言ったところで誰にも信じて貰えないという事ぐらいは、中卒の俺の頭でも想像出来た。


 俺はその日に辞表を提出した。


 受け取った社長は、保護司から事件の詳細しょうさいを聞いていなかったと愚痴をこぼして来たが、引き留める言葉は出なかった。そして社長は、その日までの給料と『がんばれよ』という心のこもっていない言葉で送り出してくれた。


 ぶどう園を辞めた俺には行く当てなどなかったが、事件を起こした山梨からは離れ、事件と俺とが結びつかない土地で暮らそうと思った。


 その時、フッと頭に浮かんだのが厚木という街の名前だった。厚木という街には何の縁もなかった。ただ、昔父親が好きだったアイドルが厚木出身だと話していたのをおぼえていたのだ。地図で調べると、厚木は東京から少し離れた地方都市という感じだった。ここなら俺の事を知っている人間もいないだろうと思い、ここに移り住む事に決めたのだ。


 移り住む事を決めたはいいが、保証人のいない俺に住めるところは簡単には見つけられなかった。それでも何とか住み込みの新聞配達の求人を見つけて応募した。


 面接に出向いた新聞専売所の所長は、俺が提出した嘘だらけの履歴書と俺の顔を交互に何回も見返した。履歴書には勿論、事件の事や少年刑務所に入っていた事は書いていなかった。


 所長はいくつか履歴書に書いてある事について簡単な質問をして来たが、それについてはあらかじめ用意していた答えで無難にやり過ごす事が出来た。


 質問の最後に所長は健康状態と時間を守れるかを聞いて来た。俺は自分の持っている最大限の真顔を見せて、健康には自信がある事と時間を守る事を約束した。その両方の答えには嘘はなかった。ここ十年病気らしい病気はした事がなかったし、時間を守る事は長年の少年刑務所暮らしですっかり身に付いていた。


 その言葉を聞いた所長は、あっさり俺を採用してくれた。採用されてから先輩に話を聞くと、直前に二人に辞められていて誰でもいいから応募して来た人間を採用するつもりだったらしい。こうして俺は住む場所と仕事を確保出来たのだが、新聞配達の仕事は単調で退屈なものだと直ぐに気付かされた。


 新聞配達の一日は、深夜二時に起きる事から始まる。二時半に専売所に配達員が集合し、配送されてきた新聞を受け取り、その新聞にその日のチラシを挟み込み、三時半から配達が始まり、それを六時前に終わらせて後片付けをして仮眠をとる。そして十三時からメール便の配達をして、それを終えると夕刊が到着するまでの間に伝票の整理と翌日の朝刊に挟み込むチラシの準備をし、十四時半頃に夕刊が到着して配達して、十七時半過ぎに配達が終わり一日の仕事が終了する。


 そんな単調な生活を続けていたある日。


 俺は夕刊を配達している途中で建築途中の一戸建ての家の前を通り過ぎようとした時、家の前に捨てられていた木っ端に目が留まった。


 配達を終えた俺は、その家に引き返して木っ端を手に取った。木っ端のほとんどは十センチ以下のクズ木だったが、探すと三十センチ以上あるキレイな木も見つかった。


 その木を手に取り、これで何か作れないだろうかと考えた。少年刑務所で木工作業をしていた経験から、俺は木工作業が好きになっていたのだ。


 久し振りに木を手にして、その思いがよみがえったのだった。


その時、家の中から一人の男が出て来た。男は頭に日本手ぬぐいを巻いた作業着姿から、大工だろうという事が何となく分かった。その男は俺の事を見て立ち止まり、ゆっくりとした足取りで俺の方へやって来た。


「何だ?」男が言った。


 男の顔には目の上に切り傷があり、威圧感がハンパなかった。


「この木どうなさるんですか?」男の迫力に気圧けおされて、使い慣れない敬語を使って聞いてしまった。

「そんな木っ端捨てるに決まっているじゃねえか。何だ、お前欲しいのか?」男は俺の言いたい事を先取りして聞いて来てくれた。

「はい」自分でも驚くほど良い返事をした。

「こんな木っ端持っていってどうするんだ?」

「何か作ってみようと思って」

「何かって何だ?」


 別に具体的に考えていなかったが、何か言わなくてはと思いつくままに言った。


「椅子とか机とか棚とかですかね」


 その答えを聞いて男は吹き出して笑った。


「何言ってんだお前、こんな木っ端でそんなもん作れるわけねじゃねえか」

「いえ、普通の家具じゃなくて……。そう、ミニチュアの家具です」


 考える間のなく口をついた答えだったが、悪くない考えだと思った。


 男の顔が真顔に変わった。


「好きなだけ持って行け。その代わり作れなかったからってその辺に捨てるんじゃねえぞ」

「はい、ありがとうございます」嬉しくて素直にお礼の言葉が出た。

「そうだ、中にもう少しマシな木があるから持って来てやる」


 そう言うと男は家の中に入って行き、暫くしてまだ材料として使えそうな長い木を持って来てくれて渡してくれた。


 男は顔に似合わず優しかった。


 俺は再び感謝の言葉を述べて、貰った木を持ってアパートへと帰って行った。


 次の日曜日。俺は朝刊の配達を終えるとホームセンターへ行き、ノコギリ、カナヅチ、ノミ、カンナ、ヤスリを買ってきて家具作りを始めた。長めの木を貰えたので、ミニチュアの家具を作るのは止めて、子供用の椅子を作る事にした。


 それからは休みの日や休憩時間のほとんどを椅子作りについやした。その間何度か加工に失敗して木を無駄にしたが、半月かかって自分でも満足出来る椅子が完成した。


 大工の男にもう一度会って、俺の作った椅子を見て貰いたい気持ちがあったのだが、木っ端を貰った家の前を毎日通っても大工の男の姿を見る事は出来なかった。


 そうこうしているうちに、家の外壁を覆うシートと足場が取り払われ、家の完成が近付いていった。


 もう会えないのかとあきらめかけていた時、夕刊の配達中にあの家の前を通ると、大工の男が黒のワンボックスカーに大工道具を積み込んでいるところに出くわした。俺は配達をそっちのけて慌ててアパートへ椅子を取りに戻り、帰りかけていた男に声をかけて椅子を見て貰った。


 椅子は高さ三十センチ横三十センチ縦三十センチの腰掛け部分に、二十センチの背もたれがついた物だった。色やニスを塗っていない木のぬくもりをそのまま感じられる素朴な椅子だ。


 男は無言でなめ回すように椅子を見て、継ぎ目や仕上がりを手でなぞって出来を確かめていた。


「釘使わなかったのか?」

「はい」


 継ぎ目には釘を使わず、凸凹を組み合わせる仕口しぐちと呼ばれる技法を使って作ったのだ。


「ふーん……」


 男は再び黙り、継ぎ目を引っ張ったりして強度を確かめ始めた。俺は男の感想を固唾かたずを飲んで待った。


「どこで習った?」

「えっ」

「仕口で椅子を作るなんて素人には無理だろう」


 少年刑務所で習ったと正直に言おうとしたが、反射的に嘘が口を吐いて出た。


「独学です。本とか見たりして、何とか……」


 嘘だとバレないかとヒヤヒヤしたが、作り笑顔をして誤魔化した。


「独学だったら大したもんだ」男は椅子を俺に返した。

「ありがとうございます」プロの大工にめられて嬉しかった。

「新聞配達面白いか?」椅子とは関係ない質問を男がして来た。

「えっ、いや、別に……」

 次に続く言葉に迷ったが、つい愚痴が出てしまった。

「面白いわけないじゃないですか、毎日同じ家に新聞を配るだけの仕事なんて。方向音痴じゃなければ誰でも出来る仕事ですよ」


 方向音痴という言葉が笑いのツボに入ったようで、男は大声を出して大袈裟おおげさなくらいに笑った。


「お前面白い奴だな」


 そんな事を言われたのは初めてだったが、ヤバい奴と思われるよりはずっと良かった。俺は感謝のつもりで愛想笑いを返した。


「うちで働かねえか」


 不意打ちに、言っている事を直ぐに理解出来ずに固まってしまった。


「お前なかなか筋良いからよ、俺んところで大工にならねえかって言っているんだ」

「俺がですか」我ながらバカな返しをしてしまった。

「お前以外に俺が誰に話しているんだよ」


 怒った口調にビビったが、目を見ると、その目は笑っているようだった。


「いや、何か、突然だったもので、すみません」

「ハハッ、生きていれば突然予想もしねえ事が起こったりするもんだ。丁度若い奴が一人辞めてよ、どこかに使える奴がいねえかと探していたとこなんだ。で、都合よくお前が俺の前に現れたってわけだ。別に興味がなければ無理にとは言わねえよ、嫌々やって出来る仕事と違うからよ」

「いえ、興味あります。や、やらして下さい」慌てて答えたので早口になってしまった。

「そうか」


 男の顔が一瞬ほころんだ、が直ぐに真顔に戻って言った。


「最初に言っておくけどよ、俺は口より先に手が出るタイプだからな」


 分かる。おもっいっきりそんな顔をしていた。


「だからってむやみにやたらと殴るわけじゃねえんだ。同じしくじりを何度もしたり、遅刻や無断でバックレたりしたらよ、思わずいっちまうわけよ」


 男は不敵にニヤリと笑い、拳を俺の鼻先に突き上げてきた。その拳はごつくて細かい傷がいくつも付いていた。


「それが原因でこの前の奴も辞めちまったんだけどな。ったく、今どきの若え奴は根性がねえからな。もしかしてお前も今どきの若え奴の口か?」

「いえ、俺は今どきじゃない方の口です」


 昔はよくケンカをしたので、殴られる事には慣れている。ただ、殴られる事もあったが、それ以上に相手を殴っていた。だからもし殴られたら反射的に殴り返してしまうかもしれない。それが少し心配だ。


「そうかよ。お前もコレやった口か?」そう言うと、男は拳を振った。


 ケンカをよくしたのかという意味だ。


「まあ」曖昧あいまい肯定こうていした。


 その件に関しては突っ込まれたくなかった。少しのヤンチャなら自慢になるかもしれないが、俺のそれは少しのヤンチャをはるかに凌駕りょうがしていて自慢にならないのだ。


「だと思ったぜ。実はよ、初めて会った時から感じていたんだ。こいつは俺と同じ匂いがするってな。眼がよ、そういう眼をしているだろう」


 同じってまさか……、驚いて男の顔をマジマジと見た。


「親泣かせたんだろう?」


 泣かせたなんてもんじゃない。


「自慢じゃないが、俺は若い頃警察の世話に何度もなってな、そのたびに親呼び出されちゃ泣かれてよ、まあ最後の一線は越えなくて年少行かずに済んだんだけどな」


 男は若気のいたりを豪快に笑い飛ばした。


「お前もだろ?」


 俺のそれはそんなレベルではなかった。正直に俺のやってきた事を言って、少年刑務所に入っていたと告白すれば、昔ヤンチャしていたこの男も間違いなく引く事になるだろう。


「はい、似たような感じです」嘘を吐いた。


 ホントの事を言って折角のチャンスをふいにするのが嫌だった。


「よし、決まりだ」


 男は嬉しそうに言い、あっさり入社が決まった。


 こうして俺は新聞配達を辞めて、男が社長を務める前島工務店で大工になったのだ。


 前島の言葉に嘘はなかった。仕事でのしくじりは一度目は許してくれたが、二度目からは手が飛んで来た。ただし拳ではなく、後頭部を平手で容赦なく叩いてくるのだ。叩かれるたびに後頭部がビリビリとしびれた。


 しかし不思議な事に、いくら叩かれてもイラっとする事も刃向かう気も起こらなかった。それは叩かれるのは俺が悪いのであり、前島は俺を本気で一人前の大工に育てようとしていてくれるのが分かっていたからだ。


 俺は大工仕事が天職だと思えるような充実した楽しい日々を送っていた。一緒に働く大工仲間たちも、学歴はないが心のある気のイイ人たちばかりだった。


 二年も経つと前島から叩かれる事もめっきり減っていった。前島はお酒に酔うと『俺の目に狂いはなかった』と俺の背中をバシバシと叩くのがクセになっていた。その言葉を聞くたびに俺は無性に嬉しくなった。背中の痛みも心地いい痛みに感じた。


 前島の娘の直美と初めて会った時、直美はまだ中学三年生だった。学生服を着た直美を見かけると、胸の奥に残る傷がズキズキとうずくのを感じた。だから俺は直美に会わないように努力をした。しかし直美は高校を卒業すると、工務店で事務の仕事をするようになった。すると必然的に話をする機会が増えていき、二人の距離は徐々に縮まっていった。


 最初に食事を誘ってきたのは直美の方だった。直美は二十歳、俺は二十八歳になっていた。直美にはもはや学生の面影おもかげはなくなっていた。しかし社長の娘という事もあり、俺は直美の誘いを断ったのだが、直美は懲りもせずに事あるごとに俺を誘ってきた。それでも俺は誘いをのらりくらりと断った。


 そんな日々に業を煮やした直美は、ある休みの日に何の前触れもなく俺のアパートへ押しかけて来た。あたふたとしている俺をしり目に、直美はズカズカと部屋へ上がり込み、独身男の薄汚れた部屋を掃除した。さらに溜まっていた汚れ物も洗濯せんたくしてくれ、おまけに料理まで作ってくれた。


 自制していた俺も、直美の押しの強さにとうとう陥落かんらくしてしまった。


 その日を境に俺と直美は付き合うようになった。しかし二人が付き合っている事は社長は勿論、大工仲間たちにも秘密にした。『お父さんに知れたらきっとぶっ飛ばされるわよ』と言う直美の脅し文句が怖かったわけではない。俺自身が女と付き合う事に躊躇ためらいがあり、おおやけにするのが怖かったのだ。


 しかし間もなくそんな事も言っていられない状況が起こってしまった。直美が妊娠してしまったのだ。


 すると直美は俺の考えも聞かずに、俺の手を引いて社長の元へと連れて行った。社長は話を聞くと、問答無用に俺の頬を拳で殴りつけた。


 俺は抵抗しなかった。


 社長の奥さんであり直美の母親である美佳さんは止めようともせずただ見ていて、直美は倒れた俺におおいかぶさり父親に言った。


「殴りたいなら私も殴りなさいよッ。こうなったのは私にも責任があるんだからッ。でも覚悟しなさいよ、殴ったら赤ちゃんが生まれても絶対にお父さんには抱かせてあげないからッ」


 やはり直美は社長の娘だ。直美のそんな啖呵たんかに社長も俺も圧倒された。


 直美と社長がにらみ合って動かなくなり、部屋の空気が張り詰めた。先に目線を外したのは社長の方だった。社長は握りしめた拳を畳に打ちつけ、ドスンッと座り黙り込んだ。


 それが合図だというように美佳さんが口を開いた。


「はい、あんたの負け。直美の勝ち。女はお腹に子供を宿すと強くなるんだから」


 美佳さんは意味深にニヤッと微笑んだ。


 直美も母親に呼応するように笑顔を浮かべた。


 社長は言い返す事も出来ずに一言だけ言い放った。


「酒」

「やけ酒? それとも祝い酒?」美佳さんは真顔で聞いた。

「両方だ」社長は怒って言った後、顔が少しほころんだ。

「はいはい」美佳さんはそう言うと、満面の笑みでお酒を取りに行った。


 それからはあれよあれよという間に工務店で働く仲間たちが集まり宴会が始まった。


 俺に直美との結婚を断れる雰囲気など完全になくなってしまった。社長は結婚を許す条件として、俺に前島家の婿になる事を求めた。社長には入社した時、両親は死んでいないと言っていたので『婿入りに障害はないだろう』と強引だった。


 その申し出は俺にとってまたとないチャンスだと思った。婿に入れば名前を変えられる。そうなればあの事件を起こした自分から決別出来ると思ったのだ。


 こうして俺は凶悪犯の少年Bこと堂本武士から、真面目で腕のいい大工の前島武士へと生まれ変わる事が出来たのだ。


 直美と結婚してからの俺の人生は順風満帆じゅんぷうまんぱんそのものだった。


 自分の家を自分で建て、その家で暖かい風呂に浸かれて、優しい嫁さんを貰えた事は、過去の行いを反省し、罪を償い、心を入れ替えて真面目に生きてきたおかげだとしみじみ思った。


 長風呂から出ると、晩御飯が出来上がっていた。サラダに豚の生姜焼き、いんげんの胡麻和ごまあえとキュウリのぬか漬け、そしてたまねぎの味噌汁だ。直美らしく栄養バランスが取れた料理だった。


「そういえば向かいの家、越して来たのか?」外灯がついていたのを思い出して何気なく聞いた。

「うん、昼間挨拶に来た」 

「どんな人だ? 子供いたか? 小っちゃな子供がいたら生まれてくる子の初めての友達になるかもしれないな」

「ブッブー」

 直美はクイズ番組で出る不正解音を口をとがらせて出した。

「子供はいません。だって越して来たのはお年寄りの夫婦だもん」

「えー、年寄りかよ。それじゃあ友達になれないじゃないか」

「あら、お年寄りだってお友達になれるわよ」

「止めてくれよ、子供に年寄り臭が移るのは勘弁だぜ」

「年寄り臭ってどんな臭いよ?」直美は笑いながら聞いた。

「線香の臭いとかシップの臭いだろ。嫌だぜ、シップの臭いがする赤ん坊なんて」

「私もそれは嫌だな」


 二人はシップの臭いをさせている赤ん坊を想像して同時に笑った。


 バカな冗談に無邪気に笑い、俺は人生で一番幸せな時にいると思った。



 



 


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