第10話 夕暮れ時に

 葵がようやく病院から退院したその帰り。


 真新しそうな白い歩道橋の階段を一歩ずつ重たい足取りで登っている途中に後ろを振りかえってみると、彼女がリラックスするように両手を空へと伸ばしていた。頭上から降ってくる眩しい光が彼女の長い髪を反射して俺の目の中に嫌なほど入ってくる。


「いやーなんだかんだ言って快適でしたけど、やっぱり一人は寂しいものですね」


「お前にもそんな感情があったとはな」


 からかうようにして鼻で笑ってみせると彼女はつま先だちをしながら顔を赤くし息を乱した。


「し、失礼な! 私だって色んな感情を持ち合わせているんですっ!」


 そんな事は最初から分かっていた。

 しかし俺はそのあどけなさに優越感を覚えたのでそのまま続けた。


「例えば?」


「え、えと……しょ、食欲!」


 その彼女らしいアホな答えに唇をぎゅっと結び笑いそうになるのを必死に堪えた。しかしダメそうだったので顔を違う方向へと逸らす。


「食べることしか考えてないじゃないか、しかもそれ欲求だし」


「そうなんですか?」


「常識だ」


「これでまた一歩、私は賢くなりました!」


「元が元だから大して変わらないけどな」


「うっ、なんてストレートな…………あっ」


 視線を下に向けよろめく彼女だったが、何かを思い出したようにすぐ立ち直りこちらまで歩いてきた。


「そう言えば美味しいもの食べさせてくれるんですよね!?」


 眉を上げてはじけるような笑顔をみせる彼女を見て確かそんな事を言った覚えもあった気がするなと感じたが……


「この前食っていただろ」


「あれはあれ、これはこれです」


 両手を縦に降ってその動きを俺にしてみせる。

 それを見て思った。


(なんて使い勝手のいい頭してんだ……)


「分かったよ。もうすぐ昼だしちょうどいい。なるべく安そうな店で済ませーー」


「神戸牛が食べてみたいです!」


 目を輝かせながら喚く彼女に呆れながらため息をつく。


「お前な……どんだけ高いとーー」


「こ、う、べ、ぎゅ、うっ!」


 聞く耳持たずのようか、彼女は俺に背を向けて飛び跳ねながら歩道橋の上を駆け抜けた。それに味方するように強い風が背中側から吹きつけ彼女の長い髪を神々しく揺らして通り過ぎていく。

 疾風の如く走り去っていくその後ろ姿はまるで無邪気な子供を相手しているみたいに思えた。




 * * * *



 だんだんと空の色がオレンジ色へと染まっていく。

 樹々に囲まれている公園のブランコに座ってポケットから財布を取り出しその中身を確認した。


「……150円」


「それならおにぎり一つ買えますね」


 隣には葵がいた。


 ブランコを優雅に座ってこいでいるがその揺れ幅は五十センチもない。

 俺は膝に肘を落として怪訝な表情を彼女にみせた。


「まだ食べる気かよ」


「お腹とは常に何かを得続け、一定に保たないと死んでしまうんです」


「なぜお前はその周期が人の何倍もある……」


「私のお腹は頑張り屋さんなのですよ!」


 笑顔を向ける彼女とギシギシと金属の音が擦れる嫌な音に目を細くして、冗談めいた口調で聞いた。


「その腹、今から何も食べなくてもいいように改造してやろうか?」


 そう言うと彼女は体を震わせて目を丸くした。


「や、やめてくださいっ! こ、このお腹は精密な機械と一緒なんですよ!」


「粗雑の間違いだろ」


「なっ、粗雑!? ……ってどういう意味ですか?」


 首を傾げて不思議そうに聞いてくる。

 しかし俺は目を伏せため息をついた。

 なぜならこれかの彼女の人生に救いがたい不安を抱いてしまったからだ。


 会話が少しばかり止まる。時がゆっくりと過ぎていくように感じた。一秒一秒が長い。まるで今俺達がいるこの時間だけを何かで引き伸ばされているみたいに。


 そしてふと俺の頭の中にある質問が浮かんだ。


「そう言えば親と仲直りはしたのか?」


 言っていいのかと躊躇ったが気づいた時にはもう口から飛び出していた。

 放った言葉はもう戻ってはこない。


 俺は息を呑みながら彼女の反応を待った。


「いえ、仲直りどころかまだ連絡もしていません」


 その答えに緊張が解けると同時にまだ連絡をとっていないことへの心配が俺の中で生じた。


 彼女はブランコを強くこぎ出し何かを見据えるかのように遠くを見つめた。


「それとまだ宗次さんにちゃんと恩返しもできていませんし」


「……そうだな」


 俺にはその目がどんな目をしていたのか分からなかったので今思っていることだけを伝えてみた。

 すると彼女はきまり悪そうな表情をこちらに向けた後、目を逸らした。


「そこは嘘でも『そんなことない』って言ってくださいよ!」


「悪い悪い」


(その言葉を言ってしまったら今の関係はもう終わってしまう……)


 胸の内に抱えたどうしようもない感覚が心の中を徐々に蝕んでいく。

 俺はこの、彼女との何気ない生活が少しでも長く続けばいいのだと甘えているのだ。


「分かったらいいんですよっと」


 彼女は最後にブランコを勢いづけた後、そこから飛び降り綺麗に着地を決め、服についた汚れを手で払った。


「もう帰るのか?」


「じゃないと待っている師匠や結ちゃんが心配してしまいます」


「……そうだったな。二人目のやつはよく分からないが」


「ほんとツンデレなんですから〜」


「違う」


「あはは〜じゃあ帰りましょっか」


 笑いながら歩き出していく。


 しかしその表情は彼女の本当のものなのか……。

 それが知りたくてまた口を開いた。


「お前はーー」


「前から気になっていたんですが、お前と言われるのは少々嫌な気分になります」


 いきなりのしかめっ面。それに動揺して声が上ずってしまう。


「え、あ、あぁ。じゃ、じゃあなんて呼べばいい?」


「名前でいいですよ」


 そう言われ俺はゴホンと咳をして息を整えた。


「……………………な、凪」


「はい」


「いや、何だか変じゃないか?」


「全然」


「そうか?」


「そうです。では帰りましょう!」


 彼女ははにかんだ後、止まっていた足を眩しい太陽の方へと再び動かした。


 そのいつも通りの姿に俺は


(……今を大切にしてればそれでいいか)


 と思い、軽く口を綻ばせため息混じりに後を追った。



 帰っている途中に鳥のさえずりが遠くから聞こえてきた。その音色は音楽を奏でているかのように美しく今の俺にとってはとても心地よく爽快に感じた。



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