第二部『城』 第1話

 今年は春が遅かったせいか、梅雨の入りも遅いみたいだ。六月を一週間も過ぎたのに、雨が降ったのはたった一日だけだった。今日も朝から曇りがちで、空気も湿っぽかったけど、結局、雨は降らなかった。僕は黒い傘をもてあましながら家路についている。良太郎君は柔道クラブだ。

 辺りに広がる田んぼの稲はまっすぐ伸びて、合間から背の高い草が生えている。稲の根元に赤と白の不気味なまだら模様の塊がくっついていた。あれはタニシの卵なのだそうだ。あんなケバケバしい塊から真っ黒で地味なタニシが産まれるなんて、なんだか不釣り合いな気がする。

 図書委員の貸し出し当番を先週終えたので、僕の放課後はまた当分暇になる。足の痛みはほとんど気にならなくなっていた。それでも走ったり、重い荷物を持つと、ズキリと痛むことがある。だから徒競走の練習も出来ない。せっかくの晴れ間なのに、もったいないことだ。

 こんな日はさっさと家に帰って、借りて来た本に読みふけるに限る。この間から手を付け始めた推理小説、というより、探偵小説と言った方がよさそうな古い文庫本が、真新しい紺の手提げの中で揺れている。

 お母さんの手提げを使わなくなったことについて、お父さんは何も言わなかった。

「あれはもう古くて小さいから、新しいのが欲しい」

 そう言ってみたら、「そうかい」とあっさり頷いて、次の日には新しい手提げを買ってきてくれた。なんだか拍子抜けしたけど、くどくどと問い詰められるよりはずっとマシだ。

 田んぼの中を作業服姿のおじいさんがうろついている。帽子の下の日焼けした顔は玉井さんだった。玉井さんは腰に大きな袋(たぶん肥料か何かの袋だろう)を提げていて、軍手をはめた手でせっせとタニシの卵を取っては袋に入れている。

腰をあんなに屈めて、大変だな。そう思って見ていると、玉井さんが顔を上げて、目があった。

「こんにちは」

 僕は急いで頭を下げた。

「ああ……」

 低い、ボソッとした声がして、頭を上げると、玉井さんはまた腰を屈めて作業に戻っていた。

 挨拶は元気よく、ハッキリと言いなさい。大人は僕らにそう言うけれど、僕らに向かって元気に挨拶をする大人はあまりいない。

 あの日以来の一か月、僕は良太郎君の言葉を思い出して何度も、「ごめんなさい」と「ありがとうございました」を言った。言ったけど、玉井さんの反応はいつも素っ気なくて、結局は、「こんにちは」に落ち着いた。

 わしは忙しいんだから――。玉井さんの背中はそう言っているみたいだけど、何も挨拶をしなかった以前よりも、ちょっとだけ距離が近くなったような気がする。

 湿った曇り空の住宅地は、いつもより静かに見える。乾いた日にはあちこちに飛び回る色々な音が、湿気を帯びて地面に落っこちてしまったみたいだ。

 石段の下にさしかかる。僕は恐る恐る、それを見上げた。でも足は止めなかった。曇り空のせいでいっそう陰気な神域から、足を早めて遠ざかる。ズキ、と足が痛むのは急いだせいか、それとも思い出のせいだろうか。

 あれ以来、僕は一度もこの石段を登っていない。だから神社にも行っていないし、貞にも、ご神体の赤ん坊にも会っていない。

「またここに来てもいい?」

 僕は貞にそう言った。貞は来てもいいと言ったし、来なくてもいいとも言った。良太郎君は、「こんなところに来るなよ」と言った。行く必要なんて何もない。だけど、あの赤ん坊の事は気にかかる。たった一度、気まぐれで構ってあげただけだなんて、なんか、嫌だ。

 それでも僕の足は石段に向かない。あの場所を意識するとまた足が痛くなるし、良太郎君に悪いとも思えるからだ。

「ただいま」

 今日も返事のない玄関を開けて、ランドセルと手提げを部屋に放り込む。ベスは知らん顔をしてキッチンの机の下でだらだらしている。

 洗濯物を取り込む。家を出る時は雨が降りそうだったから部屋干しにしていたけど、これなら外に干しても良かった。

 洗濯物で思い出した。脱衣所に行って洗剤の箱を開けると、中身は空だった。昨日で使い切ってしまったんだ。それをお父さんに伝えるのを忘れていた。

 お父さんに電話して、帰りに買ってきてもらおうかな。

 始めはそう考えた。でも、空の雲がだんだん薄らいでいくのを見て、考え直した。まだ時間はあるし、せっかくの晴れ間だし、自分で買いに行こう。お金は僕の財布から出しておいても、後でお父さんにレシートを見せれば払ってくれるだろう。

 部屋に引き返して机の引き出しから財布を取り出す。二千円は入っているはずだと思ったら、五百円玉二枚も合わせて、三千円以上も入っていた。ニヤリ。

 三千円もあるのなら、ついでに歯ブラシも買おう。六月の始めは歯の衛生週間とやらで、学校でも歯の健康について長ったらしい講習があった。歯ブラシは毛先が広がる前に取り換えるのが良いのだそうだ。ついでに歯磨き粉も買おうか。それと、靴下に穴が開いたから、新しいのが欲しい。ついでに枝豆風味のスナック菓子も。

 立て替えだと思うと次々に欲が湧いて来る。三千円以内に収めることを忘れないように気を付けながら色々とプランを立てつつ、財布をズボンの右ポケットに突っ込んで、脱いだばかりの靴を履く。キッチンのベスがのっそりと顔をあげた。

「ちょっと出かけてくるからな。ちゃんと留守番していろよ」

 ベスは欠伸をして、何事もなかったかのように眠り始めた。あいつは眠る以外のことを知らないんだから。

 休日以外で自転車に乗ることはめったにない。町の空気は湿っていても、走り出せば涼しい風が全身を包んで流れていく。走るのと違って足を痛めないし、走るよりも速い。あれも買おう、これも買おう、フンフフン。歌の一つでも歌いたいぐらい爽快な気分だった。

 目指すは、安くて何でもあるディスカウントストア。途中までは学校からの道のりを逆走することになる。下校途中の生徒たちとすれ違い、石段の下をさっさと通り抜け、玉井さんが道路の向こう側の畦に腰かけているのを遠目に見て、僕は風を切って走る。

 田んぼ道の突きあたり、左に行けば通学路の大イチョウ。右に行けば町の中心地。颯爽と右に曲がってまた突き進む。どこもかしこも、湿った空気の中で濃く色づいている。保育園のオレンジ色のレリーフ。民家の真ん前にある赤い自販機。どれも色鮮やかだけど、それだけに錆びや汚れが目立つ。道行く人たちもどことなくうつむき加減に見える。そんな人たちの横を、僕は胸を張って突き抜ける。

 体育の授業中、一人だけ見学をしているのは退屈なものだ。風邪のシーズンなら三、四人ぐらい一緒に見学することもあるけど、この一か月間は僕一人だけだった。それも、見た目には大きな怪我じゃないから、ただサボっているだけに見られてしまいそうなのが気にかかる。本当に怪我をしているんだって静久先生と良太郎君が知っているから、別に良いのだけど。

 町の中心に入ると車の通りが多くなって、道の左右にはコンビニやガソリンスタンドが立ち並んでいる。目当てのお店は中華料理屋の向かいにあって、広い駐車場は三割ぐらいが埋まっていた。

 駐輪場に自転車を止めてお店に入る。お店に入ってすぐのところに青果物のコーナーがあって、ちょっと青臭い匂いがした。おばさんたちが難しい顔をしてネギの品定めをしている。カゴを手にした僕はおばさんたちの後ろを通り抜けて、生活用品のコーナーを目指す。

 重い洗剤をカゴに入れるのは後回し。まずは歯ブラシ、それから靴下……。ぐるぐると回ったあげく、予算をオーバーしてはいけないと警戒して、洗剤の値を確かめた。

「あなた、ちょっと」

 太い声に驚いて振り返ると、ネギを睨んでいたおばさんが聳え立っていた。声に相応しい寸胴なおばさんで、何模様だか知らないけれど、濃い茶色に紅や緑をぐちゃぐちゃに混ぜたような柄の服を着ている。ちりちり頭で、頬っぺたが下膨れで、真っ白な皮膚の上に真っ赤な唇がでんと居座っている。唇が開いて金歯が見えた。

「あなた、小学生でしょう。どうしてこんなところに居るの」

 どうしてって、買い物だけど。他に何をしているように見えますか。

 そう返事をしても満足しないような人だな、と直感した。どうやらこのおばさんの頭の中では、小学生が一人で買い物をしてはいけないらしい。

「お母さんは?」

「……いません」

「一人で来たの」

「はい」

「どうして」

 直感は正しかった。おばさんはジロジロと、ネギを品定めする目で僕を見下ろしている。その目が洗剤に止まった。

「あなた……お家のおつかいで来たのね」

 おつかいなんて幼稚な言い方だと思ったけど、僕は、「はい」と答えておいた。これが非常にまずかった。

「まあ!」

 と叫んだおばさんの、表情の変化は見ものだった。叫んだ拍子に目と口がかっと開いて、頬っぺたの肉が吊り上がった。鼻の穴も広がっていた。するとその穴が今度はきゅっとすぼまって、目尻が下がって、額を僕の方へ突き出してきた。

「お家のことをさせられているのね……。勉強の時間を使って、お母さんの代わりをしなきゃいけないのね……」

 やけに湿っぽい声で、訳の分からない事を言いだした。

 させられている? 僕が自分で決めてやっている事なんだけど。お母さんの代わりをしていると言えば、間違っちゃいないけど……。

「ダメよ、あなた。子どもがそんな事をしなくていいの。他にやることがあるでしょう。お勉強をする時間がなくなっちゃうわ。今日は塾とか習い事がない日なの?」

「塾には行っていません」

 おばさんの顔がさっきと同じ変化を繰り返した。そしてますます湿っぽい声を出す。

「あなた、西小学校? それとも東小? 何年生?」

「西小の四年二組です」

「あら、やだ……。うちの子と一緒じゃない。嶋田夏希、知っているでしょ」

 嶋田さん。もちろん知っている。クラスでいつも成績上位の子だ。僕はあまり話をしたことがない。たぶん、男子の誰ともあまり話をしていないんじゃないかな。

「うちは夏希におつかいなんてさせないのよ。そんな事に時間を使って、勉強で他の子に後れを取ったらどうするの。勉強に油断は大敵なのよ。少しでもいい成績をとらないと、進学の選択肢がどんどん狭くなるんだから……。そうなったら困るでしょう」

 困るも何も、進学の選択肢なんて考えたこともない。西小から西中へ、自然に進むものだと思っていた。

 僕が答えられないでいると、おばさんはどう受け取ったのか、引ったくるように僕の買い物カゴを取り上げた。

「同じクラスの子とここで会ったのも、何かの縁ね。いいわ。うちにいらっしゃい。こんなものは置いて。子どもに仕事をさせる親の言う事なんか聞かなくていいから。さ、おばちゃんと一緒に来なさい。うちは行き場のない子どもを大勢面倒見ているの。そこで勉強も教えているのよ。あなたもそこに来るべきです」

 おばさんは僕の買い物を勝手に棚に戻して、がっちりと腕をつかんで、自分の買い物を済ませるためにレジに並んだ。傍から見たら親子のように見えたかもしれないけど、僕の心中はひどく混乱していた。

 これじゃまるで、誘拐じゃないか!

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