茉里が目を覚ますと、外は明るかった。なぜか、元いたベッドに寝ていて、室内用のスリッパもきちんと揃えて並べてあった。

 茉里は、昨夜のことを思い出し、自分の片足に手をやった。冷たい手に強く握られた右足には、その感触がはっきりと残っている。

 あれは、決して夢なんかじゃない。

 しかし、それでは、茉里はどうしてベッドの中にいるのだろう。誰かがここまで運んできてくれたのだろうか?

 茉里は、矛盾したその状況に耐えられなくなった。このままひとりでいたら、怖い想像しかできなくなってしまう。早く他の人に会って、どうにかしたかった。

 出来る限り早く着替えて朝の仕事に出た茉里は、明るいペンションの様子にホッとした。眠い目をこすりながら起きてくる客には緊張感もなく、忙しく働いていると、昨夜のことなど忘れてしまいそうだった。

 しかし、仕事の合間に訪れる少しの隙に、どうしても昨夜のことが出てきてしまう。出てくるたびにその嫌な考えを振り切って仕事に戻る。

 全ての客がペンションから去っていくと、茉里は、掃除をしながら今日の宿泊客のチェックをしている翠に、昨夜のことを聞いてみることにした。

「翠さん」

 緑が話しかけると、翠は茉里の方を向いて、にこりと笑った。茉里はその笑顔に安心して、翠の方に寄っていった。

「あの、翠さん、昨夜、私、洗面台のところに倒れていたりしませんでしたか?」

 翠は、尋ねられると、さて、と、付け足してこう答えた。

「不思議なことを聞くのね、茉里さんは。一体どうしたの? 洗面台に何かあったなら、直さなきゃいけないけど」

 茉里は、それを聞いて、少しホッとした。もしかしてあれは夢かもしれない。

「すみません、私の思い過ごしでした」

 いそがしい翠に、心配をかけてはいけない。茉里はそう感じて、掃除を再開した。翠は、そんな茉里を見て、不思議そうに茉里の背中を見た。

 茉里は、掃除を終えて、ひと段落ついたときに、翠に休憩を申し出た。

 あの石は、捨てなければならない。おそらく、あの夢はあの石のせいだ。根拠はないが、そういう考えがいまの茉里の頭を支配していた。

 休憩の許可が出ると、茉里は走って、石を拾った湖岸まで行った。途中、確かに慰霊碑を見たが、それに構っている暇はなかった。息を切らせて湖岸に着くと、茉里は石を握って、それを湖のなかに捨てるため、腕を振り上げた。

 しかし、茉里の腕はそこで止まってしまった。誰かに手首を掴まれたからだ。掌も石を握ったまま開かない。

「その石は捨てられない」

 後ろから、声がした。男の声だ。細身で色白のその男性は、声を失った茉里に、無表情でこう告げた。

「僕は及川という。君の働いている場所に連泊する予定だ。君の昨夜の体験のこともある。気になるのなら来るといい」

 男性は、そう言って不思議なセリフを残すと、石を捨てられなくなった茉里を置いて、森の中に消えていってしまった。

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