『母』 第4話

 おばさんは玄関の前でくどくどと言葉を連ねていた。僕は息をひそめながら、塾の課題を片付けていた。

「どうして返事をしないの。ああ、もしかして、体調が悪いんじゃないの。風邪でも引いたの、病気なの。大変じゃない! ああ、こんな時に、またお父さんは留守じゃないの。ダメね、ダメ。やっぱり子ども達にはもっと庇護者が必要なんだわ。私みたいに、行動できる大人が……。待っててね、今助けてあげますからね。どこか、開いてないかしら?」

 心臓が凍えた。おばさんは家に入ってくるつもりだ。真夏の事だから網戸のまま開いている窓はいくらでもある。そこからおばさんのこってりした顔がぬーっと入って来るところを想像すると背筋が震えた。

 そうしたら、お母さんの声がした。

「ちょっと、あなた、人の家で何をしているの」

「え? なによ、あなたこそ……」

「あら、あなた嶋田さんじゃない。あなたのお城、近頃評判よね。あまり良くない方に。見せびらかしの度が過ぎたのかしら。で、焦って、取り乱して、うちの美木正を無理やり引っ張り出しに来たってわけ?」

「ああ、それじゃ、あなたは美木正君のお母さん? ……いいえ、そんなわけはないわね。本当にお母さんなら、子どもを置いて出て行くわけはありませんからね。聞いているわよ、あなたのこと。保護者の間じゃ有名ですもの。ええ、もちろんあまり良くない方で。子どもがいるのに他の男に入れあげて、離婚して東京に逃げたんですって! いったい何のつもりで、ノコノコと戻ってきたの」

「あなたの知ったことじゃありません」

「いいえ、わかるわよ。子どもに未練があるんでしょう。普通、夫婦が離婚したら、子どもは母親の方について行くのが当たり前なのにねえ、あなた一人だけが家から追い出されたのよねえ。まあ可哀そう。自業自得だけど。そんなあなたに、美木正君にどうこう言う権利なんてありません」

「権利? あなたには権利があるとでも? 趣味で子どもを寄せ集めしている怪しい大人のくせに、よく言うわ。何があろうと私は美木正の母親。その事実は誰にも曲げられやしない。我が子が変なおばさんに絡まれていたら、助けてあげるのが当たり前でしょう」

「趣味だなんて、変だなんて、私は、私は、子ども達の将来を考えて――」

 二人の声はだんだん高く、大きくなって、近所に響き渡るほどになっていた。その時にわかに激しい雨が降り出さなかったら、その場でつかみ合いの喧嘩になっていたかもしれない。

「大人って、変だね。雨に濡れることを凄く嫌がるんだ。女の人は特にそうだ。僕たちは少しぐらい平気なのにさ」

 突然の雨に降られて、お母さんは玄関の鍵を開けた。ところがおばさんも家に入ろうとして、また激しい言い合いになった。

「その隙を突いて、僕は庭からこっそり抜け出したんだよ。かくれんぼしてやったんだ。洗濯物を干すためのサンダルを履いてね。傘は玄関にあるから持ってこれなかったけど、せめてタオルの一枚ぐらいは持ってくれば良かったかなあ」

「なんだ、好きで濡れていたわけじゃないのかい。ほら、タオルならあるよ」

 貞はまるで手品師だ。さっきまでそんなものを持っているようには見えなかったのに、僕の頭に、ふわりと白いタオルをかけてくれた。シルクのハンカチではなくて、農家の人が首にかけるような薄いタオルなのは、手品師としては少々締まらないけれど。

「ありがと」

 ご神体をわきにおいて、適当に頭と体を拭いた。たった一枚の布切れだけど、それに触れているだけで、いくぶん体の温まるような気がした。

 家を出たのは十一時を少し過ぎたぐらいだった。時計がないから今一つはっきりしないけど、お腹の空き具合からしてそろそろお昼だ。昨夜お父さんのつくったカレーがまだ残っていたから、昼ご飯はそれで済ませるつもりだった。

「家に帰りたければ、帰ってもいいのだよ」

「ううん、まだここにいる。ここは、安全だから」

 家を飛び出した時は、どこにも行く当てはなかった。ただ逃げたいだけだった。気が付けば、夢中で神社への石段を登っていた。雨に濡れた石段にサンダル履きは登りにくかったけれど、なんとか以前のような無様を晒すこともなく、神域へ辿り着いた。

 この場所は絶対に安全だ。僕はそう確信している。家のすぐ近くにあって、石段は道路に面しているのに、誰もその存在を気にかけない。この場所に思い入れのある僕でさえ、ついさっきまで存在を忘れていたのだ。まして雨の嫌いなあの人たちのこと、決してここまで登っては来ない。

「ここにいたいのなら、好きなだけいても良いのだけどね」

「うん。……でも、大丈夫。ちゃんと家には帰るよ。僕ね、色んな物語を読むから、知ってるんだ。子どもが親と喧嘩して、もう二度と帰るもんかって家出をしても、結局は家に帰るんだよ。心細くなったり、旅が続けられなくなったり、親に見つかったり、あるいは、何かを成し遂げて自分の足で帰る気になったり、過程は色々だけど、帰るんだ。それでね、お母さん、心配かけてごめんなさい、だとか言うんだよ。一度離れることで家族の絆が深まりましたとか、そういうオチになるものなんだよ。……わかってる、わかってる。僕は家出なんかしない。そんな真似はしたくない。今はちょっと出かけているだけだ」

 だから、ごめんなさいも言わないし、絆が深まったりもしない。

「そういう話は、嫌いなのかい?」

「物語で、読むだけなら嫌いじゃない。でも、なんか、そんなに簡単に、許したくないんだ。お母さんたちのこと……」

 その理由は静久先生だ。夏休みに入る直前、つまり、お母さんが町に戻った頃、あるいはおばさんの見せびらかしがエスカレートしてきた頃から、静久先生の顔色が冴えなくなった。努めて明るい表情で振舞っていたけれど、そこには以前までの若い元気が欠けていた。五つも十も年をとったみたいだった。先生は濃紺の海のような、深い目で僕を見つめた。その目を見て僕にはピーンと来た。

 先生の疲れの理由。それは、お母さんとおばさんの攻撃によるものだ。たぶん内容は、「先生の指導は生ぬるい」といったところだろうか。あの人たちは互いにいがみ合っているけれど、学校の先生やお役所を信頼していないという点で共通している。子どもに関して気に食わない事があると、すぐに先生に噛みつく癖がある。

 僕の右手の中指。今はすっかり治っているけど、お母さんが帰ってきた日には、指の皮が少し破れていた。

 お母さんは目敏くそれを見つけた。見つけただけならよかったのに、どうして、どこで怪我をしたのか、しつこく訪ねてきた。こんなもの怪我のうちにも入らないと僕は思うのに、午前中どこで何をしていたのか、まるで容疑者のように尋問された。

 それで、しゃべってしまった。良太郎君とハゲ公の山で遊んでいたことを……。

僕らの全力の遊びは、お母さんにとっては狂気の沙汰だったに違いない。いったい何を言われたっけな。確か、半袖で山に入るなんて不潔だとか、不衛生だとか言われた。そんな場所で怪我をしたら、傷口から色んな菌が入って、重症化することがあるのだそうだ。虫が媒介する病気もあるのだと言っていた。お母さんはハゲ公の山に登ったことがないから、南方のジャングルかどこかと勘違いしているのじゃないだろうか。

 でも、そんなのはまだ些細な問題だ。一番の勘違いは、怪我をするような危険な遊びに、僕が無理やり付き合わされているということだ。

「違う、違うよ! 無理やりじゃないよ」

「あんたは昔っから、家で本を読むのが好きじゃない」

「外で遊ぶのも好きだよ」

「そうやって……。そう言えって、良太郎に言わされているんじゃないの」

 どうしてそこまで悪意を持てるんだろう。それに怯んではいけないと思った。

「違うよ。僕たちは、一緒に、楽しく遊んでいた。無理やりなんかじゃない。それは、先生だって――」

「先生? ちょっと美木正、先生って誰よ。その人があんたたちと一緒にいたの?」

 僕は大馬鹿だ。迂闊者だ。静久先生を巻き込んでしまった。

 後悔の念を抱いたまま、僕は問われるがままに、静久先生と出会った事を話した。今更嘘を吐いたり、ごまかしたりしようとしても、無駄だと悟った。

 小学生が山で遊んでいて怪我をした。それを担任の教師が知っていて見過ごした。お母さんの頭の中には、そうインプットされてしまったようだ。それはあんまりにもひどい、大袈裟な解釈だ。

「僕にはわからないよ。お母さんはどうしてそこまで、良太郎君や先生のことを悪く言うのだろう。人の悪口を、あんなにずけずけと……」

 雨はまた一段と強くなってきた。雨音に負けないように、僕の声も自然に大きくなる。そうすることで感情まで大きくなっていくようだ。

「その事がきっかけでね、ここの石段での、僕の怪我も知られたんだ。お母さんはますます怒ったよ。しかも、どうしたわけか、おばさんまでそれを知っててさ」

 大人って、不思議だ。僕らの知らないところで、あっという間に情報を探り出す。特に女の人は。どうも情報の発信源は玉井さんのように思われるけど、それを確かめる術はない。

「先生は、とばっちりだよ。怪我をしたのは僕の不注意で、良太郎君は僕を助けてくれた。その事で先生は何も悪くないのに、悪い事したみたいに謝らなきゃいけなくなるんだよ。良太郎君が先生に謝らされたのと同じだ。僕らの間ではとっくに解決していることなのに、後から割り込んだ人たちが騒ぎ立てるんだ」

 良太郎君は悪い子。それを野放しにしている先生も悪者。あの人たちの頭の中では、そう決まっている。

「悪いのは僕だ」

 僕は、ご神体をぎゅっと抱きしめた。

「僕が弱くて、ちゃんと言葉を伝えられないから、他の人が悪者にされちゃうんだ」

 口紅のついたコーヒーカップを思い出す。きっと、僕の体にも同じように、目に見えない無数の口紅の痕が押されている。可哀そうな子、という烙印が。

「美木正君」

 貞の手が、僕の額に触れた。貞のくせに体温があった。

「確かに、君は弱いかもしれない。でも悪くはないよ」

「悪いよ。……僕のせいで、迷惑、かけてるもん」

「迷惑なんて、かけて当り前さ。生きているならね」

 濡れた前髪を、細い指がくしゃくしゃに引っかき回す。不思議な感触だった。

「前にも言ったが、君は優しい。目の前の人を守ろうとする気持ちを持っている。その赤子のように、お友達も、先生も、ご両親も、お城のおばさんも……。自分に関わった、全ての人を守ろうとしている。その人たちを傷つけたくなくて、自分が傷つく方を選んでしまう」

 そんなつもりは、ないんだけど。

「だからみんな、君の事が好きなんだ。大好きな君を守りたくて、つい、力を入れ過ぎてしまうこともある」

 何故だろう。同じ事をあの人たちに言われると、心が圧迫されて苦しくなるのに、貞に言われると、すんなり受け入れられる。

「力の強い人に対して想いを言葉に出来なくて、流されるままでいるのは、弱さかもしれない。けれどそれは克服できる弱さだ。君が好きだという物語の主人公たちは、そうやってきたんじゃないのかい」

「克服って、反抗しろってこと?」

「さて、そうとは限らない。そうだね……。具体的に、どうこうしろとは、私からは言えないよ」

 こういうところが、お母さんたちとは違うんだ。

 優しいといえば、お父さんだ。お父さんはいつだって優しくて、笑っている。お母さんやおばさんにあれこれ言われても、僕には笑顔を見せる。あれは強さなのか。それとも弱さなのだろうか。

「うん。……うんっ。僕が、自分で考えてみる」

「うん。その顔だ」

 どんな顔なんだろ。

 雨はまだまだ降っている。もっと降れ、ざんざん降れ。

 立ち上がって、ご神体を元の場所に納めた。

 ……あれ?

「さっき、迷惑かけるのは当たり前って言ってたけどさ。この子も、貞も、誰にも迷惑をかけずに生きているんじゃないのかな」

「私たちは、お互い様。うっふっふ」

 お互い様、か。

 意味はよくわからないし、笑い方は気色悪いけど、その言葉は参考になったような気がする。

「そろそろ、帰るよ」

「そうかい」

「あ、そうだ。傘、借りてもいい?」

「構わないけどね」

 言った時にはもう持ってるし。ステッキだと思っていたものは黒いビニール傘だった。

「借りたら、また返しに来なくちゃいけなくなるよ?」

「……うん。また来ると思う。たぶん、あと一回ぐらいは」

 傘を受け取るとき、貞の手に触れた。ちゃんと血が通っていた。

「そうだね。ここは、来なくても良い場所なのだから」

 バイバイ。

 誰もいない、僕だけの神域。傘を開いて、僕はそこから歩み出す。

 石段を一段、一段、丁寧に降りていく。雨音が勇気をくれる。ありがとう、貞。

 貞のおかげで思い出したことがある。お母さんの手のことだ。爪にピンクのマニキュアが塗られた手。爪の色は変わっていたけど、短くきれいに切りそろえられていた。髪型も、しゃべり方も変わっていたけど、手は昔のお母さんと同じだった。手提げ袋を縫ってくれた手だった。

 きっとお母さんは、東京でも家事をしているのだろう。向こうの家で、お父さんじゃない人の奥さんになっていて、そこでも料理をつくったり、掃除をしたりしているんだろう。

 お母さんの話が聞きたい。僕の話題ばかりじゃなくて、お母さんの一年間を。そしてこれからを。そうしたら、ちょっとはお互い様になれるかもしれない。

 そういえばお母さん、なんでこの町に戻って来たんだろう。なんで家じゃなくてホテルに泊まっているのだろう。もう一月近くたつから、結構なお金がかかっているんじゃないのかな。惜しまずにタクシーを使うし、今の旦那さんはよっぽどお金持ちなんだろうな。

 僕の疑問に、お母さんは答えてくれるかな。

 雨粒を散らして家に帰ると、お母さんは一人で、家の玄関先に佇んでいた。おばさんはいなかった。

「ただいま!」

 僕の大声に、はっと面を上げた。疲れた顔がくしゃくしゃに崩れていた。

「美木正――」

 抱きつかれるから、迫られるからイヤになるんだ。

 僕から先にいってやる。

 この心配性な人たちを、僕の方から愛してやる。

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