第12話・わたしは、おねえちゃんだから

 「極端に視力は落ちているけれど、とりあえず今は見えてる」


 眼帯にそっと指を添えながら、沙希は言った。


 「まぁ、ボンヤリとして何が何やら識別はできないのを見えてるって言ってもいいのならね」


 「……それは、どうしようもないのかな?たとえば、手術とか……さ。全回復とはいわなくても」


 「無理みたい。網膜がどうとか毛細血管がどうとかいう話じゃなくて、眼球そのものが潰れちゃったらしいから。今回、お医者様がしてくれた手術だって、視力の回復というより、眼球の形状を修復するのが目的のものだったし」


 沙希は小さな白い眼帯で隠されるように覆われた右目を軽く撫でた。


 「……いずれは完全に見えなくなる」


 悲しみ?

 辛さ?

 それとも諦め?


 その指にどんな感慨が込められているのか、こればかりは付き合いの長い啓次にも推し量れなかった。

 

 「……それじゃあ……」


 「うん、もう剣道はできない」


 あっさりと沙希は言い放った。


 「まぁ指導ならできるだろうし、試合だってやろうと思えば幾らでもできると思う。……それに自惚れるわけではないけど、私なら片目が見えないくらい大したハンデにはならないと思う」


 確かに自惚れではないのだろう。


 客観的にみても確かな実績を残していたし、その実力は少し齧った程度の剣道歴しかない啓次にもわかるほど十二分なものだった。


 半裸以上に着崩れた裸体を惜しげもなく晒し、床に寝たまま中空に向けて手を伸ばす沙希。


 そのまま竹刀を構えるように両手を握り込んだ彼女からは、それだけでもう必殺の雰囲気が醸し出された。


 蓄積され続けた弛まぬ努力。

 誰よりも真摯に剣道へと向き合ってきた精神力。


 何も変わらない。


 その片方だけになっても、まだ凛とした美しさを失わない瞳に何かを映しながら……。


 「姿形は時代と共に健全なスポーツとしてシフトしていったとはいえ、本来は真剣と真剣を持った者同士の殺し合いを行うための武芸、その最高峰で行われる試合ってね、本当になのよ、啓次」


 「……うん」


 「殺気にしろ闘志にしろ集中力にしろ、本当に試合が始まってから終わるまで、私は本気で相手を殺しに掛かって竹刀を振るうの。頭蓋を割るべく面を打ち、皮も肉も内臓も切り裂くつもりで胴を打ち、手首を切り落とそうと籠手を打つの」


 「うん。僕もおじさんから……師範からそう教わってきた」


 「そして気持ちが昂れば、集中力が極限まで研ぎ澄まされれば、本当に自分が一振りの日本刀を構えて振るっている気分になるの。一本入れたら、そこから相手の血潮が噴き出すような……首なり上半身なりが真っ二つになる幻覚だって見たことがあるのよ。本物の……本当の第一線の緊張感が漂う場なら特にね」


 「……それは僕にはわからない感覚だ」


 「ばーか、当たり前でしょ」


 沙希はカラカラと笑った。


 「アンタみたいななんちゃって段位持ち……っていうかヘタレ二股淫獣野郎にそんな一流の境地みたいなものがわかって堪るもんですか。そんな殺気立った場に足を入れた瞬間、剣を交える前にあんたなら間違いなく心臓麻痺起こしてあっさりお陀仏ね」


 「ひどい」


 「……ま、私ももう人のことは言えないんだけど……」


 そして沙希は構えを解き、再び腕を伸ばして大の字になった。


 ……だから真面目な話をしたいならもう少し気を使ってくれと、プルンと揺れた乳房とピンク色の乳首から目を逸らしながら啓次は思った。


 「……私はもう、あの場には立てない。……っていうか立ちたくない……のかな?」


 「……こわい?」


 「たぶん、こわい。うん、私はこわいんだ。剣そのものとかケガのこととか、そういうのじゃなく、もうそれ以上に伸びないかもしれない、あの時と比べてとか、過去の自分と……昔の栄光と比べてしまう時が来るのかもしれない……両目さえ見えていたなら、なんて言い訳をしてしまう時が来るかもしれない……それが、私は堪らなくこわい」


 「……うん」


 「そんな風に自分に負けてしまうことが、同じように毎日毎日、血反吐を吐きながら鍛錬して目の前に立ちはだかった相手への尊敬も尊厳も忘れてただ見えない右目のせいにしてしまうことが。……そんな弱い自分を知ってしまうことが私は本当にこわい。嫌」


 「……まさか、サキ姉がそんなこと……」


 「そしてね、啓次?」

 

 啓次の言葉を遮るように、沙希は言った。


 「そんな弱り切った私の隣には啓次、アンタが絶対にいるの。相変わらず気弱で情けなくてヘタレで頼りないんだけど、今みたいに誰よりも私のことだけを想って真剣に心を痛め、励まし、慰めてくれるの。私よりも逞しくなった体で、私よりも大きくなった手のひらで、だけど小さい時から変わらない優しさで。……泣き出しそうな……ううん、きっと泣いてしまっている私をすっぽりと包み込んでしまうの」


 「……そうだね。そんなサキ姉の隣に僕はいる。絶対にいる。放ってなんておけない」


 「そうそう。いざという時だけしか見られないアンタのその男らしさに、小さくて無垢だった私はやられちゃったんだっけ。なに?それって計算?ギャップ萌えとかゆーやつ狙ってる?」


 「ま、まさか」


 「冗談よ、ふふふ……」


 愛おし気に微笑む沙希。


 しかし、その笑みにもすぐ陰りが生じてしまう。


 「……だからこそ、嫌なの」


 「サキ姉?」


 「私はきっと甘える。啓次の優しさに……大好きな男の子が真っすぐに大好きを伝えてきて、『泣いていいんだよ』とか『無理しないで』とか言って本気で私を心配してくるそんな温っかくて心地よくて幸せなものに、私はきっと溺れてしまう。ズブズブって……浸ってしまう」


 「それは……いけないことなの?」


 「いけないよ、啓次……」


 再び、沙希は横たわる啓次の体に身を寄せた。


 それは性的な高揚感からではなく、


 溢れ出た愛しさからでもなく、


 ただ、突然の雨に打たれた森の小動物が大樹に寄る辺を求めるような、そんな弱くて、どこか物悲しい感情からくるものだった。


 何かを刻み込むように、何かを確かめるように。


 沙希は啓次の裸の胸板に、何度も何度も頬をこすりつけながら続けた。


 「抱きしめられてもいい、慰められてもいい、甘えたっていい。弟分である前にアンタは大好きな男の子。抱かれて幸せに感じることは何も悪くない……だけど、これはダメ。これは愛じゃない。これは……単なる『依存』でしかないんだから」


 「ダメなんかじゃないっ!!」


 思わず啓次は叫ぶ。


 声の大きさより、彼にしては珍しい強い言葉より。


 ピッタリと密着した体に響いた震動から、沙希は啓次の本気の想いを感じ取った。


 「まったく、アンタって。……どれだけ私をキュンキュンさせればいいの?」


 「右目がなんだ!!依存がなんだ!!いいじゃないか、サキ姉。僕にもっと甘えればいい。泣きたい時は泣けばいい。寂しくて悲しくて切なくなったなら僕がまた抱きしめる!!僕はまだ高校生だし、こんなだし、ぜんぜん頼りないかもしれないけど、僕、頑張るから!!体も心ももっと鍛えて、勉強もいっぱいして、いいところに就職して、それでサキ姉に相応しい男になるから!!サキ姉を守れるくらい……サキ姉の傍で、サキ姉を一生、嫌なことから守り続けていくから!!だからっ!!」


 「だから……ダメなんだよ」


 「っつ!!なんで!?」


 「だって、私は『サキ姉』なの。アンタの『お姉ちゃん』なのよ、啓次」


 「……え?」


 啓次が激情にかられて漏らした、もはや紛うことなきプロポーズの言葉。


 その心地よい響きの中に永遠に浸っていたいというように。


 けれど、それではダメなのだと名残惜しく手を振りほどくように。


 沙希は静かに、やんわりと、啓次の求婚を拒んだ。


 「……私の方が……お姉ちゃんなんだから」


 いつか遠い昔にいた、軟弱で情けなくて、だからこそ放っておけなかった泣き虫の少年。


 弱くてヘタレで、だけど優しさという誰にも負けない強さをもった彼の前で背伸びして年上ぶりたかった少女。


 彼女の言葉を、沙希はもう一度。


 折れそうになる自分を奮い立たせるために、今一度だけ繰り返すのだった。


 「私は『サキ姉』。いつでも清くて正しくて強くて、グズな弟分の手を引いてあげる、カッコイイ、無敵のヒーローでなくちゃならないの。ビービー泣き喚く男の子のためにワルガキたちから颯爽とオモチャを取り返してきてあげるヒーローにね」


 「……僕だってもうあの時の僕じゃない」


 啓次も啓次で譲らない。


 「守られてばかりの泣き虫じゃない。守られて、助けられてきた分だけ、今度は僕がサキ姉を守る。弟に守られる姉がいたっていい。それでもサキ姉は僕の姉貴分だ」


 「ホント、一丁前になっちゃってまぁまぁ……」


 沙希は感慨深げに言った。


 「あの泣き虫が守るだって……サキ姉を守るだって……カッコイイじゃない、啓次」

 

 「茶化さないでよ、サキ姉」

 

 「茶化してない」


 そう、あくまで真剣に、沙希は啓次の成長に感動していた。


 そして、その頼もしくなっていく弟分の成長が、今はたまらなく……辛かった。


 「多分、このまま恋人になっちゃったら、私は格好良くはいられない。ヒーローではいられない。いつでも優しくて、これからもっとドキドキってさせるイイ男になっていく啓次に、私はしなだれかかって生きていくだけの弱い女になってしまう」


 「サキ姉に限ってそんな風にはならないよ」


 「……なんにも考えないで、辛いことは全部ぜんぶ押し付けて、守ってもらって、そして捨てられたくないからって啓次の顔色をうかがって……ねぇ、啓次。これが恋人?どちらかがどちらかの影に隠れて生きていくこと、これって本当に愛だってアンタは言うの?」


 「うん、言うよ」


 「……そっか」


 「あえてサキ姉の使った『依存』って表現を借りるけど、依存する側もされる側も、そこに愛がなければ成立しないよ。僕だってそんなにお人よしってわけじゃない。誰かれなく寄り添ってきた相手を甘やかすことなんてしない」


 「うんうん、そっか……」


 「サキ姉だから……結城沙希っていう生まれた頃から一緒にいる女の子だから……だから僕は言うんだ。僕に依存するならすればいい。それでサキ姉への想いが変わることなんてあり得ない。サキ姉への憧れが褪せてなくなるなんて、絶対に絶対にあり得ないっ!!」


 「……ありがと、啓次。とっても嬉しいよ」


 「だからっ……」


 「でもね、啓次?……私の方がダメなんだよ」


 「サキっ……姉ぇ……」


 「よっこらせっと……」


 そこで沙希はおもむろに立ち上がった。


 うーん、と大きく体を伸ばすのだが、なにせほぼ全裸の状態になっているので、豊かな乳房やら鎖骨、細い腰やクッキリとしたクビレまでが強調されてしまう。


 「…………」


 それを下から見上げる啓次。


 不思議と性的な欲求は沸かない。


 むしろ、直前まで沙希へとぶつけていた激情がすうっと引いていくのを感じた。


 それはきっと、雨が上がった雲間から倉庫内に漏れ入る月明りに照らされた沙希の肢体が仄かに輝き、情欲さえ忘れさせていまうほどの純粋な美しさを纏っていたからなのだろうし。


 そんな彼女の表情が……今宵、明らかに沈んで弱々しかった顔が、何か憑き物でも落ちたみたいにスッキリとしていたからなのだろう。


 「啓次のその言葉を聞けてホント良かった。うん、本当に。……これで、私はまだ『おねーちゃん』をやっていける。まだまだまだ……終われないって思える」


 「サキ姉……何言って……」


 「よしっ!!決めた!!」


 「サキ姉?」


 「ねぇ、啓次」


 「え?うん?」


 「私、ちょっとアメリカ行ってくるわ」


 「……は?」


 三度みたび、結城沙希は告げる。


 それまで積もりに積もった恋心を我慢しきれずに吐露した時とも、


 自分が見舞われた災難を、どうすればあまり重々しくならないように伝えられるかとタイミングを計っていた時とも違う。


 今この瞬間に決心し、

 たった今決断したとばかりに……。


 「そんじゃ、いってきます」


 「え?あ、はい。いってらっしゃ……い?」


 何より、まるで暑いからちょっとコンビニにアイスでも買いに行ってくるわ、といった具合の気楽さでもって。


 結城沙希は、狂おしいくらいに愛しい弟分へ、別れを告げるのだった。

 


 

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