『母』 第2話

「子分じゃなくて、友達だよ」

 僕の本気の抗議は、お母さんにふんと鼻で返された。

「あんたたちは正反対なのに、昔っから一緒なんだよね。他に友達いないの?」

「いるよ。たくさんいる。最近は、他の学年の子とも遊ぶんだ。一緒に勉強したり、ご飯を食べたりもするんだよ」

 言ってしまってから、後悔した。お城の事を打ち明けるには、まだ心の準備が何も出来ていないのに。

 コーヒーを一口啜って、またお母さんが口を開く。

「それって、こども食堂ってやつ?」

「そんな感じ、かな」

 本当は違う。こども食堂は食堂であることがメインで、大人も利用できるニュースでそう言っていた。でもこの町にはまだそれがない、とおばさんが言っていた。

 ――だから私が作ったのよ。こどもが自由に遊べる場所。それがこどものお城。お友達の家に遊びに来るのと同じよ。

 アレは、おばさんが自分の家を舞台に、勝手にやっていることだ。おばさんの城だ。

「そこ、案内して」

 返事も聞かず、お母さんは伝票を持って席を立った。白いコーヒーカップの縁に、口紅の痕が付いていた。

 会計を済ませて店を出ると、朝の瑞々しさはすっかり乾いていて、真昼の太陽が町を白く照らしていた。

 お母さんは僕からお城の場所を聞くと、電話でタクシーを呼んだ。自転車で行けば三分、歩いて五分もかからない距離なのに。

「日焼け止め、持ってないの? これ使いなさい。こっちは特に日射しが強いんだから、ちゃんとケアしないと。紫外線って馬鹿にならないのよ」

 夏が来るたびに、僕らは真っ黒に日焼けする。日焼けは、それだけたっぷりと夏を遊び倒した証拠で、男のたくましさを象徴する勲章みたいなものだ。肌の白い良太郎君なんて、想像もできない。

「変わってないね、この町は。……眠っているみたい」

 日焼け止めクリームを適当に顔になすっていると、タクシーがやってきた。

「小角団地の方に行って」

「はい」

 運転手はホクロがたくさんあるおじさんだった。日焼け止めをしないとあんな顔になるのだろうか。それはともかく、ごく近い距離なのに嫌な素振り一つしないのはプロだなと思う。

「美木正、この辺? そう。運転手さん、ちょっとゆっくり、スピード緩めて走ってちょうだい」

「はい」

 プロはあっさり頷く。幸い、周囲に他の車はなかったから、気兼ねはいらない。車はゆっくりとアパートを通り過ぎて、場違いなほど大きな建物の前にさしかかる。

「あれか」

 『こどもの城』は、知らない人でも一目でわかる。庭に面した大きな窓はカーテンが開け放されていて、健太君、里奈ちゃん、祐君、虹路君のいつもの四人が一列に並んで、ピアノの方を向いて立っていた。ピアノは壁に隠れて見えないけれど、きっとそこにおばさんがいて、みんなに何か歌わせているのだろう。おばさんは作詞作曲が趣味だとかで、いくつも歌を作り出しては僕らに歌わせる。あれさえなければ、もうちょっと気軽に楽しめるのだけど。

「ここ、嶋田の家だよね」

 お母さんがぽつりと言った。

「あんたと同じ学年に、娘がいなかったっけ」

「うん。嶋田さん、知ってるの?」

「あそこのおばさんは口喧しいって、保護者会で有名だったからね。うちとはクラスが違っていたけど、いろいろと噂は聞いてた」

 保護者会。

 そうだった。お母さんは、去年までは僕の保護者だったんだ。

「もういいわ。運転手さん、このまま進んで。次は――」

 てっきり車を降りると思っていたのに、お母さんは僕の家の住所を告げた。タクシーは速度を上げてお城から遠ざかっていく。

「あそこの娘と仲いいの?」

 どう答えよう。お母さんは、おばさんの事を良く思っていないみたいだ。どうやり過ごすのが無難なのだろう。

「今年から同じクラスになったけど、あんまり話さない」

「あの家に通っているのに?」

 鋭い返し。失敗したみたいだ。

「……塾とか習い事で忙しいからって、あんまり、会わない」

 ふん、とまた鼻で返事があった。

 家の前でタクシーを降りて、それが去っていくのを見届けながら、お母さんはまた言った。

「実の娘は人に世話させて、自分は金もヒマも余っているから、人の子どもを集めてお城ごっこってところか。ふん、子ども好き、子どもの教育に熱心とか言って、本当は自分が崇められたいだけなんじゃないの。おばさんありがとう。おばさんのおかげだよ。そう言われたいだけのお節介だわ」

 お母さんはすごい。僕がひと月かけて、何となく理解していたことを、ほんの少し一瞥しただけで見抜いてしまった。その見立ては、きっと正しい。

確かにおばさんにはそういう所がある。本やお菓子を与えられて、僕らが『ありがとう』と言う時、おばさんの顔は無上の喜びにあふれている。歌も一緒だ。さっきは見えなかったけど、子どもたちに歌わせている時のおばさんの顔は、恐ろしいほど満たされている。

 お母さんと僕、おばさんに対する認識は共通している。だけど……。

「この日射しの強さでカーテン全開。わざと外に見せびらかして、自分がいかに立派なキョーイクをして、子どもに慕われているのか、自慢したいんだろうね」

 同じことを思っている言葉の棘が、僕の胸にも刺さるのはどうしてだろう。痛くて、苦くて、黒いものが、僕の胸の中でうずいている。

「……まだ戻ってないね」

 お父さんの駐車スペースは空のままだ。

「夕方には帰るって言ってたけど」

「そう。なら、家で待たせてもらおうかな」

 お母さんはうちの鍵を持っている。家を出て行ってから一年間、ずっと持っていたってことだ。

「ただいまー、ベス。あんたもちっとも変わらないねえ」

 ただいま。その言葉の意味はどっちだ。お昼を食べに出かけて戻ってきた、という意味だろうか。それとも、もっと長い意味での、ただいま、なのだろうか。お母さんの心がわからない。

「ま、思ったよりきれいに片付いてて、その点は安心かな」

 台所とリビング、トイレ、お風呂、洗濯場。抜き打ちテストのように、一つ一つ点検してまわっている。

 お父さんがきれい好きだから、週末の朝に一通りの掃除をするようにしている。僕もなるべく物を散らかさないようにしている。ベスは留守の間も眠りっぱなしだからあまり家の中を汚さない。そのおかげかどうか、お母さんの機嫌がなんだか良さそうだ。

「ちょっと、部屋見せて」

 止める間もなく、すでにお母さんは僕の部屋に入っていた。この一年間、僕の部屋には、お父さんも入ってこない。そこは僕の場所だから。僕とベスと、良太郎君をはじめ、招いた友達しか立ち入ることを許されない。僕なりの聖域だ。その聖域に、お母さんは造作もなく踏み込んでいる。

「ふーん。ここも、ちゃんと片付いているわね。あー、ランドセルと通学帽。懐かしいねぇ。ねえ美木正、最近、学校の成績はどうなの」

「良くなってる。だいたいのテストで、八十点以上は取れるよ」

「へーえ、勉強頑張ってるんだ」

「……嶋田さんの家で」

 ふん、と、へえ、の中間ぐらいの、妙な声があがった。

 それきり沈黙のまま、抜き打ち点検は続いた。小学校に入学する時に買ってもらったパイプベッド。学習机。洋服タンス。ベッドの頭のところに置いてある木製の本棚。大きなところは一年前と変わっていない。無論、机に並ぶ教科書は一学年上のものになったし、タンスに収まっている服のサイズも大きくなった。本棚の中身も少し増えた。主に漫画だけど。

「ま、いいわ」

 なにが、「いい」なんだろう。モヤモヤを抱えながらも、お母さんが部屋から出て行きそうな素振りなので、僕は密かに安堵した。

「ところで美木正。手提げ袋はどうしたの?」

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