口にはできない

 我が名は、と朗々と名乗りを上げる男にうんざりしていることを露とも隠さず、領主代理の少年は肘置きに寄りかかるように頬杖を突いた。

 まるで興味はないとばかりに指の爪を見る。

 ところどころ荒れてがさついている手はまるで特別な手入れなどされたこともないようだったが、それもそのはず、実際には手に関心などなく、爪の美しさ具合を見ていたわけではない。


 領主代理の少年は投げ出していた足を引き戻した。そのまま流れるように胡坐をかき、欠伸を一つ。

「そなたのその美声が非常にでかいことはよぉくわかった。けれども言いたいことがさっぱりじゃ。何ゆえ、先ほどから同じような言い回しの名乗りを繰り返し唱えておるのじゃ。呪文か。何度も言わずとも一度でそなたの名前くらい覚えられる程度の脳はあるのじゃ。それともワシを馬鹿にしているんじゃな? この無礼者をひっ捕らえよ!」

 まだあどけなさの残る声音で自分の珍妙な言動を指摘され、それまで床に膝を着き名乗りを上げていた青年は眉根を寄せた。顔にかかる長い髪を振り払うように首を振る。

「ローラム……そんな言い方はないだろう。すでに名を覚えられているかどうかは関係ないんだ。礼を欠いては失礼になってしまう。もう少し良い言い回しが見つかるまで、付き合ってくれてもいいじゃないか」

 急に立場が逆転した物言いをされ、領主代理を演じていたローラムはあらら、と肩を竦めた。

「礼も過ぎれば無礼となる、とも言いますけどね。大体、これを何度練習したって同じですよ。その緊張は僕相手じゃどうやったって解消できることじゃないんですから」

 椅子の上でローラムは、胡坐を組んでいる自分の両足首をぎゅっと捕まえた。椅子から身を乗り出すように、青年を見る。今は跪いているので目線は低いが、立ち上がればかなりの高身長だ。すらりと長い手足に、肩をかすめる髪はこの国で最も一般的な色である栗色だ。


 先ほどの演技は自分でもなかなかの出来であったと思うのだが、いささか「じゃ」を使い過ぎたようだ。聞きかじっただけの印象では、やはり現実味に欠けるのだろう。

 そもそも位の高い老人の話し方なんて、さっぱりだ。おとぎ話に出てくる老爺を真似たことも良くなかったのかもしれない。だがそれらをすべて棚に上げ、こほん、と小さく咳払いをして少年は話し出す。

「いいですか、エルトン様。名乗りは失敗したっていいんです。すでに相手はエルトン様の名前くらい知っているんですから。大事なのはその次、『娘様を妻に下さい』という言葉を、はっきりと、しくじらずに述べることです。もししくじったりしたら、とんでもない間抜けとして追い出されかねませんよ。……練習するなら、そっちだろうに」

 ねえそう思うでしょう、と椅子の脇に控えるように立っていた男に声をかけ、ローラムはすぐにしまった、という顔をした。慌てて表情を隠すように片手で目の辺りを覆う。指の間からちらりと盗み見るようにエルトンのほうを見て、小さな呻きを漏らした。

「神聖な言葉をお前相手に練習とか! 馬鹿か! あれは何度も口に出していい言葉ではない! つ、つつつ妻とか、嫁だとか、そんな、私たちにはまだ早すぎる! あ、いや、嫌とかいうのではなくてだな、だから順を追って」

 馬鹿はそっちだ。

 言おうとして、領主代理を演じていたローラムは、ぐっと堪えた。こんな態度で接してはいるが、曲がりなりにも彼は自分の雇い主である貴族で、名ばかりである自分がおいそれと口にしてはならない相手だ。

 特に、結婚の許しを貰いに相手の家を訪問することになっている、今日は。


 演技ではある上に正式なものでも何でもないが、今この場で領主代理の役回りであるローラムに声を張り上げたことでエルトンの緊張も少しはほぐれたかと思いきや、エルトンは自分の腹を摩り、情けなくもため息を吐いた。

 緊張しいの彼は、とても優しく、とてつもなく、失敗を恐れる人だった。

 その気持ちはわからなくもない。

 彼は現領主の孫娘を娶ろうとしているのだから。

 好きな女と一緒になろうというだけで、重すぎる家督までついてくるのだ。その事実をエルトンが知ったのはつい先日であり、少なからず長い間好意を寄せてやり取りをしていた間中、騙されている形となっていたわけだったが、特にそのことで腹を立てることもなかった。

 彼自身、薄々気付いていたところもあったのだろう。

 相手の立場よりもその人柄に惚れ込んだというのは、実にエルトンらしい伴侶の決め方だと思う。

 ただ、正式に交際許可を頂こうとしたらその部分はすっ飛ばされて婚姻という話になり、さらにいきなり担がされる重荷に不安になっているだけだ。自分に務められるのかと心配を口にすることは、ここ数日ですでに百は越えているのではないだろうか。


 そもそも孫娘にはほかにも男兄弟がいるはずだが、その誰もが祖父に認められていないようだというあまり良くない噂がある。腹の内を読めぬ可愛くない孫に椅子を譲るくらいなら、目に入れても痛くないほど溺愛している孫娘の婿に己の座を渡そうと考えたのだろう。逃げ出さずにあいさつに来るのなら即座に次期当主として扱おう、と彼女の祖父である現領主から宣戦布告的に告げられているのだった。


 そしてその当日である今日、早朝から不安に苛まれているエルトンは、布団の中で丸まっていたローラムを叩き起こし、こうして練習相手を務めるよう協力を求めたのだ。当国一の美女とまで噂される領主の孫娘を嫁にと望むのだから当然と言われればそれまでだが、それにしても心配し過ぎだろう。

 ――でも逃げたら地の果てまでも追いかけられて、孫娘にかかせた恥を思い知らされるに決まってるしなあ。

 ローラムは椅子から滑るように降りると、エルトンの頭に手を置いた。彼がしゃがみ込んでいるからこそできる行為だ。エルトンはローラムよりも頭一つ分は背が高く、立ち上がってしまえばその肩に手を伸ばすのも億劫になるほどだ。

「失敗したら、全部、僕のせいにしていいですから。酒でも飲まされて酔っぱらっていたとでも言えばいいんです。ね」

 さあ、立って。

 腕を取って促せば、今まで縋るようだった目と目が合う。

「失敗しても、お前のせいではないだろうが」

 さあ、困った。

 このエルトンという男は、優しさと誠実さでできているのだろう。そこに僅かにでも狡さや損得勘定という成分が混ざっていればもっと生きやすいだろうに、正直であろうとすればするほど、優秀であろうとするほど、彼は自分の首に綿を巻いてしまうのだ。

「では、僕があなたの代わりに彼女の家に参りましょうか。あなたのフリをして領主様の前に跪き、口上を述べて来ますよ」

「それこそ許されることではないと、わかっていて言ってるだろう。性質の悪いやつめ」

「いてっ」

 額を指で弾かれる。

 彼が嘘を吐くのは決まって他人を守るためで、それ以外に吐けば、口を腐らせ地獄に落ちるとでも思っている節がある。

 エルトンは自ら立ち上がり、腹から手を離した。

「……それに、お前には悪いが、私の代わりなどさせられないよ。役立たずと言うわけではないが」

「誠実は美徳と言いますしね」

 ローラムが一人納得し、頷いていると、ぽんぽんと頭を撫でられた。

 彼が不安に陥った時、ローラムが代わりを申し出ると急に頭の中に氷の塊でも出来たように芯からスッと冷静になれるのだと言う。

 何度か繰り返すうちに恒例の儀式となったやり取りを乗り越え、不安を押し込めたエルトンは苦笑した。

「この面は、私には似ても似つかぬものだからな。どうしても代わりを立てるのなら、もっと私に似た顔の者を使うさ。お前が顔面を蜂にでも刺されて腫らしているのなら別だけれど」

 べたり、と手のひらで顔面を撫でられた。

 そのまま頬をぷにぷにともてあそばれ、ローラムは構われて嬉しいような、子ども扱いするなと怒ったほうが良いのか、複雑な気持ちになった。けれども、悪い気分ではない。

「さて。行くか。朝から付き合わせて悪かったな。失敗してもそれは私で、私は失敗しないわけないんだから。……よし、大丈夫だ。失敗しても、大丈夫。意気地なしの底力を見せてやろう」

 フォローはしますよ、と言えば、エルトンはにこりと笑った。

「気持ちだけ、有り難く受け取っておく」

 そしてエルトンは別の家臣を引き連れ、普段からは想像もつかないほどめかし込んで、領主の屋敷へと出かけて行った。

 

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