第9話 転生Ⅱ

 領主は、封土の空を仰ぎしました。


「さあ、どうなったんだろうね。彼女の力で転生させられたのか。それとも、別の力が働いたのか。覚えているのは、彼女から『ある物』を渡されたと言う事だけだ。小汚い鞄と、一冊の分厚い辞書。『辞書』と言うのは、色々な言葉が載っている書物だ。辞書の中には日本語……私が住んでいた国の言葉と、ここの言葉」


「パティア語?」


「そう、パティア語が載っていた。私の辞書は、その二つを扱った『和辞典』だった。私はそれらを渡されてからすぐ、自分の意識を失ってしまった。どれくらい気絶していたのか、その正確な時間は分からない。意識を取り戻した時にはもう、通りの上に倒れていた。私は何とか起き上がって、自分の周りを見渡した。自分の周りには、誰もいない。視界に入ってくるのは……おそらく、『夜』だったんだろう。闇夜に覆われた町の風景だけだった。私は背中の鞄をすばやく背負いなおして、その場からゆっくりと歩きだした。一歩、二歩、三歩。十歩目くらいから、数えるのを止めた。自分の足音を数えても仕方ない。数えたって、どうにもならないんだから。私は不安な気持ちで、町の中を歩きつづけた。町の中は、不気味だった。建物のすべてが古臭い。どれもこれも、世界史の教科書に出てきそうな建物ばかりだ。私は、適当な休憩場所を見つけた。そこは人気も少なく、休むにはちょうど良い場所だった。

 私は町の地面に座って、鞄の中から辞書を取りだした。彼女がどう言うつもりでコイツを渡したのか、その理由が知りたくなってね。私は辞書のページを捲って、その内容をじっくりと眺めた。辞書の内容はさっきも言った通り、日本語とパティア語の和葉辞典になっていた。私は、辞書のページを閉じた。ページの内容を読んでもやっぱり、彼女の意図が分からなかったからね。残念な気持ちで、自分の脇に辞書を置いた。私は、自分の心を落ちつけた。深呼吸を一回、目の瞬きを二回。それらをやってからしばらく、地面の上に立ちつづけた。地面の上は、堅かったからね。座り心地が悪かったのさ。私はその感触に苛立ったが、数分くらいしてからふと、ある事に気づいた。自分はどうして、地面の上に立っていられるのだろう? 落ちついて考えてみれば、それはとても不自然な事だった。君も知っての通り、私は一度死んでいる。その経緯がどうであれ、ね。私の肉体は『私』と言う形を失っている……いや、失っていなければならない。私は『私』であって、もう『私』ではないのだから。

 私の『身体』は、少年になっていた。年恰好はそう、十七歳くらいか。着ている服はボロボロ、顔もひどく汚れている。顔の汚れを拭ってみたら、その酷さがよく分かった。髪の色はたぶん、ブロンド。その毛先には癖が付いているが、不快に思う程でもなかった。身長はたぶん、今の君よりも少し低いくらいだろう。体型の方は、君と同じくらい。まあ、ちょうど良い体型だな。標準規格の服なら、どんなモノでも着られると言った感じ。私は自分の体型に首を傾げる一方で、女性の言っていた『転生』と言う言葉を思い出した。『転生』とはつまり、別の個体に生まれ変わると言う意味だ。生前の姿を捨てて、新たな存在にその姿を変える。『転生後』の出発点は、赤ん坊じゃなかった。途中の経過をいくつか素っ飛ばして、『少年』と言う時代からその人生を始めていた。

 私は、自分の人生に驚嘆した。思わず『え、ええ!』と叫んでしまったくらいに。私の叫びはしばらく続いたが、今の状況を『ハッ』と思い出して、自分の叫びを何とか落ちつかせた。ここで慌てても仕方ない。周りに対して『なぜ?』と聞く暇があったら、自分でその答えを探した方がマシだ。私は何度か深呼吸して、その答えを探しはじめた。一つ目の答えは、すぐに見つかった。女性が私に辞書を持たせた理由。コレは、私に対する慈悲だった。人間は自分の知らない土地に行った時、それを『必ず』と言って言い程に覚えなければならない。そこの『言葉』だよ。どんなに優秀な人間でも、言葉が分からなかったらお手上げだ。

 私は、和葉辞典のページを開いた。人間が人間として生きていくのに必要な欲求。自分の寝床は、どうにか見つけられる。異性に対する欲求も、これは理性で抑えられるからな。それらの問題が解決されたのなら、残された問題は一つしかない。『明日の食べ物をどうやって入手するか』だ。水は絶対に必要、それと食べ物も何種類か欲しい。毎日、毎日、水と主食ばかりでは、流石に飽きてしまうからな。栄養のバランスも悪いし、身体もすぐに壊してしまうだろう。

 私は鞄の中に辞書を仕舞い入れて、それから町の地面に寝そべった。地面の感触はさっきも言った通り、かなり悪かったけれどね。だが、贅沢は言っていられない。『横になれる』だけでも有り難いのだから。私は鞄を枕にして、鞄の中には辞書が入っているからね。辞書の感触は確かに堅いけれど、枕としての高さは十分に満たしている。少し我慢すれば、ほとんど気にならないくらいだ。私は何も考えないで、その目をゆっくりと瞑った。

 翌日の天気は、晴れだった。町の空には、綺麗な水色が広がっている。雲の姿は、ほとんど見られない。私は空の雲から視線を逸らして、町の通りをすばやく歩きだした。昨日の夜は分からなかったが、通りの周りには色々な建物が建っていた。人の住んでいそうな館、厳かな雰囲気の漂う教会、職人達の住まう工房。工房の中からは、『カンカン』と言う音が聞えた。おそらく、何かを鍛えていたんだろう。鉄製の工具か、それとも、何かの武器か。その判別は、出来なかった。私は工房の音から視線を逸らして、町の通りを歩きつづけた。町の真ん中辺りまで行った時か、視界の中にある光景が飛び込んできた。商人達の市場だよ。商人達は町の通りに店を並べて、それぞれに自分の商いをやっていた。

 私は、その光景に心を躍らせた。転生前は、商売人をやっていたからね。現実は食べ物を探さなきゃいけないのに、それをつい忘れてしまった。市場の中に入った。市場の中には、色々な店が並んでいた。衣服を並べる店、怪しげな商品を提供する店、美味そうな食べ物を扱う店。

 私は、ある食べ物屋の前で足を止めた。そこの店で扱っている品がとても美味しそうだったからね。周りの視線も無視して、店の前にしばらく立ちつづけた。

『美味そうな食い物ですね。コレは、なんと言う食い物ですか?』

 商人は、私の質問に答えなかった。いや、答えられなかったと言った方が正しいかも知れない。彼は私の顔をまじまじと見て、それから『〇△×□』と何やら怒鳴りはじめた。

 私は、その口調にハッとした。食欲に惑わされてつい忘れていたけれど、ココは『私の住んでいた世界』ではない。まったくの異世界なのだ。異世界の人間に、私の言葉は通じない。

 私は鞄の中から辞典を取りだして、そのページをパラパラと捲った。私が辞書のページを捲っている間、商人も訝しげな顔で私の様子を眺めていた。

 私は、辞書のページを閉じた。自分の探していた言葉が見つかったからだ。

『水、無料、貰える、場所、何所?』

 商人は、私の発音に目を見開いた。その理由はおそらく、私の発音があまりにぎこちなかったからだろう。所謂『片言』と言うか、意味のギリギリ分かる範囲で単語を並べただけだったからね。相手は、私の発音に苦笑しなかった。私の目をするどく睨んで。その睨みが消えてからすぐ、商人が私に向って『ξη』と言った。彼の言葉は、分からない。だが、そのニュアンスは何となく伝わった。『失せろ』と言ったんだろう。

 私はその言葉に従って、商人の男に頭を下げた」

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