Chapter 2 Ignite ⑤

 中央区勝どき。

 黎明大橋と並ぶようにモノレールが走っていた。ゆりかもめ線である。

 以前までは新橋から豊洲までを走っていたゆりかもめ線ではあるが、開通当初から勝どきへの延伸が計画されていた。だが地元民の反対により頓挫、そのまま凍結を余儀なくされた経緯がある。

 それも東京オリンピック以後、新興産業である戦闘プロパイダが臨海副都心を中心に勃興し始めたとこで話が変わってきた。また以前から問題視されていた都営大江戸線勝どき駅のあまりの混雑具合が限界に達すると同時に、凍結されていた延伸計画が再開され、現在は豊洲からさらに勝どき駅へモノレールが走るようになっていた。

 シマダ武装警備の寮はその隅田川と運河に挟まれた街にあった。

 常日頃から美月たちは豊洲のオフィスから勝どきへはモノレールを利用していたが、今日は林が美月、夕夜、朝海の三人を寮まで送り届けていた。

「スアンさん、ありがとう」

 社用のワゴンから車椅子を下ろしてもらった朝海が礼を言う。

「どういたしまして」

『スアン』と呼ばれた葵が応える。

「おやすみなさい、スアンさん」

「はーい、おやすみー」

 そう言って車を降りる美月にも手を振る。

 イム・スアン。それが林葵のもう一つの名、あるいは本名とも言える名だった。『林葵』という名はいわゆる通名である。

 食事の席で朝海をはじめとした一部の人間が葵のことを『スアン』と呼ぶことに疑問を持った美月はどういうことか訊ねてみたことがあった。

 在日韓国人。葵はそう呼ばれる者の一人だった。実家は大阪の鶴橋で焼肉屋を営んでいたという。彼女曰く「お決まりのパターン」であるらしい。決して裕福とは言えず、偏見の目を向ける日本人にも、同じ民族同士で固まってばかりのコミュニティにも閉塞感と息苦しさを感じ、逃げるように東京へ出て紆余曲折を経て傭兵となった。その過程で何度か日本国籍への帰化を考えたが法務局の者の舐め腐った態度と電話帳とも見間違える程の大量の書類に辟易して、結局途中で投げ出した。以上話はお終い、とでも言うようにビールのジョッキで口に蓋ををした。美月はその横顔を今でも覚えている。ほんの僅かに鬱陶しいそうに眉根を寄せていた横顔を。

 別段、葵自身はそれで不便なことは無い。相も変わらずこの国の人間は自分のような立場の者を二等市民などと非人扱いしているが、有象無象が囀ったところで知ったことでは無いと思える程に彼女はタフだった。それに今の職場はそのような些事を気にする者はおらず、居心地も良い。

 職場には『林葵』の名で通してはいるが、本名で呼びたい者には好きなように呼ばせていた。朝海のように付き合いの古い者の中には葵を本名で呼ぶ者も多い。

 車椅子の朝海の傍に美月と夕夜が伴い寮に向かい始めた姿を見送って、葵はワゴンを寮の駐車場へと駐める。

 その横には彼女の愛用者であるトヨタ・スープラがある。彼女の好みによってあらゆる箇所からカスタムされた特別仕様である。降車がてら、葵はペットを愛撫するように愛おしそうに指を純白のボディに這わせた。

 シマダ武装警備の寮は食堂や浴場、簡易的なジムなどがある共有スペースと男子寮棟、そして女子寮棟の三棟で構成されている。

 その女子寮を美月と電動車椅子に乗った雪村朝海が連れ添って歩いていた。

「あんがとね美月さん、送ってくれて」

 二人が朝海の自室の前までたどり着くと、朝海は美月の顔を見上げて礼を言う。

「あとは一人で大丈夫なんですか?」

「だいじょーぶ。おやすみなさい」

「おやすみなさい」

 そうして自室へ戻る美月と別れると、朝海も自室へ入った。

 主の帰宅を感知してホームセクレタリーが起動する。照明が自動で点灯し、壁に貼り付けられたホロスクリーンが起動する。そして、車椅子に座っている朝海と同程度の背丈の一体の介護用ロボットが朝海を出迎えた。

《おかえりなさいませ、朝海さま》

「はい、ただいまー」

 足が不自由である朝海の身の回りを介助するロボットである。シマダ武装警備の親会社である島田機械製によるもので、朝海はその新型のテスターも務めている。

 二〇三〇年代後半となってようやく実用化され始めた介助ロボットであるが、その普及率は年齢層が高齢になるにつれて極端に低くなっている。高額ということもあるが、未だに「人間の手じゃないと感情が込もっていない」という感情論で否定している。朝海からすれば全く理解の及ばない考えだった。人の手による介助よりも遥かに安全で確実だし、何より介護師もだいぶ楽できる。

 苦労を強いられることが仕事をすることでも思っているのだろうか。苦労を強いることが仕事を課すことでも思っているのだろうか。朝海には理解できない考えだった。

 介助ロボットの手を大いに借りてシャワーを浴びて寝支度を整える。パジャマ姿に着替えさせてもらった朝海はデスクの前に向かう。

 朝海のデスクにはいくつもの端末が並んでいた。ラップトップもあれば、ホロスクリーンに映し出されているデスクトップ、その隣に並んでいるのは自宅用物理サーバーである。

 足の動かない朝海にとってこれらは、傭兵達が持つ武器にあたるものだ。

 そしてネットワーク、電脳こそが彼女が担当する戦場だった。

 医療用ナノマシンの治験事故。雪村朝海はその被害者三百人の内の一人だった。

 小児がん。出来損ないのナノマシンに冒される前の朝海の記憶は病院の中のものしかなかった。抗がん剤の副作用で全身の毛髪は抜け落ち、激痛に苛まされる夜をいくつも乗り越えてきた。院内を少し歩くにしても点滴を連れ立つ必要があった。

 院内学級にも通ってはいた。だがある日突然に同級生がいなくなる現実を目の当たりにして幼心に言いようのない恐怖を覚えた。両手の指では足りないほどの今生の別離を経験しても、決して慣れることはなかった。

 そして、自分の番は訪れることを知る。両親と担当医との会話。もう自分に残された時間は長くは無いという内容は理解できた。

 いつかこんな辛い日が終わる。具体的な日数はわからないけど、抗がん剤による痛みと嘔吐感に苛まされる夜が終わる。ずっとそのように気持ちを強く持たせていた。

 確かに辛い日々は終わる。だがそれは自分の命を以てしてのことだった。

 死に対する諦めと恐怖が綯い交ぜとなった、残された日々を送る中で朝海とその両親の元にある話が舞い込んでくる。

 その話こそ、新しく医療用に開発されたナノマシンの臨床治験の件だった。

 もとより選択の余地など無かった。可能性が僅かにでもあるなら、それに縋るしか他は無かった。

 結果として、彼女の命は救われた。体中を蝕んでいた小児がんによる症状は完全に寛解した。

 だが、それとは別のもっとおぞましいものが彼女を襲った。既にナノマシン治験事故という戦後最大の医療事故として広く知られている通り、治験者の脳と身をナノマシンが蹂躙した。彼女の場合、脳の情報処理能力と両脚にALSにも似た運動ニューロンの変性が見られた。

 両脚の症状はALSに酷似しており、頚椎の損傷などによる麻痺では無いため知覚を司る神経は生き残っている。発汗などの自律神経による働きは健在だった。不幸中の幸いという言葉は何ら慰めにもならないが。

 そしてナノマシンが彼女の頭をいじくり回したことで、朝海は常人よりも鋭い感覚を得てしまった。日常の普段の刺激さえも、彼女には悩ましく煩わしいものになってしまった。慣れるまでに、いくつの眠れない夜を泣きながら過ごしてきた。

 小児がんが寛解しても、彼女の生活は何も変わらなかった。夜毎痛みと嘔吐感に襲われることは無くなったが、その代わりに動かない足とより鋭敏になった感覚に意識がついていけないこと、そして何より未だに自らを破滅寸前にまで追い詰めたナノマシンがその身の中に居座っているという事実に苛まされることとなる。

 結局、小児がんは治っても朝海の世界は変わらなかった。相変わらず彼女の世界は病院の中で完結していた。それどころか、今度は彼女に好奇のまなざしが注がれることになる。ナノマシンによって引き起こされた人類史上初の症例。医者も報道も、半分程は朝海をモルモットを見る目で見ていた。彼女の心が歪むのは時間の問題だった。

 そんな彼女にも拠り所の一つがあった。両親に買い与えられたコンピューターである。病院内に閉じ込められている朝海からすれば、インターネットと電脳は彼女の世界に広がりをもたらした。

 だがそれと同時に、彼女の歪んだ情念の発散の場ともなった。

 鋭敏になった脳の情報処理能力は彼女にコンピューターサイエンスの一から十をあっという間に理解させた。小学校を卒業する頃にはブラックウェブにアクセスするために、自らの存在を偽装し監視の目を欺く用途のプロキシサーバーを構築するほどとなり、いつしかナノマシンに関わった製薬会社などの企業、そして公的機関を遊び半分復讐半分でクラッキングする程となった。

 それは脚を動かすことができない彼女が「私はここにいるぞ」と己の存在を誇示するという意味合いもあった。

 やがて、朝海のハンドルネームに『ウィザード』の冠が付くようになり、クラッキング被害が子供の悪戯の範疇では収まらない程になった頃に転機は訪れた。

『シマダ武装警備』。朝海の元に訪れた『樺地冴子』と名乗る目つきのキツい女は自らの所属をそう告げた。

「君が悪さをした公的機関のサーバーの中に政府与党が握り潰しきれないレベルのスキャンダルがあってね」

「存じてます」

 冴子は口端を釣り上がらせて鼻を鳴らす。

「わかっててやったのか。まぁそんなことはどうでもいい。今絶賛、公僕どもが国家の威信をかけて君の尻尾を掴もうとしている。未だにJavaScriptも理解出来ない日本警察など、ウィザードと称される程の君の技術力ならその尻尾を掴ませる恐れは無いだろうが、君はまだ若い。その若さから万が一ということもあり得る。連中、君が未成年であることなど考慮しないだろう。むしろ下手人がナノマシン治験事故の生き残りとなれば連中は血眼になるだろう。ナノマシン云々は奴らにとっては闇に葬りたいものだろうしな。私達としては君のような才能を税金泥棒どもに潰されるのは非常にもったいないと思う。そこでだ、君、ウチで働かないか。一応障害者ゆえに免除はされてはいるようだが、十三歳以上の生徒には学徒労働者として労働に就く義務があるのは知っているな。もちろん、相応の賃金と君と君の家族の身の安全は保障することを約束しよう」

「警察に突き出されたくなかったら、貴方達の仲間になれということですか」

「我々としては君がここでNOと言っても、君をどうこうするつもりは無い。私達は何も見なかった、聞かなかった、知り得なかった。我々は君にたどり着くことは無かった。そういうことになる」

 朝海も冴子の言葉に嘘偽りは無いと思えた。

「肝心の仕事内容について説明はまだだったな。まぁ君が今までしでかしてきた火遊びに用いてきた技術力で働いてもらう」

 要はこの樺地冴子という女は自分をスカウトしにやってきたのだ。

「ただし、これまでのヌルい悪戯とは比べ物にならないほどにホットな案件ばかりだ」

 ナノマシンが無ければ自分は十歳を超えることなくこの世から去っていただろう。

 今自分がこうやって生きながらえていられるのは、ナノマシンによるものだと言える。

 それでも、憎悪を抱かずにはいられなかった。

 自分の中にまだ殺人ナノマシンが居座っているという恐怖。動かない足。ナノマシン治験事故の被害者を特権階級と罵って憚らない『善良で一般的な普通の日本人』達。 

 倫理観などとうの昔に剥がれ落ちている。それは決してまだ自分の中に居座っているナノマシンによるものではない。きっかけこそナノマシンではあったが、間違になく自分自身の憎悪だと言い切ることができた。

「面白いぞ?」

 冴子の薄い眼鏡のレンズが怪しく煌めく。彼女の口の端が釣り上がる。釣られて朝海も昏い笑みを浮かべた。

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