第2話

 鍵を使って玄関のドアを開けると、廊下の真ん中に茶色い塊が寝転んでいた。初めて見る人はぎょっとするかもしれないけど、いつもの事だ。うちの玄関番のベスだ。年寄りでおデブのベスは、僕が帰ってきても見向きもしない。

「ただいま、ベス」

 声を掛けても返事もしない。顔やお腹の皮が垂れて、だるんだるんの、のんびり犬。目蓋が重くて、目がちょっとした開かない。ご飯を食べる時と、僕の積み木を壊す時ぐらいしかろくに動かない奴だけど、僕の大事な家族だ。ここにベスが居てくれなかったら、僕は誰に向かって「ただいま」と言えばいいのだろう。

 靴を脱いできちんと揃える。あんまり広い玄関じゃないけど、僕の子ども靴と、お父さんの男靴しかないから、ちょっと隙間が多い。でも、靴を揃えて、隅っこに寄せる習慣はずっと変わらない。

 廊下の奥はキッチンとリビング。右側の手前の襖が僕の部屋。一つ向こうがお父さんの部屋。お風呂やトイレは左側。お風呂場の外に洗濯場。晴れた日に学校から帰ったら、洗濯物を取り込むのが僕の仕事だ。

 僕が生まれた時から、ずっとこの家は変わらない。家は変わらないけど、家の空気は変わった。声がなくなった。

 去年の夏までは、僕が玄関を開けて「ただいま」と言うと、「おかえりなさい」と、大抵はキッチンから、時々は右の奥の部屋からお母さんが顔を出した。洗濯物を取り込んでいる最中でも、撮りためたドラマを見ている時でも、お母さんは必ず玄関に出てきて「おかえりなさい」と言ってくれた。今は「ただいま」と言っても、誰も「おかえり」を返してくれない。

 洗濯物を取り込む前に、部屋に荷物を置きに行く。ベスの隣を通り過ぎて襖を開けると、ベスがむっくりと顔を上げて鼻をひくひくさせた。何を嗅いでいるのだろう、と鼻の先を目で追うと、僕の持っているものだった。

 ――良太郎君の手提げ袋だ。

 そうか、犬は目が弱いっていうけど、においでちゃんとわかるんだね。

 ベスはだるだるのお腹を揺らしながら、突っ立っている僕を押しのけるように部屋に入っていった。

 もしかして、良太郎君が遊びに来たって勘違いしたのかな。

 良太郎君はベスに色々な芸を教えるけれど、ベスは全然覚えようとしない。出来るのは、「伏せ」だけ。命令しなくてもいつも床に伏せているからだ。芸は覚えないけど、ベスも良太郎君と遊ぶのが好きだった。

 ごめんね、今日は遊びに来ないんだよ。

 手提げを机の上に置いて、部屋を出た。ベスは部屋の真ん中で、命じてもいない伏せをしている。

 そうだ、お母さんに、手提げの事を言わなきゃ。

 窓から空を見ると、まだしばらくは日射しがありそうだ。洗濯物を取り込むのは後回しにして、お母さんのところに行こう。

 隣の部屋の前に立って中の様子をうかがったけど、お父さんの気配はない。この時間、お父さんはまだ弁当屋の会社で働いている。僕はそっと襖を開けた。

お父さんの部屋は清潔で、整理整頓ができている。お布団もキレイに畳んであるし、机の上も本や文房具が正しい居場所に並んでいて、出しっぱなしになっているものは一つもない。僕も整理整頓には気を付けているけど、お父さんぐらいキッチリとはできない。

 本棚の高いところには、僕が読めないような、古くて難しそうな本が厳めしく鎮座している。何の本なの、とお父さんに聞いたら、昔の物語の本だよ、と答えてくれた。物語なら僕も大好きだから、いつか読めるようになりたい。そう言うと、お父さんはとても嬉しそうに僕の頭を撫でてくれる。この本たちは、お父さんが学生の時に買ったものらしい。お父さんは今でも時々これらを読んで楽しんでいる。

 本棚の低いところには、料理や家事の本がいっぱい並んでいる。それはお母さんの本。そこの本たちは、もうずっと、誰も読んでいない。僕もその本を手に取る気にならない。

 部屋の隅、お母さんの化粧台があった場所に、小さな机が置いてある。その上にお母さんの写真がある。

 短い髪にパーマをかけて、いつもより念入りにお化粧をしているけれど、見慣れた笑顔のお母さんが、そこにある。僕の入学式の時、おめかしをしたついでに、と言って、お父さんが撮った写真だ。

 まさかそれが最後の記念になるなんて、少なくとも僕は思っていなかった。

「……ただいま、お母さん」

 もちろん返事はない。だけど、写真の顔を見ていると、今にもその口から「おかえりなさい」が聞こえてきそうで、胸がきゅっとなる。僕は締められた息を吐き出すように言葉を続けた。

「ごめんね、お母さん。お母さんが縫ってくれた手提げ袋、学校で破れちゃった。先生が直してくれるっていうから、今日は、良太郎君の手提げを借りてきたよ」

 ――写真に向かって話しかけるなんて、馬鹿みたいだなぁ。

 本当はそう思っているし、普段はこんな事をしないんだけど、今日だけは話をしたい気分だった。学校で言えなかった、色々な事を言いたかった。

でも、何を、どう言ったらいいのか、言葉が出て来なかった。本を読んでいるから言葉をたくさん知っているはずのなのに、自分の口からは、何も出せなかった。

 僕は、何も出せない人間なのかな。

 それから、洗濯物を取り込んで畳んだり、学校の宿題をやったり、ベスの鼻の穴を指で塞いで何秒我慢できるか試してみたり、そうしている間に夜になって、お父さんが仕事から帰って来た。

「ただいま」

「おかえりなさい」

 僕の「ただいま」に返事はないけど、お父さんの「ただいま」には僕が返事を出来る。お父さんはちょっと下膨れの四角い顔で、丸眼鏡の下で細い目が笑っている。

 うちではお父さんが料理を作ることになっている。帰って来るなり上着だけ脱いで、シャツの上に似合わない薄ピンクのエプロンをつけてキッチンに向かう。その間に僕はお風呂にお湯を張りながら、時々、キッチンの様子を窺う。どうやら今日はカレーのようだ。僕はほっと胸を撫で下ろして、お湯の加減を少し温めにした。

 お弁当屋さんで働いているくせに、お父さんはあまり料理が得意ではない。お母さんがいた頃は一度もコンロや流し台の前に立っていなかったような気がする。

去年の夏、お父さんは言った。

「お父さんはな、学生時代から、お母さんと結婚するまでの間、ずっと一人暮らしで自炊していたんだ。お母さんよりは上手じゃないけど、男の子の好きなご飯なら得意なんだ。ま、大船に乗ったつもりで任せておきなさい」

 ところがこれがとんだ泥船で、最初に作ったカレーは、それはもう酷い出来栄えだった。やけに黒くて、ねっとりしていて、甘かった。甘口のカレーじゃなくて、甘い味のドロドロした何か、だった。隠し味のチョコレートとハチミツと、その他いろいろを入れ過ぎたのが原因だったみたいだ。

「いやぁ、張り切ってちょっとやり過ぎたかな。チョコだけに、ちょこっとだけ。あっはっは……」

 目を泳がせながら変な笑い方をするお父さんに、僕は不安を覚えた。

「お弁当屋さんなのに、こんなので大丈夫なの」

 今からその物体を食べる僕も不安だけど、お店のお客さんの方も心配だった。

「お父さんはお弁当を売るお仕事だからね。作る人達は別にいるんだよ」

 それを聞いて心から安堵した。だけど、僕自身の目の前にある問題は深刻だった。カレーは誰が作っても失敗しないんだ、とお父さんの豪語していたのが遠い昔のことのように思えた。

「ごめんな、今度はもっと上手に作るから」

 お父さんは肩を落として謝った。

 僕はよっぽど、「次からは僕が作ろうか」と言おうと思ったけど、今度はもっと上手く作ると言った約束を信じることにした。

 それから、お父さんは頑張った。

 というより、余計な事をしなくなったおかげで、普通の料理が出来るようになった。お弁当を作る側の人達にもレシピを教えてもらって、少しずつ、料理の種類も増えていった。教えられた通りにやれば、教えられた通りに出来た。僕はお父さんのご飯が段々楽しみになっていた。それでも時々は失敗をするけど、カレーだけは絶対に失敗をしない。余計なものを入れないでパッケージの説明のまんま作るのが一番美味しいってわかったからだ。

 お風呂のお湯がたまったので、そのまま入ることにした。ご飯が大丈夫だとわかるとお風呂も気持ちがいい。カレーが鍋で煮込まれている間、僕も湯船に浸かって蕩けていた。

 さっぱりした気分でお風呂からあがると、丁度ご飯の用意が出来ていた。普通に作ったおいしいカレーと、生野菜のサラダ。お父さんは冷蔵庫から缶ビールとサラミを出している。僕はベスのエサをペット皿に盛ってからテーブルについた。

「いただきます」

「いただきます」

 お父さんのサラミを二枚わけてもらって、サラダのレタスと一緒に食べる。町の商店街は畑に近いから、野菜も新鮮で甘味がある。サラミの塩味がちょうどよく合わさる。サラミのサラダだ。ドレッシングをかけるより、こうやって食べた方が僕は好みだ。

 お父さんはまずサラミだけでビールを一本空けて、それからドレッシングをかけたサラダとカレーを交互に食べ始める。

カレーとドレッシングはあんまり合わないんじゃないかな、と僕は思うけど、お父さんは満足そうに頬張っている。

「うん、美味しい。……ところで、学校から何か連絡事項はない?」

 僕は水を一口飲んで答えた。

「来月の給食の献立表をもらってきたよ」

「ああ、そう。じゃあ食べ終わったら持ってきて」

 給食と晩ご飯でメニューが被らないようにする。そんな気遣いが出来るようになったのは、今年の四月になってからだった。それまでは全然無頓着だったし、僕もちっとも気にしていなかったけど、肉屋のおばちゃんと何気ない話をしているうちに、ふと気が付いたらしい。それからはよく気を付けている。

もちろん、お母さんはずっとそうしていた。

「他に、何か変わったことは?」

 何気ない話。お父さんにとってはそうだったのだろう。献立表の他に何か連絡はないかと自然な流れで聞いただけなのだろう。だけど、僕の心臓はどきりと跳ねた。

 ――手提げを破られて、良太郎君の手提げを借りて来た。

 それを言おうか、やめようか、僕は無言で迷っていた。かちゃかちゃとわざとらしくスプーンの音を立てながらカレーをかきこんで、口をもごもごさせた。

「ないよ」

「うん?」

「何にもないよ。ご馳走様」

 僕は折角のカレーを水で流し込んで、お皿を持って席を立った。

 流しでお皿を洗いながら、僕は耳を傍立てていた。お父さんが何か言ってくるんじゃないか、と息を潜めていた。だけど、お父さんは何も言わなかった。

明日になれば手提げは戻って来るんだもの。破られた、だなんて、わざわざ言わなくたっていいよね。

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