十一譚ノ弐 五徳の錆

「この家から出て、もうヒトの真似事はやめようと思ってるわ」

 ヒトの真似事をやめる。つまりニンゲンとして過ごす事を放棄し、彼岸の住人として別所へ行く事。

 漸く切り出せた話に、鉄穴は明らかに動揺していた。

「やめてよ。こんな時にお互い離れる様な」

「本気よ」

 鉄穴の言葉を遮って続ける。

「いい加減この生き苦しいニンゲン様の生活から卒業したいのよ。少しでも機嫌の傾こうものなら怒鳴り散らす、他人を押さえ付けるわ、口出しするわ、失敗をいつまでも責め立てるわ、互いに依存しあうわで、もう。……散々なのよ!」

「でも家から出るのは良いとしてさ、私から離れる必要はないでしょ?」

「私はもう決めたわ。こちらの縁もゆかりも全て絶ち切って、黄泉で暮らすのよ」

 此岸で結ばれた縁を絶ち切る。

 それは鉄穴でさえも対象になる。

 黄泉は私達が最終的に行き着く場所。

 此岸からより離れて彼岸の側へ。

 私はそこで一住人として過ごすのだ。

 全ては、師範との縁すら切って此岸への想いを捨て去る為。

 そうすれば、少しは楽になるかもしれない。

 言わば現実逃避だ。

 私の自己満足。

 お互いに縁を切ってしまえば、互いに思う事は無くなる。

 赤の他人となるのだ。

 思っても無い事を言って、鉄穴を少しでも引き離す。

「なら私も一緒に」

「嫌」

「何でよ!」

「嫌だって言ってるでしょう? ここで結ばれた縁を全て切って、ヒトの真似事をやめたいのよ!」

「それって師匠を忘れたいからでしょ。もっと言えば、師匠を失った想いを消して楽になる為」

 全て見透かされた言葉に一瞬息が詰まる。

 普段ぼやけている言動を取る鉄穴が、刺す様な発現をした。

 私は思いがけない鉄穴の変化に、驚きを隠せないでいた。

「どうしたの、図星?」

 私は彼女に一つの恐れを感じ、思わず家を飛び出す。

 背後から鉄穴の声が聞こえるが、私は一切無視して走り続けた。


 山を抜けて麓の通りに出、ずっと下って細い路地に入り、右へ左へと駆け抜けていく。

 後ろから鉄穴が追いかけて来ている様だが、黄泉比良坂まで辿り着けばこちらのものだ。

 後は向こう側で縁を切るのみ。

「待って!」

 悲痛な叫びが聞こえて一瞬足が躊躇うも、ここで振り返れば私に此岸を離れる資格はない。

 目の前に、黄泉比良坂へと繋がる正門が姿を現す。

 既に黄泉から出ないと誓っている者は各地の正門から入り、その上で此岸との縁を切る事で隔絶される。

 だが私はもうここを出ないつもりだ。

 森林に隠匿された門の前で立ち止まる。何を想う事もない、そして平穏無事に暮らすだけ。

 小さい頃から決めていた事だ。

 若しも師匠が何らかの理由で永久的に不在になったら、自分も彼岸に行くと。

 周囲で失われる不可避の現象と隔絶される為に。

 きっと耐えられないだろうから。

 強く踏み出し、遂に私は門を潜り抜けた。


          *


 四月一日は森林の向こうに消え失せて、遂に帰らなかった。

 思い直してくれるかも、と期待したが、夕方を過ぎても帰るべき場所に帰らない。

 私達がまだ小さかった頃、四月一日も私も此岸に住む彼岸の住人は、いずれ総じて黄泉に帰るのだと言っていた。

 だけどそれは、近い存在が永久的に不在になった時に突然に訪れたのである。

 遺品整理も済んだ、雨の上がった昼下がりの事だった。

 唯一此岸に残された私は、隣人が去って一人では広い部屋を独占する。

 師匠の永久的不在を嘆いて、それを忘れたいからってわざわざ別の場所に行く事ないじゃないか。

 普段私を人間臭いと言う割に、そっちの方がずっと人間らしい。

 周囲の者を想い嘆く倫理があるだけ。

 本当なら火葬した後の骨は海や川にでも流すけど、骨壷を用意したのも、部屋に安置しようと提案したのも全部四月一日だ。

 それに家も取り壊さないし。

 ばーか、と腹癒せに四月一日の机に油性ペンで書いてやった。

 夕日は傾き、水平線に沈もうとしている。

 四月一日と過ごす平屋は、夕日に比べると酷くちっぽけだ。

 私にとって四月一日とは、私より大きい存在で、支えてくれる存在なのだ。

 それを、はいそうですか、と黄泉に行かせる訳にはいかない。

 明日から休みを取ろう。

 休みを取って、その間に四月一日を連れ戻したら、また日々を再開するんだ。

 でも今度は人間から少し離れたところで。


          *


「と言う訳で黄泉への道案内頼んだ」

「いやそれはいいけどよ、何で俺なんだ」

 翌日、私は朝早くに馬鹿ましかの許を訪れた。

 地獄と此岸を往き来する獄卒なら、どちらの地理にも聡いだろう。

 この馬鹿と言う獄卒は、私の申し出に溜め息を吐いた。

「別に門まで行って、その先を案内してやるのは良いんだよ。だけどな、通行の対価は持ってんのか? それに四月一日殿が何処に居るのかも検討がついてねえだろ」

「検討はつくよ」

「……どうやって」

「黄泉の地理が判れば、すぐに」

「はあ?」

「判るよ。姉妹分だから」

 馬鹿は、理由になってない、と言いたげに眉間に皺を寄せていた。

 でも私達にはこれで十分だ。

 すると馬鹿は後ろ頭をがしがし掻いて、諦めた様に息を吐く。

 私はにいっと笑って、右手を掲げた。

「糸! 私の奢りで馬鹿にお酒!」

「承りましたー」

 やっぱり糸猫庵で馬鹿を出待ちしたのは正解だった。

 店の常連客の行動パターンはある程度把握している。

 四月一日と職業写真家としての、観察眼を鍛える暇潰しにした事だった。

 彼女もこんな事で役立つとは、夢にも見ないだろう。

 糸が黙々と肴を作る横で私達はカウンター席にて、怠惰に酒を飲んでいた。

 今しがた安い一升瓶を空にして、残った僅かな肴も消費した所である。

「取り敢えずは取引成立だけどよ、通行対価は自分で用意してくれ」

「余る程あるから大丈夫だよ」

「お前さあ……」

 正直、人間として暮らす中で価値観が狂ってきたとは自覚している。

 此岸で価値の無いモノは、彼岸ではとんでもないお宝だったりする。

 若しかしたら四月一日は、この感覚も嫌っていたのかも知れない。

「それにしてもあの爺がなあ」

「あーっそれ今地雷だから止めて」

「ああ」

「それよりどれくらいで向こうに行けるかって言う相場教えてよ」

 そうこうしている内に追加の一升瓶と肴とが運ばれた。

「お待たせしました、鮪の塩漬けです」

「あんがとね」

 早速瓶を開封して、互いにお酌し合う。

 まずは鮪に山葵醤油を少量つけ、シンプルにいただく。

「やばい、鮪に人生狂わせられるかも」

「お前人間じゃねえだろ」

「そうだよ」

 冗談抜きに旨い。

 鮪を塩で漬けただけなのに、それだけで唯美味しい以外の感想が出ないのだ。

 塩漬けなのにそれほど塩辛くはないし、醤油をつけて丁度良い位だ。

 醤油をつけなきても、元々の味がまろやかだから塩が違うのだろうか。

 そして新たに出された冷酒もよく合う。

 どうしてくれるんだ。もう箸が止まらなくなったじゃないか。

 気付けば肴だけが酒より先に消えていて、即座に追加を注文する。

 私は鞄を漁り、こつり、と手に触れたそれを取った。

「これで四皿ぐらい追加出来る? 私と馬鹿の分合わせて」

 糸に差し出したそれは小ぶりな万華鏡だった。

 糸は覗き穴から模様を鑑賞して、くるくると回している。

「ええ、これなら対価として十分です。少々お待ちください」

 大方鞄の奥底に眠っていたモノだろうが、私には覚えが無い。

 記憶を手繰り寄せていると、記憶の扉を小さく叩くものがいた。

 あの万華鏡は、私がまだ小さかった頃に師匠がくれたモノだ。

 くれたと言っても、師匠が新古品で仕入れて、結局売れずに倉庫でくすぶっていたのを下げ渡されただけ。

 その後持ち歩いている内覗き穴にひびを入れてしまって、それからは本格的に私物化してしまう。

 そのひびは今になっても直される事なく、ずっと私が、贖罪のつもりで忘れずに持ち歩いていたモノである。

 糸はそれを、いつも対価を入れている籠に入れて鍵をかけた。

 私はその一連の動作に目を離せないでいる。

 外は雨が降り始めて、追加の肴が来る頃には本降りになった。

 そのせいか、室内と言えど少し冷えて、ぬる燗も注文する。

 適当に撮影した写真を対価に。

 温くつつある冷酒をちびちびと飲み、酒が五徳の中で温められているのを、ぼんやりと眺めた。


 糸猫庵で雨の止むのを待って、昼過ぎに出発する。

 今回は、馬鹿が普段通ると言う黄泉への門から入る。

 その門は、通りから少しだけ離れただけの狭い路地に繋がっており、黄泉への門と思うと、酷く呆気なく思えた。

 だがそこには昼夜関係なく影が差していて、此岸と彼岸の境をはっきりと示している。

 慣れた様子の馬鹿に連れだって影の中を歩んで行くと、次第に仄暗くなって、奥に僅かな光が見える。

 その光は橙の様でもあり、赤や緑、青、黄、白など様々に姿を変えた。

 光度が強くなるに連れ、影は薄まって色がついていく。

 その先に、ぼんやりとした人影が見えた。

「あれが門番だ。どこにでも必ず二人居るんだけどよ、牛頭馬頭の分身だとか言われてる」

 近くまで行くとその容貌もはっきりしてきた。

 その二人組は思いの外背丈が低く、馬鹿と私を軽く見下ろしているが、せいぜい六尺弱だろう。

 顔も見える様になって、驚いた。

 双方共に少年の様な目鼻立ちをしていて、耳はそれぞれ牛と馬のそれに成り代わっている。

 そして外見に反して、練れた凛とした声で言うのだった。

「ようこそおいでくださいました」

「黄泉への入国をご希望ですね?」

「俺に関してはわざわざ聞かなくてもいいだろ」

「ええ。ですが、今回は黄泉だけを訪れるご様子でしたので」

 どちらの少年も同じ口調で、髪型も同じに整えられている。

 馬鹿は現世との往来で何度となく顔を合わせているので、毎度同じ質問をする二人に飽きた、とぼやいた。

「まあ、いつもはまっすぐ地獄に行くからな」

「地獄と黄泉はどっちも地続きだからねえ」

「はい。黄泉の国は別名『底根國』と呼ばれ、地獄は仏教における最下層の地。つまりどちらも地の底に存る事は変わりません」

 阿吽とも片割れともつかず、かと言って双子ともつかない。

 そして奇妙な少年達は、通行対価を、と手を差し出す。

 私は鞄から桐箱を取り出し手渡した。

 馬の少年が蓋を外し、中から一本の筆を取り出す。

「これは?」

「硝子ペンだよ。全部硝子で出来ていて、インクは次第に色が変わる代物。これで十二分でしょ早く通して」

「いやちょっと待て俺がまだ払ってないしキャラ変わってんぞ」

「知ってる」

 馬鹿は懐から紐を通された六文銭を取り出し、そこから何枚か外して渡した。

「何それ」

「ざっくり言うと回数券」

「成る程ね」

 やっぱり黄泉は現世の妖怪達とは社会構造が違うのだろうか。

 少年達が六文銭を数えて、枚数を確認すると漸く許可がおりる。

「宜しいでしょう。では」

「「行ってらっしゃいませ」」


          *


 馬鹿に渡された地図を見ながら、多少物理法則の無視された世界を眺める。

 峡谷に浮かぶ鉄道路線に、壁面に乱立した住居。

 それぞれに統一性は無いが、不思議と統一されていた。

 明ける事のない夜。太陽から──天照大御神に見放された地。

 宵闇と人工的な灯りが永遠に戦いを繰り広げている。

 あちこちに紅葉が色をつけていて、落ちる葉は下に流れる河を朱く染めた。

 峡谷の下層に行く程建築物は豪華になり、石が見えない程建築物で埋め尽くされているから、いつか崖崩れを起こすのではないかと思う。

 宙に浮く電車を乗り継ぎ、下層まで辿り着いた。

「おい、本当に居るのかよそのお友達は」

 下層に行くにつれ豪華になった駅で、地図とにらめっこしながら馬鹿が問う。

「だって如何にもな場所じゃん……」

「いや判らねえ」

 わらわらと河辺に群がる群衆を押し退け、人がいない安全地帯へ緊急避難する。

 ここは黄泉の中下層。

 渓流の流れに沿って細い道が形成されている。

 随所に鳥井が河を跨ぐ様にかけられており、橋は無い。

 上流から流れる紅葉に紛れたヒトガタ。

 それらのヒトガタを見ると、『悪縁』や『後悔』など様々に書かれてあった。

 鳥井の袂に、巫女装束に身を包んだ異形人がヒトガタを配っている。

 私や馬鹿も漏れなく手渡された。

「どうぞ」

「これ、何に使うんだ?」

「流し雛にございます。流し雛と言っても、皆様切りたいモノや遠ざけたモノなど、より深く己に関わるモノをお書きになります」

 四月一日もここに来ているとしたら『此岸で結ばれた縁』とでも書くのだろう。

 巫女装束の横に机と筆が用意されているので、そこで書き込んだ。

『糞依頼人』

 青い墨で書いた文字は黒くなって、いつでも流せる様になった。

 馬鹿は何を書いたのかと、横から覗き見る。

『マウント取る上司と同僚』

 思う事はやっぱり皆一緒なんだな。


 早速流してみようと、河の水に沈む階段を二、三段下りる。

 屈んでヒトガタを水につけ、手を離した。

 脳裏に焼き付いた撮影依頼者の姿が重なり、急流に流されて消えた。

 すっきりした気分で顔を上げると、対岸も様々な人で溢れかえっている。

 その中に、ふとこちらに目をやる人影が居た。

「四月一日!」

 思わず声を上げると、四月一日は一瞬驚いた様に立ち止まった。けれど踵を返して走り出す。

 そう簡単に逃すか。

 私も走り出し、河に足を踏み入れた。

「はあ!?」

 ざぶざぶと水を掻き分けて来る私に相当驚いたのか、四月一日は寧ろこちらに向かって来る。

 それほど水深は深く無いが、急流で足を取られた。

「ちょっと鉄穴、何してるのよ。ほら早く上がりなさい!」

 周囲には群衆が集まり、何の騒ぎだと騒然としている。

 四月一日はその中心で私に手を伸ばし、掴む様言った。

 しかし急流で中々進めず、尚更人が集まるのを訝しみ、遂には四月一日も河に入って私を回収した。


          *


 鉄穴が服を濡らし、ついでも私も駄目にしてしまったので、売店で浴衣を買って更衣室で着替える。

 その後適当な茶屋へ行って景色の良い個室を取った。

「俺は外で一服してくる」

 そう言って同行の馬鹿さんは席を外したが、気まずかったのだろう。

「それで? 渓流に土足で入った上に服も汚した言い分を聞きましょうか」

「四月一日が悪いんじゃん」

 問いに即座に答えられると、流石に驚くけれど今驚いている時ではない。

「……確か私の独断で黄泉まで来たのは汚点だけど、何も直接渡って来なくてもよかったじゃない。上流の橋にでも落ち合えたのに」

「今すぐが良かったんだもん」

 まるで頑是ない子供じみた言い分に、私は思わず吹き出した。

「ちょっ!?」

「ふふっごめんなさい、昔の駄々こねてた鉄穴を思い出して……駄目だわ止まらない。ふっふふっ」

 思い切り笑ったあとで、尚更拗ねてしまった鉄穴に上限無しで何か奢る。

 鉄穴は不機嫌に卓上の品書に目をやり、これ、とだけ言って指差した。

 そこには豆花とあり、給仕を呼んで二人分注文する。

「そう言えば四月一日はさ、人形に何て書いて流したの?」

「私は……そうね、愚痴鬱憤その他諸々よ。そう言うあんたはどうなのよ」

「ん、私はね、糞みたいな依頼してくる奴って書いた」

「あんたらしいわ」

「所で話変わるんだけどいい?」

 不意に鉄穴の声音が変わった。

「何でこの忙しい時急に行こうとするかな。完全に縁切るまで言って」

 尋問でもするかの様な口ぶりに苛つくが、ここで解答しなければ、鉄穴は激しく問い詰める。

「怖かったのよ。今までは師範が居てくれたから、背中を押す人が居てくれたからこそ、只でさえ不安定な今を生きてこれた」

「判る」

「これからは師範の後ろ楯が無いから、何が起こるか予想もつかない。突然強盗にでも入られるかもしれない。考えると凄く怖くなって、独断で飛び出して……」

 最後まで言い掛けたその時、ちょうど給仕が注文した豆花を持って来た。

 皿を受け取って直ぐに下がってもらう。

 桜桃と豆腐に蜂蜜がかけられ、涼しげな硝子製の皿に盛り付けられた豆花は、窓から一望出来る緑によく映える。

 外は小雨が降っていたが、私達は構わず窓を開け放った。

 口に入れると、滑かな豆腐と甘い蜜が舌でとろけ、桜桃はとても瑞々しい。

 小さい皿だったので鉄穴はいち早く完食した様子で、ふと気付けば私が食べ終わるのを待っていた。

「半分食べる?」

「食べる」

 私を待っていたのではなく、もう少し欲しかっただけらしい。

「単純ね」

「うるさい」

 はいはい、と笑いながら言うと、むっとした顔で私が残した半分を完食した。

「気が済んだら、もう帰るよ」

「ええそうね。勘定は私がするから、早く行きなさい」

 はーい、と気の無い返事をし、鉄穴は立ち上がって窓を閉める。

 私は給仕を呼び、会計を済ませた。

 鉄穴は立ち去ろうとしたが、何故か足を止める。

「何で四月一日は立たないの?」

「言っている意味が判らないのだけれど。早く行きなさいって言ったわよね」

「はあ? 四月一日も帰るんだよ。ほら早く立って」

 相変わらず解らない鉄穴の言動に、眉間に皺を寄せた。

 私はわざとらしく溜め息を吐いて、説明する。

「鉄穴、私さっき言ったわよね。人形に書いて渓流に流したって。あの渓流はね、流したものと自分を恒久的に絶ち切るの」

 つまり縁切りを指す。

 みるみる鉄穴の表情が青くなった。

 そんな予備知識も無しにここまで私を迎えに来たと言うのか。

「だからほら、とっとと帰った帰った」

 手で追い払って、私はその場に座り込む。

 だがそれで鉄穴は怯まなかった。

 彼女の事だから、これで大人しく帰るとは到底思っていなかったけれど矢張しつこい。

 鉄穴は唐突に私の手を掴み、無理矢理に立たせようと試みた。

「駄目、絶対帰るの! 何より私が耐えられないの!」

「今になってまで駄々こねないで! そんなだから師範が呆れるのよ」

「師匠は関係ないでしょ! 駄々こねてんのは四月一日、あんただよ」

「駄々なんてこねてない、判ってないのはあんたでしょう。此岸との縁を切ったら帰れない事くらい、いくら莫迦でも知ってるわ。もう未練ごと流したのよ!」

 鉄穴を罵ってでも向こうに帰す。

 そして二度と会わない様に。

 師範がいない世界なんて怖くて眠れやしないのを、彼女も解っているのに。

 昔師範が二晩家を空けて、私達だけで留守番した日、どれ程眠れなかった事か。

 不安定な世界に、惜しみ無い愛を注いでくれる存在の不在の事実への恐怖。

「莫迦、分からず屋、強欲、偏屈」

 捕まった手を振りほどき、後ずさって距離を取る。

「莫迦だし分からず屋だよ。強欲でも、偏屈でも構わない。でもね」

 鉄穴は一度言葉を切って、大きく息を吸った。

「私は莫迦で分からず屋だから、師匠が居ない場所では支えが必要。強欲だから、四月一日の居ない隣も耐えられない。偏屈だから、この想いは変えられない!」

 そして鉄穴は、もう一度私の手を捕まえて思い切り引っ張る。

 私はあまりの勢いにつられて、遂には店の外に出てしまった。

 空は朱に染まり、時報だろうか、遠方で除夜のに似た音が響く。

 店の入口では同行の馬鹿さんが待っていて、やっと来たな、とぼやく様に言う。

「お二人さん、決着はついたのかよ」

「四月一日が駄々こねるからつかなかった」

「はあ!?」

「そんなんでいいのか?」

「良いんだよ。だって、私が今まで駄々っ子だったんだから、次は四月一日が好きにする番」

 確かに鉄穴は昔から我儘が目立つけど、私はそうなる気は無い。

「いいよ、四月一日。一杯私に迷惑かけて、甘えて、好きな事して」

「何でかしら。言ってる事全て苛つくのよね」

「酷い!」

「気が済んだらもう行くぞ」

 馬鹿さんの呼び掛けで、私達の喧嘩は止まった。

 鉄穴の事だから何の策も無しに来たとばかり思っていたけど、馬鹿さんを同行させたのは正解だと思う。

 馬鹿さんは懐から包みを一つ取り、それを開いて中の物を私達に手渡した。

 私と鉄穴に、掌寸法の葡萄と筍、桃が渡される。

「何これ」

 私もこればかりは鉄穴に同意だ。

 これは誰でも、いきなりはい、と渡されても困惑するだろう。

 わざとらしく怪訝な顔をして見せると、馬鹿さんは後ろ頭をがしがしと掻いた。

「知らねえのか? イザナギノミコトの逸話」

「知ってるけど忘れちゃった」

「……判ったかも」

「えっ嘘」

 馬鹿さんの言いたい事が漸く読めた。

 ここまでヒントを出されないと解らない様になってしまったなんて。

「イザナギノミコトが妻に追われて黄泉から帰るくだりよ。追手に葡萄、筍、桃を投げて足止めしながら逃げた話」

「そうだ。その通りにやって、上手く逃げ切れたら帰れる。正門から入ったとしてもな」

 予備知識も無しにここまで来た私が、酷くちっぽけに見える。

 私はあっさりと諦めて、一方鉄穴は最後まで強く執着した。

 独力では無理だと判断しても、そこからまた道を切り開き、私を見つけて連れ出す。

 目的を遂行する為なら何でもこなす執着と諦めの悪さ。

 人間らしく足掻き続ける彼女に、私は完敗したのだ。


 正門まで来て、鉄穴は私に問う。

「どうする? 通ったらまた戻れないけど大丈夫?」

 彼女なりに私の意見を尊重したいらしく、ここに来て不安そうな表情を浮かべている。

「何よ今更。それに言ったでしょ、今回は私が我儘言える番よ。このまま向こうに帰るわ」

 それだけ言うと、鉄穴の表情が一変して喜びを体現したかの様な笑顔になった。

 私は桃を懐に入れ、門番に掛け合う。

 牛頭馬頭を模した門番二人は、威圧的に私を見下ろした。

「ここをお通りですか?」

 太く凄んだ声に足が怯む。

「ええ」

 私にもう後悔は無い。

 あの時人形に書いて流したのは『後悔』だ。

 音も無く堅牢な門が開かれ、鉄穴の手を引いてくぐった。


 進むに連れて光が射す。

 だがイザナギノミコトの逸話通りに事が進むと、そろそろ鬼が来る筈だ。

「ねえ、そろそろ逸話通り追手が来てもいいと思うのだけど」

「四月一日、そう言う事は言ったら来るんだよ」

「言霊、ね」

 用心を兼ねて懐から桃を出して片手に握る。

 正直、私達の足で逃げ切れるか不安が込み上げる。

 一つ息を吐いた。

「早速噂をすれば、だぞ」

「お出まし早くない?」

 言うが早いが、馬鹿さんは私達の背中を強く押して走らせる。

 走りながら首を回すと、後ろに砂埃を上げて向かって来る先の門番二人が見えた。

 二人共牛頭馬頭の様な穏やかな表情は消え失せ、代わりに無邪気な、殺気に似た顔がそこにある。

 私の足では到底逃げられる相手ではない。

「いいから前向いて走ってろ!」

 背後を守る様に走る馬鹿さんが叫び、私達を急かす。

 次の瞬間、馬鹿さんが美事な投球姿勢を決めて葡萄を投擲した。

 葡萄が地に着くと周囲に蔓が生え、追手をまるで接木の様に絡め、その足を止める。

 雁字搦めにされている追手と大幅に距離を離し、葡萄の功績に感嘆をもらした。

「えっ葡萄すご」

「悠長な事言ってる場合じゃないわよ」

 もたらされた有限の時間を、一秒たりとも無駄には出来ない。

 その内に葡萄の蔓から逃れた二人は、直ぐに走り出して私を捕まえんとする。

 空白の距離が時間を稼ぎ、伸ばした手は無念に空を切った。

 向こうにある光は徐々に強くなっている。

 光は白や赤、緑など様々に顔を変えた。

 有限の空白は徐々に短くなり、二人は大股で駆けてくるものだからたまらない。

 鉄穴はおおよその着地点を目視で計り、振り向き様に投擲。

 その拍子に体の均衡を崩して転んだ。

「何やってるのよ!」

「いや~ごめんごめん。でもあちらさんはもっと転んでるからさ」

 見れば追手二人は、急速に成長する筍に高く突き上げられて、落下してはまた空高くを繰り返していた。

「んなこたどうでもいいんだよ。さっさと行くぞ!」

 不意に、体が軽々と浮き上がる。

「きゃあっ!」

「えっ?」

 馬鹿さんが私達を担ぎ上げ、なんとそのまま走り出したのだ。

 追手の姿がどんどん遠くなり、やがて米粒程に小さくなって消える。

 馬鹿さんの健脚にかかれば、私達二人の体重を抱えて疾走するなど、造作もないらしい。

 流石は獄卒、と言いたい所だが、今口を開くと舌を噛む。

 横で金糸の髪が靡いていた。

 光が一段と強くなった時、急に速度が下がり目線が低くなった。

 荒い吐息が聞こえ、馬鹿さんが膝をついたのだと知る。

 すぐに馬鹿さんから下り、馬鹿さんの背中をさすった。

「はー……ここまで距離、稼げば、後は歩いて行ける、だろ……」

 そう言って肩で息をする。

「本当にすみません」

「や、いいってことよ」

 馬鹿さんの回復を待って、それからは徒歩だ。

 確かに徒歩でも追手が来ない。

 それだけ距離を稼げたと言う事で、馬鹿さんの功績だ。

 様々に顔を変える光はより強くなり、向こうの景色が像を形作る。

 とは言っても、馬鹿さんにペースを合わせるのでもう少し掛かりそうだ。

「やっとここまで来れた~……」

「しんど……」

 ここをくぐれば此岸に戻る。

 そしてまた此処に戻る事は無い。

 そうよ、もう後悔はないわ。

 掌にそっと桃を包んだ。

 門の開く音がする。

 背後に気配がして、私の髪が何か鋭いモノに引っ掛かった。

「四月一日!」

 鉄穴が泣き叫ぶ様な声を上げる。

 状況が掴めないまま、髪をほどこうと後ろを向けば、牛頭の門番が長い爪を編み込みに引っ掻けていた。

「……嘘」

 青ざめていく感覚とは、この事を言うのだろう。

 指先が冷たく、足はその場に固定され、息が喉の奥で引っ込んだ。

 誰かが私の肩を掴んで強く引っ張り、その拍子に伸ばしていた髪が切れる。

 私の後頭部にあるもう一つの口が、手に持っていた桃をかっさらって追手に投げつけた。

 桃は牛頭の追手の手に当たり、触れた部分から焚付の様に崩れ、片方の腕の肘から先が消滅する。

 私は手を引かれながらその一部始終を呆然と見ていた。


          *


 四月一日は変わった。

 あの此岸への門手前で髪を切られた時から。

 後悔を人形に託し流した時から。

 私達が黄泉から帰って来ると、不思議な事に丸々一週間が経過していたのである。

 でも今思えば、これが私達の世界の普通。

 帰って来た後に、私が勤め先の写真館を辞めたのを知って、四月一日も辞職した。

 それからはまるで枷が外れた様に、今までの私達からすれば夢にも見なかった事を実行した。

 まず住んでいた平屋を、諸々の権利ごと池鯉鮒に売り渡して、家具の全てに至るまで手離したのである。

 それから師匠の家に移り住み、古物商を継いだ。

 取引名簿や顧客や帳簿を引っ張り出して、挨拶回りにも欠かさず。

 師匠が居なくなってから、取引先は大分混乱していたらしく、挨拶に行ったら先々で感謝されたりもした。

 師匠の仕入れに依存していた問屋もあって、こことの関係は切れそうにない。

 勿論商売相手は妖怪である。

 もう此岸と彼岸の間で悩まずに済むならと。

 夕方から店を開け、丑三つ時には閉店する。

 私達は夕方から夜が本領。

 人間として暮らす内に、忘れかけていた事の一つだ。

 それこそ当初は朝から店を開けて夕方に閉店していたから、客も私達も混乱していた。

 それと最近また一つ知った事だが、古物は妖怪が魂を保存する為の器として用いられるらしい。

 勿論質の良い代物を用意しないといけないが、少しでも良い古物を、と客は後を絶たない。

 食事は糸猫庵へ食べに足を伸ばしたり、出来合いの惣菜や缶詰を摘まんだり、自分達で適当に用意するなど、まちまちである。

 以前はほとんど自炊で済ませていた。

 それから四月一日は、髪を切られてから食事が楽になったと言う。

 今では髪を伸ばさなくなり、肩までついたら直ぐに切っている。

 私は特にこれと言って大幅に変化した所は無い。

 けど写真を自分の好きに撮れる様になったのは大きかった。

 誰にも口を出される事もない。

 黙って肯定してくれる四月一日が居ればそれでいい。

 遺品整理も落ち着いて、仕事にも慣れてきた或る休日に、不意に四月一日が夕方の散歩にでも行こうと言い出した。

 その日は暇だったから、趣味の撮影も兼ねて繰り出す。

 特に行く宛も無いので、四月一日について行く。

 歩いて行ったのは、私達が元々住んでいた家だった。

 ほんの数日前、どこぞの誰かに買い取られた後らしく、日曜だった事もあり、灯りが窓から漏れている。

 耳を澄ませてみると、子供が一人とその母親が居るらしかった。

 簡素だった猫の額程の庭は、小さい紫陽花の一株だけの鉢植えやら、次の季節の花の種だとか、庭園趣味一色に塗られている。

「まるで芭蕉の句ね」

「あ~確かに」

「草の戸も住み代わる代ぞ雛の家」

 そう言った四月一日が、まるでいつかの師匠みたいに紫陽花を観賞していたから、ざわりと気味の悪いモノが通り過ぎた。

「写真撮ったら駄目かな」

 咄嗟に、四月一日の注意を紫陽花からそらす為に言葉が出る。

「公開しないのなら」

「そっか」

 商用利用する事もないでしょう、と付け加えられた。

 一枚だけ撮って、印刷されたそれを、以前の家と同じ額縁に飾っている。


          *


 本日の料理

 ・冷やし中華

 ・鰺の蒲焼き

 ・みぞれ汁

 ・鮪の塩漬け

 ・豆花

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