第2話 ダリアの過去Ⅰ

 右肩の筋が疲れたのか、右手の動きが止まりました。領主は机の上に羽根ペンを置いて、窓の外に目をやりました。窓の外はもう、暗くなっています。空の夕焼けは、ほとんど見えません。視界に入ってくるのは、暗くて美しい夜空だけでした。

 

 領主はその夜空を眺めましたが、部屋の扉が叩かれると、その夜空から視線を逸らし、扉を叩く者に向かって「誰か?」と聞きました。部屋の扉を叩いたのは、召使いのモルスでした。


「旦那様、よろしいですか?」


「ああ、良いぞ。入れ」


「失礼致します」


 モスルは部屋の扉を開けて、領主の前に歩み寄りました。


「旦那様、お食事のご用意が出来ました」


 を聞いて、椅子の上から立ち上がる領主。


「そうか、分かった。ありがとう」


 領主はモルスの後に続く形で、部屋の中から出て行きました。部屋の外には、廊下があります。一階の玄関から館の食堂まで様々な場所に繋がっている廊下です。廊下の壁には燭台が設けられていて、領主やモルス達がその近くを通ると、それに合わせて蝋燭の炎がフッと動きました。


 二人は、館の食堂まで行きました。食堂の中にはテーブルが設けられており、その上には綺麗なテーブルクロスが敷かれていました。テーブルクロスの上には、燭台が乗せられています。燭台の表面はすべて銀色で、左右の壁に設けられている燭台もこれと同じ色が見られました。


 領主は、食堂の椅子に座りました。椅子の座り心地は、最高です。色々な所に工夫が施されているらしく、テーブルの上に夕食が運ばれてきた時はもちろん、モルスが自分の近くから離れた時も、「疲れ」と言うモノをまったく感じませんでした。


 領主は「ニヤリ」と笑って、自分の両手を合わせました。


「頂きます」


 彼は、今夜の夕食を食べはじめました。


 奴隷達は羨ましげな顔でその様子を眺めていましたが、領主が彼等の態度を睨むと、その視線を素早く逸らして、互いの顔を苦笑交じりに見合いました。


「腹、減ったなぁ」と、彼等の呟きが聞こえます。


 領主はその呟きに反応しましたが、それ以上の動きは見せませんでした。彼等の気持ちは、良く分かります。ですが、決まりは守らなければなりません。


 彼は自分の食事が終わるまで、誰の呟きにも応えませんでした。


「ごちそうさま」と言って、また自分の両手を合わせます。それが終わったら、テーブルに置かれた布で自分の口を拭き、モルスの顔に視線を移しました。


 モルスは、主人の顔を見返しました。


「書類の整理は、終わられたのですか?」


「いいや、もう少し残っている。だから、今日も」


「畏まりました。では、後ほどお飲み物をお持ち致します」


「頼む」


 領主は椅子の上から立ち上がり、食堂の扉に向かって歩き出しましたが、しばらく歩いた所で、モルスの方にそっと向き直りました。


「明日のお勤めなんだがね、普段よりも少し早く出るよ」


「はぁ」と、モルスは瞬きました。「そうでございますか。分かりました。厩番の方にも、そう伝えておきます」


「ああ」と、微笑む領主。「そうしてくれ」


 領主は「ニコッ」と笑ってからすぐ、食堂の扉に向かってまた歩き出しました。



 普通の人間は夜道を恐れるモノですが、青年はその夜道を恐れる事なく進んで行きました。彼の周りには、様々な木々が立っています。木々の表面は暗く(草むらの中から時折飛び出してくる小動物を除いて)、その様子がほとんど見えませんでした。


 青年は無言で、森の中を歩きつづけました。その森を抜けると、周りの景色がガラリと変わりました。それまで彼の周りを覆っていた木々が引っ込んで、代わりに広い土地……つまりは、彼の土地が現れたのです。


 青年は、その土地に微笑みました。土地の表面には、月の光が当たっています。その光が丁度良い明るさだったので、彼は安心して自分の家に帰る事ができました。そして、その玄関も開ける事もできました。


 彼は、家の中に入りました。家の中は、真っ暗です。青年が「ただいま」と言っても、家の明かりはおろか、返事すらも返ってきません。すべてが闇に包まれています。


 彼は暗い気持ちで、燭台(玄関の近くに予め置いてあります)の蝋燭に火を点けました。蝋燭の灯りは温かく、彼の心をホッとさせました。その灯りを持って、家の廊下を進みます。家の廊下は、かなり傷んでいました。大きな穴がそこら中にあって、青年が穴の近くを歩くと、それに伴って「ミシミシ」と鳴りました。


 彼は、家の調理場に行きました。調理場の近くには、家の食料が置いてあります。食料は黒パンと、加えて野菜が少しだけ。野菜の表面には、虫や鼠に喰われていました。右手に黒パンを一つ持って、自分の部屋に入ります。部屋の中に入った後は、その明かりを点けました。


 彼は部屋の隅に行って、その床にゆっくりと座りました。部屋の床も、やはり腐っていました。彼の座った所はまだマシですが、窓の近くに目をやったりすると、見るも無惨な光景が瞳の中に飛び込んできます。


 彼は、その光景に溜め息をつきました。


「最低だ、本当」


 彼は自分の横に燭台を置いて、右手の黒パンを齧りました。黒パンの味は、正直に言ってあまり好きではありません。甘いわけでもなく、だからと言って辛いわけでもなく、封土の農奴達は「美味しい、美味しい」と言って黒パンを食べますが(味としてはシンプルなので好まれています)、青年の口にはどうしても、その味が合いませんでした。


「はぁ」と、また溜め息です。「もっと美味い物が食いたいな」


 彼は、自分の足下に目を落としました。彼の足下には、何も落ちていません。視界に入ってくるのは、蝋燭の灯りだけです。


「ちくしょう」


 青年の目から涙が溢れました。涙は彼の頬を伝って、床の上にポタポタと落ちていきました。彼は、その涙を拭いました。そして必死に、楽しい事を考えました。自分がまだ、幸せだった時代を。彼は暗い顔で、その時代を思い返しました。


 彼の歴史……正確には物心の付いた頃ですが、決まってそこから始まりました。彼の隣には、大切な両親が立っています。温かな父と、朗らかな母。二人はこの封土で生まれ、この封土で育った農奴でした。封土の人々は、二人の結婚を喜びました。二人は、周りの農奴達に好かれていたのです。父は何事にも勤勉だったし、母も母で他者を思いやる心に富んだ人でした。


 二人は今の家に移って(農奴には移転の自由が無いため、あくまで封土の領域内ですが)、新しい生活をはじめました。保有地のライ麦畑を耕し、近所の人々とも仲良く付き合って。二人は、真面目に生きつづけました。雨の日も、風の日も。彼等が今の場所に移ってから数年ほど経った時、二人の間に子供ができました。子供は母の中で、すくすくと育って行きました。子供が生まれたのは、空の風が少し肌寒くなった頃でした。

 

 子供は、産声を上げました。「オギャー! オギャー」と言う風に。彼の産声はかなり五月蠅く、両親の顔を苦笑させました。


 両親は、彼の事を大事に育てました。ひと月、ふた月、半年と。少年が初めて「パパ、ママ」と言ったのは、彼がこの世に生まれてから二年ほど経った時でした。


 両親は、その言葉に感動しました。「ああ、ダリアが! ダリアが!」と、彼の身体に思わず抱きついてしまったくらいです。母が彼の身体を抱きしめている間、少年も楽しげな顔で両親の背中を「パパ、ママ」と叩きつづけました。



 それから数年後。


 少年は、少し大きくなりました。喋り口調も生意気に、つまりは反抗期になったのです。反抗期の彼は凄く我儘で、両親もその扱いには手を焼いてしまいました。


「こら、ダリア! また農作業を!」

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