第3話『復讐編』

 細川則子は、裁判長が閉廷を宣言した瞬間に壊れた。

 我が娘を亡き者とした犯人は、たった7年の実刑を言い渡されて、則子の目の前をのうのうと退廷していった。

 則子がどう頑張っても、彼が心から反省しているようには見えなかった。

 死んだのは彼女の娘であり、彼女自身ではない。

 しかし、この日を境に、則子はこの世に生きている、というのは名ばかりになった。ただ、生命としての肉体が活動しているに過ぎなかった。

 彼女は、復讐の修羅と化した。



 その事件が起こったのは、7ヶ月前。

 高校三年生の娘・美和が塾帰りの夜道で、蛇行してきた乗用車に跳ねられた。

 美和を前にしてもスピードをまったく落とさなかった車は、時速60kmを出したまま衝突。

 美和の骨盤を粉々に砕き、空中に30メートル前方に吹き飛ばし、それでも停止しなかった車は虫の息の美和の上からさらに踏みつけた。

 せんべいのようにぺちゃんこになった腕は、皮膚一枚で繋がっており、ほぼもげていた。

 交通事故なのに、状態はバラバラ殺人とそう大差なかった。

 美和をただの肉の塊にしたその車は、電柱にぶつかってやっと停止した。



 母の則子と父・康雄は警察から連絡を受けて、現場へと飛んでいった。

 そこは皮肉にも、自宅から300メートルしか離れていない路地だった。

 刑事から「お辛いでしょうが」と言われ、娘の死骸と対面した。

 一目見た則子は、反射的に食べた夕食をすべて吐いた。

 人間の形をしていなかった。

 気を遣った刑事はほんの一部分だけを見せようとしたのだが、最後の娘の姿を目に焼き付けようと思った則子は、死体にかかっていた覆いを全部取り除けてしまったのだ。

 片腕がない。

 むき出しの脊椎を残して腰がちぎれかかっている。

 そして恐怖漫画の絵のように、眼球が飛び出している。

「いやああああああああああ」

 毛が抜けるほどに頭を掻きむしって取り乱す則子を、刑事や交番の巡査が必死で介抱する。

 康雄は、死んだ娘と気も狂わんばかりの妻を見て、絶望のあまり首を振り、目を閉じた。

 そして、明日からどうやって生きていこうかと考えた。



 裁判というシステムは、被告側・原告側の双方に——

 特に、原告側にとっては拷問ですらある。

 事件が起こって、一瞬にして裁いてくれるわけではない。

 実に何ヶ月もかけて行われ、控訴などもしたらそれこそ足掛け数年になる場合だってある。

 その間、凶悪事件の遺族というものは、そういう目にあったことのない者の想像を絶する苦悶を味わわなくてはならないのだ。特に、子どもを失った親の絶望こそ、その最たるものであろう。

 則子は、事件直後は腑抜けになったように、放心状態で過ごした。

 しかし、彼女にはもう一人、娘がいた。

 美和の妹で、中学三年になる千里だ。

 そのことが、精神崩壊しかけた則子を何とか現実に引き戻した。

 そうだ、この子が残っている。

 千里のためにも、私はしっかりしなくちゃいけない——。



 しかし。

 地裁の判決は、立ち直りかけた則子が前向きに生きようとしていた心を粉々に粉砕した。

 この事件の被告、すなわちあの晩美和をはねた車の運転手・川上輝夫26歳は、現場から逃走。

 彼が警察に確保されたのは、7時間も後であった。

 当時の輝夫の周囲の聞き込みから、彼がある程度の飲酒をしていた可能性が出てきた。しかし、ふたつ問題があった。

 ひとつ。その情報を持っていた人物が、証言するのを拒んだからだ。何となく、飲んでいたのではと思っていても、『真実以外語らないと誓う』とまで言わねばならない、裁判の証言台に立つほどまでは自信が持てない、と。

 二つ目。飲酒運転として追求しようにも、彼が捕まったのは事故を起こした7時間後というタイミングで、血中アルコール濃度も検問なら「行ってよし」というレベルにまで薄まっており、事故当時の推定アルコール濃度がどうであったかを裏付ける確証に乏しく、検察側は決定打を欠いた。



 何より、事故の目撃者がまったくいない、というのが痛かった。すでに死んだ美和が発見されたのは、事故の瞬間から5分以上経過したあとだった。

『危険運転致死傷罪』が適用されるかが注目されたこの裁判は、運転者の危険運転が『故意』であったかどうかを立証することの困難から、結果としてそれは適用されず、業務上過失致死傷罪という結果に終わった。

 25年の刑になるはずが、なんとたったの7年の刑に落ち着いてしまったのだ。

 大学受験を前に、志望校に合格するため日夜勉強に励んでいた美和の遺影を抱えて臨んだ裁判は、あまりにも遺族の心を踏みにじるものに終わった。



「……細川さん、心中お察しいたします。残念です」

 共に闘ってきた検察官の内山は、眼鏡の奥に心からの悔しさをにじませて声をかけてきた。

「こちらとしては、この結果を不服として控訴する方向でいきたいのですが、細川さんもやはり同じ気持ちですか?」

 この時の則子を生かしていたのは、ただ復讐心だけだった。

 それがなかったら、恐らくこの裁判の後で、彼女は自殺を図っていたことだろう。

 美和の無念を思うと。

 そして娘の命の火を消した犯人が、たった七年の罪でのうのうと生き続けるのかと思うと、則子はただで死んでやるわけにはいかなかった。



 ……あの犯人にきっちり償わせるまでは、何としても私は生きる。



 本心では、犯人の刑を重くするよりも、もしできることならこの手で殺してやりたい、とさえ思っていた。



 則子は、180度人格が変わってしまった。

 その日から、彼女は『交通事故被害者遺族の会』のメンバーになり、精力的に活動を始めた。

 道路交通法や刑法など、現行法を見直すための嘆願書を作成し、街頭で署名を集めたりなどもした。そして則子に講演を依頼してくれるところへは、精力的にどこへでも顔を出した。

 裁判の前までは心の支えにしていた次女の千里のことも、もう彼女の頭の中にはなかった。

 あるのはただ、美和の命を奪ったどんなに憎んでも足らない川上被告を、納得いく処分に追いやることだけであった。



 遺族の会の会合で帰りが遅くなった則子は、家路をたどり夜道を歩いていた。

 彼女の頭の中は、今度のマスコミ取材のことでいっぱいであった。



 ……マスコミが取り上げてくれれば、世論を大きな味方にできる。

 これで高裁での逆転判決も、夢ではない——。



 時刻は夜の10時。

 則子がそんなことを頭に考えめぐらせていた時——

 突然、背後からまばゆい光が照り付けてくるのを感じた。

「きゃあっ」

 振り向いた彼女は、そこに信じられないものを見た。

 則子の記憶や知識の中から、その不思議なものが何かをあえて言い表そうとするならば——

 多分、それは『鳥』であった。

 則子の背丈の倍はあるであろう大きな鳥は、体中からまばゆい光を放出していた。

 そしてその目を見れば、その鳥が単なる動物ではないことが、則子にも何となく分かった。

 人間よりもはるかに高度な知恵と力を持った、現実を超越した何かの存在だと。



 あなたは 生きていて楽しいですか



 さらに驚いたことに、その鳥はしゃべった。

 その言葉を聞いた則子は、その神秘の鳥に驚くことも忘れるほどに、反感を持った。



「…楽しいか、ですって?

 楽しいわけなんかないに決まってるじゃないの!

 美和が死んだあの日から、楽しいなんて感情は私とは一切縁が無くなったんだからね。

 ただ、あの男にふさわしい償いをさせることだけが私の生きがいなんだから!」



 すみません 今のあなたには早すぎる質問でしたね



 その鳥は、たたんでいた片方の羽根を大きく広げた。

 揺れる羽根の一枚一枚から、蛍を思わせるような光の粒子が舞う。

 神秘の鳥は、則子を見下ろして尋ねた。



 それでは あなたの今の一番の望みは 何ですか



 則子は、フッと空疎な笑いを浮かべた。

 この鳥、もしかして分かってて聞いてんじゃないの——?

「決まってるじゃない。美和をはねたあの川上を、極刑にすることよ。できることなら、この手で殺してやりたいくらい」

 目を閉じて則子の声を聞いていた鳥は、虹色に輝く瞳を真っ直ぐに則子に向けてきた。

 そして、信じられない一言を告げた。



 よろしい あなたのその願い、かなえましょう



 その瞬間、鳥はその雄大な黄金の翼をはためかせたかと思うと、遥かなる漆黒の夜空へと舞い上がった。

 


 一週間後 私はあなたにその証拠をお見せしましょう それまで、待っていなさい



 思いがけない約束に面食らった則子だったが、飛び去ろうとする鳥に向かって顔を上げて、声の限り叫んだ。

「ちょっと! どうして私なんかのところに現れたの? そして一体あなたは何者なの!?」

 神秘の鳥の姿はすでに、空の彼方に随分小さくなってしまっていたが——

 その声だけが、則子にも聞こえるほどに朗々と響いた。



 あなたのはじめの質問

 私はあなたに興味を持った ただそれだけのことです

 そして二つ目の質問

 そう 私の名は 『永遠』



 やがて、周囲に静寂が戻った。

 まるで何事もなかったかのように、日常の夜道の風景が広がるばかりであった。

 路地には、人っ子一人いない。

 あんなにまぶしい鳥がいたのに、気付いて家から飛び出してくる者さえいない。

 則子は、今不思議な鳥に出会ったことでさえ、本当はただの夢だったのではないだろうか、と思った。



 家に着いた則子は、そのまま着替えてすぐにベッドに疲れた体を横たえた。

 彼女以外、家には誰もいない。

 裁判の日を境に、家族の心はバラバラになった。

 言ってしまえば、家庭崩壊状態だったのだ。

 遺族の会の活動や裁判のことなどだけに血道を上げる則子は、家族のことをまったく顧みなかった。家事の一切を放棄し、会話すら交わさなくなった。

 そもそも、則子が家にいるのは方々で活動して回って、夜遅くに帰って寝る時間だけであった。そしてまたすぐ、翌日の早朝には出て行ってしまう。



 父の康雄はやるせなさにやけになり、外で愛人を作り家に帰ってこなくなった。

 次女の千里は、受験前だというのに友達の家を泊まり歩き、なかなか家に帰ってこなくなった。

 以前より服装も派手になり、言葉遣いも乱暴になってきた。

 しかし、それらのことさえも、則子の心を、そして生活を昔に戻すことはできなかった。

 もう後戻りできないところにまで、彼女のこころは復讐鬼のそれに染まってしまっていたのだ。



「エッ、控訴なさるんですか? 7年を勝ち取りゃ、十分でしょうに」

 川上輝夫から控訴したいと聞かされた国選弁護人の鎌田は、信じられない、といった顔をした。

 輝夫は、弁護士との接見室の椅子にだらしなくふんぞり返ると、フフン、と不敵な笑みを浮かべる。

「……確かに人が一人はねられて死んだ。それは認めますよ。でも、俺は悪くないんっすよ。むしろこんな目に遭って、俺のほうこそ被害者みたいなもんだと言ってもいい」

 鎌田は、開いた口が塞がらなかった。

 弁護士という職業は、特にこの『国選弁護人』というものは、まともな神経ではできない仕事である。職業柄、弁護すると決まれば、どんなに自分が主観的に悪人だと思う人物であっても、全力で弁護しなければならない。そして彼の目の前のこのふてぶてしい男は、どう見ても明らかに悪人であった。



「控訴をすること自体は、別に構わんのです。どちみち、向こうだってしてくるでしょうしね。でも……わざわざあなたのほうからする必要はどこにもないんじゃ?」

 説得してみたが、輝夫の考えは変わらないようだった。

「……分かりました」

 書類をまとめてカバンにつめた鎌田は、部屋をあとにする。

 鎌田は、弁護士という仕事に少なからず誇りを持ってきたがー

 この時ばかりは、戦う敵であるはずの遺族の無念を思って、胸が痛んだ。



 その夜。輝夫は不思議な夢を見た。

 裁判で望み得る最短の刑期を勝ち取った輝夫だったが、その勝利は様々な波紋を呼んだ。

 世間は、法の矛盾や穴を利用して刑期短縮を勝ち取った輝夫を憎んだ。

 ある意味刑務所で保護されているが故に彼に手を出せない世間は、その一族に攻撃の矛先を向けた。

 父は失業。収入を断たれた川上一家は、持ち家を手放して朽ちかけた文化住宅に移った。

 母はパートの仕事を探すも、陰湿な嫌がらせが後を絶たず、職を転々とした。

 家のドアには、ペンキで書かれた『人殺し』『死んでつぐなえ!』などの文字が消しても消しても書き込まれ続けた。時には、糞尿が塗りたくられていることすらあった。

 警察も、ある程度以上は真剣に取りあってくれない。

 我慢の限界にきたら引越しすることでしのいでいたが、そのうちに貯金も底を尽き、それすらできなくなった。

 並みの事件以上に世間に衝撃を与えたこの事件は、人が簡単に忘れ去って風化してしまうのにはあまりにも影響の大きすぎる事件だったから、どこへ逃げても駄目だった。



 中学生の妹が、体育の時間の間に、何者かに制服をはさみかカッターかでズタズタにされたうえに排泄物をかけられ、泣いて帰ってきた。

 そしてついに——

 ある夜公園に連れ込まれて輪姦され、どこの誰か分からない人間の子種を宿し、妊娠した。

 精神のたがが外れた妹は、自分の膣内に指を入れて無茶苦茶にかきまわし、出血多量で病院に運ばれた。

 正気を失った彼女は、精神病院の閉鎖病棟に収容された。

 これでは、例え息子が刑期を終えて帰ってきても、私らに未来はない——。

 そう結論を出した父母は密閉された自家用車に乗ったままガスを引き、一家心中を図り死亡。

 親族達は、それぞれに遠方に散っていった。



「……何なんだよぉ、これはよぉ!」

 見たくなくても、逃げることができない。

 目を閉じたくても、閉じることができない。

 顔をそむけようとしても、その映像が直接頭に流れ込んでくる——。

 自分のことが一番かわいく、他人の苦しみなど思いやる力もない輝夫ではあったものの、さすがに身内の無残な最期を見せられて、気がおかしくなりそうになった。

 特に、仲の良かった妹が男に性器を突っ込まれながら殴られ、頬骨を砕かれながら犯される場面では、なけなしの良心を宿した輝夫の心は裂かれた。

「やめてくれえええええええ!」



 そう叫んだ瞬間、輝夫は夢から覚めた。

 ベッドから、ガバッと上半身のみを起こす。

 その彼の目の前には…不思議な生き物がうずくまっていた。

「お前は、誰だっ」

 逃げたくても、体が硬直して動かない。



 ……私の名は『永遠』



 鳥は、立ち上がってその大きな体を露にした。

 その全長は、頭が天井につきそうなほどであった。

「お前、しゃべれるのか?」

 そこは明かりを落としている真っ暗な部屋であるはずなのだが——

 鳥のようにも見えるその生き物は、自らの発するまばゆい光で室内を満たし、長い首を輝夫のほうに向けてきた。



 私は ある人物から頼まれて

 あなたに罪に応じた分の苦しみと報いを与えるようにと 依頼されて来たのです



 ……な、何だって? それじゃあ、あの遺族からか?



「そうかよ。それじゃ、俺のこと煮るなり焼くなり好きにするがいいさ」

 輝夫は、自嘲気味に笑い、投げやりな調子で言った。

「あんたのその感じじゃ、俺が逃げようが立ち向かおうが敵わなさそうな感じだしな」

 室内に光の粒子が充満する中、神秘の鳥は目を伏せた。


 

 私は 力を使ってあなたをどうこうする気はありません

 もっと言えば 依頼主の願いをそのままかなえるつもりもありません



 燃えるような大きな瞳をかげらせて、哀れむような視線で輝夫を見据えた鳥は、言葉を続ける。



 あなたには さらに見てもらわなければならないものがあります

 その上であなたがどうするかは自由です 私の知ったことではありません——



 そして世界の隅々まで響き渡るような澄んだ声で、高く嘶く(いななく)と、その大きな羽根を広げた。



 次の瞬間、輝夫の魂は逃げることもできずに、見せ付けられた。

 酒に酔っていた上にすぐに現場から逃げたためにろくに見ていなかった、美和の死体の隅々を。

 そして、彼女のそれまでの人生の思い出のすべてを。

 誕生、幼稚園、小学校時代。運動会、文化祭、修学旅行、遠足——

 中学、初めての制服。楽しかった美術部。

 初めて意識した異性、初めての告白——。

 高校。美大受験のために頑張った塾と部活の両立。

 両親には内緒にしてあったが、将来を約束しあった彼氏との一夜。

 そして迎える、死の日。

 遺族の嘆きと悲しみ、復讐心の虜になった母を起点に、崩れ行く家族——



 それまで、相手の立場に立ってものを考える力のなかった輝夫だったが、これで殺した相手のすべてを味わい尽くしてしまった今、彼の胸にはいつまでも消えることのない後悔だけが残った。

 すべてを見せ終わった神秘の鳥は、何も言わずに静かに飛び去って行った。

 輝夫は、ベッドの上でそのまままんじりともしなかった。

 朝を迎えても、彼は天井の一点を見つめたまま、動くことはなかった。



 知らせを受けた則子は、遺族の会の講演をキャンセルして警察に駆けつけた。

 ほったらかしにしていた次女・千里の変わり果てた姿が、そこにあった。

 頬がこけて、手も足も細く、ガリガリに痩せていた。

「……お嬢さんは悪い仲間に勧められるまま、麻薬に手を出していたようです」

 千里は、則子を見ても反応しなかった。

 目の焦点も定まらず、視線は天井をさまよっている。

 少年課の婦人警官は、言いにくそうに説明する。

「栄養状態が悪く、麻薬の幻覚症状も抜けていないので、施設に入所しての治療が必要です。そして……どうも乱交まがいのことにも加わっていたようで、膣内をかなり傷めています。この年齢でのことだけに、治療をしたとしても、もしかすると将来の妊娠が難しいかもしれません」



 復讐の鬼だった則子の瞳から、涙がこぼれた。

「………ごめんね、千里ちゃん」

 母親を認識すらしていないらしい、千里の痩せこけた体にしがみついた則子は——

 復讐のために魂を悪魔に売り渡したあの日以来、初めて涙を流した。

「寂しかったのね。美和のことも確かに大事だった。でも、それ以上に忘れちゃいけなかったのは………あなたのほうは現実を『生きている』ってことだったのよね?」

 生者をおろそかにして死者ばかり見つめてきた則子は、己の招いた悲劇に初めて気付いた。

 もっと言えば、それまで美和のためと思ってしてきたことが、本当に死んだ美和が喜ぶことなのかどうか? と考えると、則子は自分というものが足元からガラガラと崩れていくような思いであった。

「千里、バカな母さんを許してねっ」

 取り返しのつかない間違いを重ねた果てに、ようやく心が結ばれた親子を——

 居合わせた婦人警官は、やるせないような複雑な思いで見つめるのだった。



 三ヵ月後。

 蝉の鳴く、猛暑の夏の空の下。墓地の中を歩く則子の姿があった。

 彼女は、ある墓石の前に立ち止まり、彫られた名前を確認すると、その場に膝を折ってペタリと座り込んだ。

「………何で死んじゃったの」

 則子の目から、今まで流してきたどんな涙とも違う、異質な涙が流れた。

 彼女が前にしているのは、美和の墓ではない。

 そう、それは美和をひき殺した川上輝夫の墓だった。



 輝夫は、拘留先で自殺した。

 刃物やしっかりした紐類も置いておらず、飛び降りるにも窓はすべて自分から開けられる環境になかった彼は、自らの舌を噛み切って死んだ。

 劇的な裁判の、そして事件の幕切れであった。



 輝夫の自殺した夜、あの神秘の鳥は則子の枕元に現れた。

 そして、輝夫に見せたすべてを、則子にも見せた。



 ある意味 あなたの望んだ以上の結果を生んだじゃありませんか

 憎いあの男は死んだのですよ



 鳥の問いかけに、則子は血が出るまで壁に頭を打ち付けた。

 そして、輝夫とその家族のために、泣いた。

 火がついたように、泣いて転げまわる則子を、鳥は静かに見守り続けた。



 本当は 人間にこんなことを打ち明けてはいけないのですが



 哀れみの視線を則子に落としたまま、鳥は語る。



 この世界は、一見不平等に満ちているように見えますね

 善人が不幸な目に遭ったり 悪人が金持ちになって死ぬまで楽な生活を送ったり

 でもそれは、この現実世界の現象面だけしか見ていない人間の あさはかな認識なのです

 はっきり言いましょう

 世界のすべては『永遠』という視点から見るならば すべて帳尻が合うように

 すべてが平等になっているのです



 人間は死ねばそれで終わりではありません その魂は永遠です

 すべては個ではなく 最終的にはひとつなのです

 あなたは彼であり 彼はあなたでもある

 今は 分からずともよいのです

 ただ 悪に対して 力でやり返しても何もなりません

 されたことをそのまま反射すれば それはまた別の新たな反射を生み

 いつまでもこの世界で増幅され続けます

 だからあなたは ただ自分と残された者の幸せのみを考えればよいのです

 悪人のことは 宇宙の理(ことわり)に委ねるのです



 則子の心から、輝夫に対する憎しみが消え去ったわけではない。

 ゆるしたわけでも、もちろんない。

 ただ、このような運命に見舞われた一人の人間への憐れみがあるばかりであった。

 そして、あれほど死んでしまえばいいと思っていた川上輝夫にいざ自殺されてしまってみると——

 則子の胸は、狂おしいほどに痛んだ。



 それでは お別れです



 神秘の鳥は則子に背を向けると、黄金色の翼を左右に広げた。



 今後どう生きるのかは あなたに任せます

 あなたの前に現れなくても 私はいつでもあなたを見ています



 それだけ言い残して、光の軌跡を宙に残しながら鳥は彼方へ消えていった。



「………死ななくてもよかったのに。死ななくてもよかったのにぃ!」

 墓石の前で、則子は声を上げて泣いた。

 すべてを鳥から見せられて知っていた彼女は、精神病院に残された輝夫の妹の不憫に思いを馳せた。



 ………あなたは、どんなに辛くても生きてあげなきゃいけなかった。妹さんのためにも。

 それが、あなたにとっての本当の『刑』であったというのに——



 則子は、それまでの加害者側に対する攻撃的な活動をやめ、被害者の心のサポートや慈善事業、福祉活動に専念するつもりでいた。もちろん、娘の千里のことも見守りながら。

 そして彼女には今、ひとつの確信があった。



 ………今私がすべきなのは、死んだ者を嘆き、すでにいなくなった者の無念を晴らすことなどではない。

 ただ、残された者たちがその現実を逃げずに受け止めた上で、なお私たちに再び笑って暮らせる日が来るように努力すること、与えられたこの生を喜び、感謝して生きること。



 涙に濡れた顔をハンカチで拭うと、則子は墓石の前で一礼し、その場を去った。

 アスファルトの道に陽炎が立ち上る中を、則子は歩いてゆく。

 その上空で——

 あの神秘の鳥が則子を見下ろしつつ飛翔していたことを、彼女はまったく知らない。



 蝉の声が、突き抜けるような夏空の中、どこまでも響いていた。


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