七譚ノ弐 ニンゲン嫌いの仇討未遂

 ──回想──


 底冷えがする日の事だった。

 私は火鉢の恩恵に預かって、留守番の部屋で独り、暖をとりつつ欠伸あくびを一つ。

 春秋師範ひととせしはんは何かの用事で外に出ていた。

 何でも知己から教え子を預かるのだとか。

 ならば私は姉弟子と言うモノになるのだろうと、漠とした想像を浮かべていた。

 火鉢の淵に腕を置き、袖の引火にだけは注意を払って読書。

 先日縫い上げた橙色の着物。朱色の半纏を身に纏い、後頭部の大きな口は晒したままに。

 暇潰しにと、与えられた本を五冊全て読み終えて終えば、もう用は無い。

 自室に何かしらあった筈だ。

 暖かい火鉢に後髪を引かれながら、席を立とうとしたその時、玄関から僅かな音が響く。

 師範のモノではない、他の足音も聞こえる。

 昔から耳が良いと言われていたけれど、聞きたくないことも拾ってしまうから、私としては、便利であるが時に迷惑なのだ。

 私ははやる気持ちを抑え、小走りで玄関に向かう。

 離れから渡り廊下を滑る様に走って、距離を少しでも短縮する。

 玄関では師範が傘に付着した水を払っていた。

 外では雨が降っていたのか。気がつかなかった。

「お帰りなさい、師範」

「ああ今帰った。それで……」

 言わんとするところは判る。

 既に師範の背後で、狐の耳と尾がちらちらしているのだ。

 新たな教え子、と言うのは野干なのだろう。野干については、私も幾何いくばくかの情報を耳にしたことがある。

 師範が背後にいる教え子を、前に差し出そうとしたその瞬間──

「きゃあ!」

 一際甲高い嬉声を上げ、その野干は飛び出し、長い廊下を突っ切って行った。

 直線からの曲がり角は、実に美事なカーブである。

 師範は眉間を押さえていた。

 そして溜め息を一つ吐くと、私をちらりと見やる。

「すまんが四月一日わたぬき……捕まえてくれんか。儂は疲れた」

「承りました。ところで師範、あれの名前と種族は?」

「あいつはカンナと言うてな、鉄に穴で鉄穴かんなじゃ。野干の娘だ」

 矢張私の予想は的中していた。

 私は師範にお茶を入れた後、そのカンナとやらを捜しに、邸内やしきないを捜索する羽目になった。

 

 一言にやしきと言っても、それ程広くはない。

 師範所有の、純日本風の一軒家である。

 かつては、師範が付喪神に成る以前の使い手が住居にしていたと言う。

 平屋立ての母屋と、回り廊下から繋がった渡り廊下を挟んで十畳の離れと、小規模な畑の耕された中庭があるだけである。

 私は師範の教え子として、離れを宛がわれている。

 与えられているとは言え、幾らか個人的な執着もあるので、カンナが出来ればそこに入っていて欲しくない。

 回り廊下を一周するかしないかの内に、勝手の方からあの甲高い声が響いた。

「ひろーい!」

 どうやら邸の広さに感嘆しているらしいが、れ程広くはないのだ。

 私は敢えて勢いをつけて引戸を開く。

 音で畏縮させようとしたのだ。

 しかし勝手はもぬけの殻で、対象も居なかった。

 それこそまるで、怪奇現象の様に、声だけ残して忽然と消えている。

 部屋を見回すと、何と天井まで高く飛躍していたのだ。

「ははっ!」

 カンナはそのまま天井を蹴って壁に飛び、床へ着地するやいなや、前転し、勢いを殺して立ち上がる。

 勝手の戸を締めておいて良かった。

 私はカンナを目で追い掛け、手を伸ばすもまるで鳥類の様に逃げられてしまう。

 座敷童とてこれ程早くない。

 私は苦い顔で、カンナは誇りと興奮の入り雑じった笑顔である。

 カンナは三角飛び蹴りで私の背後に回り込むと、飛び付こうとして宙を舞う。

 しかしそれは叶わない。

 その次にカンナは、大きく長い舌に絡め取られ、身動きが取れなくなっていた。

 私とて二口女だ。これくらいの芸当は出来る。

 その時、丁度師範が勝手を訪れた。

 まるで推し測っていたかの様に。

「捕獲しました」

 私が表情を変えずに報告すると、師範は舌からカンナを解放し、よくやった、と激励をくれた。

 その後はいたって普段通りに、しかしカンナは不服顔で、一つの文机に向かって授業を受けた。

 今まで一つの文机を独りで使っていたから、私は表情にこそ出さなかったが、狭くるしく過ごした。

 

 そしてカンナが帰宅の際、師範は私に付き添いを依頼する。

 漸く解放されると思っていたのに。

 私は渋々カンナの手を引き、海を臨む夕方の二段坂を歩いて行った。

 藤と橙が雌雄を決している水平線で、鯨が宙を優雅に舞っている。

 私はあれが何なのか識らない。

 師範も識らないときている。

 だから、私に聞かれても答えることは出来ないのだと、カンナにはっきりと伝えた。

 二段坂を上って行くと、道路を挟んで山の麓が見える。

 ヒトの手が加えられていない、原始的な風景の中にカンナの両親は居た。

 狐の姿をとっているが、別段、ヒトの姿に化けていても良いと思う。

 カンナも両親に合わせて狐に成ると、そのまま飛び出して行った。

 その時一台の黒塗りの車が横切る──


          *


 カンナはその時轢かれなかった。

 轢かれたのは両親で、衝突する瞬間にカンナを弾き飛ばしたのだ。

 だが、独り娘を救う代償として両親は大型自動車に瞬殺された。

 犯人は未だ判明しない。名乗り出もしない。


          *


 翌日、仕事を片付けたその足で、私はある場所へ向かう。

 待たせてあるのだ。無意識に足を急かしてしまう。

 私は坂道をひた上り、海を臨む山の麓にある開けた場所に出た。

 石煉瓦で敷かれた石畳は半分朽ちかけており、その割れた僅かな隙間から、オオイヌノフグリが青い顔を覗かせている。

 咲き始めの猫柳は狼爪の様なその姿を誇っている。

 石畳を辿り歩き、木々が取り囲む中を行くと、一軒の木造平屋がその姿を表した。

 そこが待ち合わせ場所である。

 時の流れに任せて朽ちる筈のそれは、何者かの手によって手が入れられており、依然として昔のままに保たれていた。

 私は手を入れている者を知っている。だが、最近では多忙にかまけて手入れが間に合わない様だ。

 そのこじんまりとした一軒家の前庭に、待ち合わせた者がいる。

「ここを指定するなんて度胸のあることね。

 凄みを声に乗せて放つも、それは意に介せず、と言った風にそいつはかわしてみせた。

「確かに貴女の前では禁忌でしたねえ」

 待ち合わせたのは池鯉鮒ちりふだった。横には茉莉マリーも付き添っている。

 ここは鉄穴の家だ。

 両親が儚くなった後は、辛いからと手狭でも私と別の家で暮らしている。

 時折気が向けば、ふらっと訪れてみては簡単に掃除を済ませてまた帰る。

 その繰り返しで、この家は暫くの間保たれていたのだ。

 池鯉鮒はくすくすと笑みを浮かべると、立話もなんです、と腰を下ろしていた縁側に誘った。

 私は素直に従い、距離を空けて隣に腰を下ろす。

「宜しければこちらをどうぞ」

 そう言って差し出しされた小さな包みを、控えていた茉莉マリーが、静かに、丁寧に開いた。

 中に入っていたのは塩大福で、何故か二つのみであった。

 私が首を傾げていると、茉莉が口を挟む。

「わたくしは、モノが食べられない人形ですので、お気になさらず」

 一瞬面食らったが、その後を池鯉鮒ちりふが継いだ。

「構造的に食べられないんだ。人形師に頼めば良かったかな」

 ニンゲンじみたことを言うこのは、商人としてどこにでも出没しているらしい。

 だが最近では、糸猫庵にたむろしているのがほとんどだ。

「申し訳ないけども、私は茶会をするために来たのではないわ」

 断って、包みをやんわりと押し返す。

 池鯉鮒ちりふは、ふーん、と頷き返し、二つ目も自分のモノにしてしまった。

 そして池鯉鮒は、少し目をそらした隙に大福を平らげていた。

 ……それなりに大きいモノだった筈。

 懐紙を取り出して口許を拭うと、不意にぱんっと手を叩いた。

「では、商談を始めんす」

 曲輪言葉を操る彼女は、商人独特の鋭い目を光らせた。


「私が今回欲しいのは……。起承転結の起を起こさない方法」

「これはまた風変りなもんを注文なさりますねぇ」

 目を金色にして見詰めて来るので、私は思わず目をそらす。商人の目をしているが、しかし遠い目をしている。

 ヒトの目を見て話せとはよく言うが、の場合どうしろと言うのか。

  すると不意に、池鯉鮒が白い手を差し出した。

 私がまじまじと見詰めていると、たちの悪い笑みを浮かべる。

「ん」

「……何よ」

「前払金ですよ」

 あぁ、と私は一つ息を吐き、手提鞄から小箱を取り出した。

 それを開いて見せると、池鯉鮒ちりふは感嘆を漏らす。

「小樽の硝子細工よ」

「触っても?」

 私は無言で首肯した。

 入っていたのは香水の硝子瓶だった。

 彼岸の世では入手困難、または不可能なモノも、此岸では安易に手に入ることがある。

 裏切り者は裏切り者らしく闘わせてもらおう。

 この時ばかりは池鯉鮒ちりふも、まさに目を子供の様に輝かせ、食い入る様に品定めをしていた。

 香水の薫は確かバニラビーンズだったか。

 そして品定めを終えたらしい池鯉鮒は、大きく頷いて言う。

「結構! 大いに宜しい、そして望ましいでしょう!」

 取り敢えずは取引に成功したらしい。

 これである程度の無理は依頼出来るだろう。

  私は早速口を開く。

「それで、要求したモノの答は」

「んー……? そうですねぇ。矢張私達はワタシタチらしく、化かすのも良いかと」

「話にならないわ」

 化かして脅すなど、私も幾度となく通った道だ。

 呆れて香水瓶を取り上げようとすると、池鯉

ちりふの手が未練がましく瓶ごと避ける。

「姐様」

 その時、見兼ねた茉莉マリーが口を挟んだ。

「良いモノがあるでしょう」

「ぁあ! 駄目だよ茉莉、客は焦らすだけ焦らして心理を突いて高値で買わせないと」

 そして微笑ましくも苛立たしい遣り取りが始まった。

 どちらが主導権を握っているのやら。

 やがて口論は茉莉が優勢になり、旅行鞄から何か手探りで探し、取り出す。

 白魚の様な手に握っているのは、小さな小瓶だった。

「……それは?」

「強力な眠剤でございます。夢魔から譲っていただいた品になります。……姐様、交換に差し支えはありませんか?」

 そう言って首を180度回転させ、池鯉鮒ちりふを見やる。

 一瞬躊躇い勝ちに眉間に皺を寄せたが、諦めが早かった。

「それと交換になりんす。……用途はお守りを」

「使用法は?」

「瓶に表記してありますよ。普段の薬と変わりんんせん」

 その台詞だけ何故か素っ気なく言い放ち、そのまま立ち去ろうとした。

「待って」

 何の気なしに手を伸ばすと、首を回転させて振り向く。

「なんでしょぅ?」

「何でも無かったわ」

 本当は許可が欲しかっただけだ。

 友人を救う為に自己満足でヒト一人に復讐することを。


          *


 家にも帰らず、私は暫くそこで薬瓶を穴の空く程凝視していた。

 掠れ、汚れた文字列を解読するのには苦労した。

 用法と使用量が、薬局で貰う処方箋と同様に記されているのが、何だか可笑しく思える。

 小瓶の中は無色透明な液体で満たされている。

 しかし無臭ではない。

 まるで水の様だが、手で扇ぐ様にして匂いを楽しむと、猛烈な睡魔に襲われる。

 だが睡魔は遅効性らしく、まるで勝機を伺う様に、すぐには襲わない。

 私は目を閉じ、あの男の顔を眼窩がんかに浮かべた。

 脂肪を貯蓄した頬と背中。

 脂を浮かせた額。それを拭い取る左手薬指には銀の指輪。

 卑しく肉を溜め込んだ体躯は、明らかに寸法の合っていないスーツからだらしなくはみ出していた。


 ──気分が悪くなる。


 家に帰ると、鉄穴かんなに叩かれながら心配された。

 考え事をしていた、とだけ告げ、用意されていた夕食を綺麗に完食する。

 その間もへそを曲げ勝ちに、私の食事する様をじっと監視していた。

 初対面当初は、私──二口女──のに怯えていた鉄穴かんなだが、矢張慣れと言うのは恐ろしい。

 今ではこの通り、肩の触れあう距離でも平気でいる。

 そして食後の一服にとお茶を飲んでいると、ついぞ勝手へと消えた鉄穴かんなが、いそいそと食堂に戻って来た。

 細腕に支えられた盆には、ケーキが載せられている。

 それもホールである。

「……? どうしたのよ」

 問うと、鉄穴かんなも疑問顔で、は? と返答に困っている。

 沈黙が落ちた。

 どちらが蓋を切り落とすかで、目配せによって意志疎通をはかった。

「……あの。今日はさ、四月一日わたぬきの誕生日だよ? だよね?」

「そうだったけ……?」

 すると困った様な顔をしたので、そうだった、と言い繕う。

 食卓にケーキが運ばれた。

 白いクリームで包まれた色素の薄いスポンジは口の中で溶け、蜜柑と、苺がその間に挟まれている。

 制限された甘さは、幼子にとっては物足りないかも知れないが、私達にとってはこれで良いのだ。

 そして王冠の如く座している大粒の苺は、誰もが最後にと残すだろう。

「別に誕生日なんて普段から忘れているモノじゃない」

 苺を口に運びながら切り出すと、鉄穴かんなは、口一杯にスポンジケーキを含ませながら言った。

 その所為せいで高い声は低くくぐもってしまう。

「んー……。まあふぁたし達はニンゲンなんかふぉりもなふぁ生きするふん、ほお言うほほをふぁふれひゃうモノふぁん?」

「そうね。ちゃんと飲み込んでから話しなさい」

「だったらさ、私達裏切り者はそれらしく、責めて誕生日は忘れないで居ようよ」

 そう言って鉄穴かんなは、逞しく笑って見せた。

 昔の暗い気性では有り得なかった笑顔だ。

 ならば私は、これを守る為ならば──


          *


「いやぁあ~! とても良い写真だ! やっぱりさんのはブランドが確立されていますね」

 うるさい。

 無駄に言葉を修飾するな。

 だが本名で呼ばれていないだけ、まだ心に余裕があると言うものだ。

 そう言えば偽名はこの自衛の為に使っているのだった。

「……では、これで私の仕事はここまでですね」

「ええ。そうなりますね。お疲れ様です」

「お疲れ様でした。……カネコ様はこうして直接打ち合わせに来ては駄目だしされるので、写真の厳選に骨を折りました」

 皮肉の意で言ったのだが、このカネコと言う肥満体型は、意に介せず大仰に笑う。

 年を重ねた癖にこれか。

 ニンゲンは何故年を重ねても知識の年輪は大きくならない。

 だから私達は発想の柔軟な子供が好きで、大人になると離れていく。

 不意に、カネコは立ち上がり、すわっている私の斜め後ろに立つ。

 そして私の肩に銀指輪のはまった左手を乗せ、嫌らしい呼気を漏らした。

「本当にさんは良い写真を撮りますからねえ。是非ともうちの出版社に、専属として欲しいのですよ」

 手を払いのけ様としたが、思いの外がっしりと掴まれている。

「同じく写真館ここに努めている……あの白根しろねさん。あの人は駄目ですよ~」

 とは、鉄穴かんなの用いる偽名である。

「あの人は駄目ですよ。ブランドが確立されていない上、独断で、依頼した側の意向に沿う写真を撮らない」

 全身の毛が逆立った。

「ここだけの話ですが、もうね、ブラックリストに入っているんですよ。だからね、もう彼女は依頼の対象から完全に外してます。暗黙の了解ですね」

 死ね。

 死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね──


 鉄穴かんなを勝手に殺すな。

 ブラックリストなんぞに入れて居ない者にするな。

 何故潰されなければならない。何も罪など無いと言うのに。

 私は椅子を倒す勢いで立ち上がり、男をはね除けた。

「お茶を淹れてきますわ。お話が長くなりそうですから」

 去り際、敢えて耳に届く様に舌打ちをした。


「大丈夫?」

 部屋を出ると、鉄穴かんなが心配そうに駆け寄って来る。

 そして私が掴まれた肩を手で払った。

 相変わらず察知が早い。

「最近ご執心だよね。追い払う? もう依頼は終わらせたんでしょ」

「そうよ。でも私を出版社に引き抜かないと、まt明日も来るわよ。それに鉄穴かんな……貴女はブラックリストに入れられているから、私と一緒には来られないわよ」

「っ……死ねば良いのに」

「本当よ」

 淹れたくもないお茶を淹れながら、私は懐から小瓶を取り出す。

 鉄穴かんなの見えない所で。

 小瓶の液体を入れ、丹念にかき混ぜる。

 盆に乗せ、運ぼうと手を掛けると、横から鉄穴が一つ余計に載せた。

「私が隣に座る」

 後にも先にも、これ程心強いことは無かった。


          *


 相席した鉄穴を見るなり、カネコはあからさまに嫌気のさした顔をした。

 それと言うのも、鉄穴かんなが私を占有するかの様に、私に貼り付いているからだ。

 流石にブラックリストが眼前に居ると、言う事も憚られるだろう。

 金子はお茶を飲んで頭を変えようとした。

 しかしそれは私が仕込んだモノである。

 こうも美事に、そしてあっさりと引っ掛かってくれたものだ。

 眠剤の効果が現れるまで、私達は噛み合わない会話を繰り返し、カネコを苛立たせた。

 楽しんでいたと言っても過言ではない。

 思いの外時間は掛かった。

 だが小一時間もすると、効果が回ったらしく薄い目をほとんど閉じていた。

 そしてその内、帰宅すると申し出て、取り敢えずはここから追い出すことに成功した。

 私は玄関まで送り、応接間の掃除をし、程よく時間を潰した後でカネコを追い掛ける。


          *


 カネコは車で来ていなかった。

 この二段坂の地形では、一部の道が狭く、ヒト一人が通るのにもやっと、と言う道もあるのだ。

 私達の努める写真館は、そう言った不利な地形にあるので、あの男はいつも上の駐車場に車を止めてから、徒歩でくるのだと、以前こぼしている。

 傾斜のきつい坂道を、カネコは肩で息をしながら上る。

 私はそれを、足音を立てずに追い掛けた。

 カネコの方は眠剤が強力に効いている様で、かなり足取りが覚束無おぼつかない。

 片付けの際に勝手で入手した果物包丁を、着物の袖の中で握りしめた。

 カネコはその辺の裏路地に迷い込み、そのまま何処へともつかず、ふらふらと歩いて行く。

 進んで行くと、開けた海辺に出た。

 春先の冷えた潮風が頬をなぶる。

 包丁を逆手に持ち、だらしなく眠り込んだカネコに近寄った。

 足音を気にする必要もない。

 包丁を構え、上に振り上げる。

 いらない。

 こんな奴はいらない。

 いらないニンゲンで、居ないニンゲンだ。

 動物では無いけれど、狐の姿をしていた二人を牽き殺したのは事実で、認めないニンゲン。

 どうせ、心も病んでいないのだろう?

 重力に任せて包丁を振り下ろす──

 

 包丁は服の袖を掠り、僅に腕の皮膚を削った。

 もう一度振り上げ、単調な動作で振り下ろした。

 それでも包丁は男を避けていく。

 見れば包丁が小刻みに震えている。

 どうしてよ。

 私はどうしても殺さなければならないの。

 既に殺された夫婦があって、反省の色を見せないこいつは要らないでしょう。

 刃は僅に掠り、手から逃げて地面に当たって欠けてしまった。

 視界が霞んだ。

 このまま海に突き落としてしまおうか。

 欠けてしまった包丁もそのままに、私はカネコの襟首を掴み、地面をずるずると引き摺る。

 服が汚れても気にする者はいない。

 これから黄泉比良坂を下るのだから。

 ずるずる、ずるずると、摩擦音を波がかき消す。

 ふとなにとなく後ろを振り向くと、裏路地の入口、そこに鉄穴かんなが無言で立っていた。

「っか……!」

 鉄穴の目には何も無く、ただただ私を見詰めている。

 手から力が抜け、カネコは不様に転げた。

 眠ったままに。

「帰ろ。四月一日わたぬき

 鉄穴の声には抑揚が無く、背中を駆け巡った。

「鉄穴……」

 ひたすらに情けなかった。

 黙って私の手を掴んで、黙って引いて歩き始める。

 頭が空になる私の背後で、男の呻く声が聞こえた。

「違う……の」

 無駄を悟りながら、しかし混乱した頭で背後を振り返ると、姿

 呻いた声がすぐ近くに聞こえた筈だ。

 だのに──

 息が止まり、心臓がピアノ線で締め付けられた様に痛む。

 男が落ちていないかと、放心状態で海を覗き込んだ。

 しかし男の姿は無い。

 ヒトの体はある程度浮く。

 それなのに。

 眩暈めまいがする。

 体が前に傾倒する。

 左腕を痛いほど掴まれた。


          *


鉄穴かんな

 呼ぶが、鉄穴は無視を続けさっさと歩いていく。

「鉄穴」

「何も無かった」

「え……?」

 何を言っているの?

四月一日わたぬき。四月一日は疲れてたんだよね。だからこんな暗い裏路地に迷い込んだ。それだけ」

 救いのつもりなのだろうか。

 私は殺人未遂犯だと言うのに。

 そしてこのままどこへ行くと言うのか。


 海に向かって倒れかけていた私を、鉄穴が咄嗟の所で腕を掴み、私は助かった。

 そして、私はあの場所から連れ出され、今は彼女が主導権を握っているのだ。

 鉄穴に手を引かれ、足を引っ掛けて転げながら、二段坂を上って行く。

 しかし高くは上らない。

 潮風が心地好い程度の高さだ。

 二段坂の脇には裏路地に繋がる通路が伸びているが、鉄穴かんなはそれらを全て無視して、目的地へと一直線に向かっている。

 

 私達は春秋ひととせ師範の邸宅へ辿り着いた。

 師範は私達を一瞥するなり何か察したらしく、胡座あぐらをかいていたが正座に直した。


「……して、何の面倒事に捲き込まれた」

 流石は師範だ。事の推測が早い。

 私は覚悟を決めて、漸く喉の奥から声を絞り出した。

鉄穴かんなの御両親を殺害した輩を……報復に殺そうとしました」

「何を用いた」

「……眠剤です」

 言うと、すかさず鉄穴が口を挟む。

「誰からの?」

 息をのむ。

 他人から譲渡されたモノであることは、彼女も、師範も知らない筈だ。

 それが、何故?

「答えて」

「池鯉鮒からよ。私が依頼して、品と引き替えに買った」

「何を引き替えに?」

「小樽の硝子細工……もっと言うなら、香水よ」

 ごく簡潔に答えると、そのまま鉄穴は黙りこくってしまった。

 丁度、考える人の構図で。

「案ずるな、四月一日わたぬき

 考える鉄穴を置き去りにして、私を宥める様に師範が言う。

「でも、どうして……」

「その眠剤と言うのは、儂の推測じゃが夢魔の眠剤であろう? 違うか?」

 私は二度も驚いた。

 只でさえ情緒が不安定になっている所為もあるが、今日の師範と鉄穴かんなには、驚かされる所がある。

「間違いありません」

「ならば、どうにか出来るやも知れん」

「本当ですか!?」

 私はがっつく様に立ち上がった。

「まあ落ち着け。解決の糸口は逃げん」

 はっと我に帰り、着物の裾を直して座り直す。

「夢魔の眠剤は、対象が眠る間対象の姿を消す、と言われておる。ならばどうすれば善いか、判るな? 四月一日わたぬきも儂の生徒じゃ」

 結論は判っている。

 私は立ち上がり、鉄穴かんなを置き去り、春秋師範ひととせしはんに礼を言った。

「有り難う御座います」

 そして師範の邸宅を去り、先刻の路地へと急いだ。


          *


 男の姿は無い。

 先刻までは壁に寄りかかっていたが、私が掴み上げて移動させたのだ。それからの姿を見ていないから、場所の判断がつけにくい。

壁に沿い、一歩ずつ歩を進めて行く。

足先の感触に注意して、端から端まで歩き終わると、少しだけ横に移動し、また端から端までと。

その内、ぶにっとしたモノを踏みつけた。

驚いて下を見やると、何も見えない。

 続け様にそこに在ったモノを蹴りつけると、反発する。

 間違いない。

 カネコはここにいる。

 後は起こす方法だ。夢魔の眠剤と称されるのだから、矢張強力なのだろう。

 気付くと、目と鼻の先──そこに刃の欠けた果物包丁を認めた。

 私はそれを拾い上げると、反発する感触を確認し、背中らしき場所に刃を突き立てた。


 醒めないならば、このまま刺してしまって。

 

 突き立てた刃は、少し力を入れるだけで沈んでいく。

 鉄分の臭いも、泥の様な感触もない。

 もっと深くまで鎮めて仕舞えば──

 汗の浮かぶ手に力が入る。

 鉄穴の為よ。

 あの子の為。

 殺したニンゲンが悪いのよ。

 醜いニンゲンが──

 認めたくないモノを否定するから。

 起こす方法は恒久的に不明のままで良い。

 そうとさえ考えてしまったその時。

 

 左腕を強く引かれた。

 そのまま後方に引かれ、均衡を崩して背中から打ち付けるかと思ったが、そうはならなかった。

 背後には誰かが居て、柔らかい感触が頭に当たる。

 見ると、先と同様に彼女がそこに居た。

 鉄穴は一息吸い込むと、頬を思い切り殴った。

 不思議と傷みは無い。

 患部が熱を帯びた。

 私は漠然として彼女を見ていたことだろう。

 そして鉄穴かんなは私の首に腕を回し、肩口に顔を埋めた。

 金糸の如き長い髪が、さらさらと流れていった。

 これでは表情が判らない。

 直後、啜り泣く嗚咽が漏れた。

「──……お母さんと、お父さんが、救われないからっ」

 引き剥がして見ると、鉄穴は泣いていた。

 弱さを隠す為、強気になって以来見られなかった泣き顔。

 彼女にこんな顔をさせたのは誰だ。

 控目な化粧が崩れ、硝子玉の目は曇り、金糸の長髪に涙が零れ、濡れている。

 あのカネコか?

 ニンゲンそれ自体か?

 否。私だ。

 私の、身勝手な判断で引き起こした自業自得。

「ごめん、なさい」

 一言絞り出すと、それから私はオウムの様に、同じ言葉──ごめんなさい──を繰り返すだけの存在になった。


「さてと、所でこいつどうする?」

 私はまだしゃくり上げていたが、それでも頭は十二分に冷えていた。

 手を下さないとは言え、このままでは釈然としない。

 私は鉄穴を横目で見やると、彼女は、僅に顎を引いてくれた。

 ほんの、まるで子供時代の様な悪戯を仕掛けて帰ろう。

 帰ってご飯を食べて寝る。そして日常を再開させる。ただそれだけだ。

「どうする? 口に蟲でも詰め込む? どうせ醒めないだろうし」

「眠っているなら悪夢でしょうよ。それから起きた後の仕掛けを考えてちょうだい」

「あいあ~い」

 そう返事をすると、彼女は裏路地から出て行った。

 私はぶにぶにとした感触を確かめると、首の位置を手探りで探し当てる。

 悪夢を魅せる、とは言ってもそう簡単ではないが、遣り方それ自体は至極単調だ。

 喉仏と呼称される部分を指で静かに押すと、カネコが咳き込む。

 しかし収まると、そのまま眠り続けた。

 咳をするなら、取り敢えず呼吸はあることが証明された。

 私は静かに両手を首に回し、窒息しない程度に気道を狭める。

 勿論手加減しなければ、この男は数秒後には脳に酸素の供給が不足していたことだろう。

 息を吸う音が虚しく聴こえた。

 これは酸素の供給をある程度絶つことで、走馬燈を魅せ、死の錯覚をさせる方法である。

 時間の過ぎるまで、暫くそのままでいると、鉄穴が丁度良い塩梅で私を呼んだ。

「罠の設置、完了であります」

 わざと軍隊敬礼をした彼女は、泣いた後の腫ぼったい目で逞しく笑って見せる。

「こちらも完了した。行きましょう、鉄穴中尉」

 私も彼女に合わせて軍隊敬礼と口調で返答すると、彼女の顔に笑いが弾けた。

 私はこれほど安堵したことは無い。


「懐かしいね、こんな悪戯仕掛けたの。何十年ぶり?」

「さあ? 軽く五十や六十は越えていそうだけれど」

「そう言えば師匠の家の裏山、今どうなってるかな? 昔仕掛けた不発弾がまだ残ってるよね」

「山の開発を凍結させる為とは言え、流石にやりすぎたわね」

「ね。あれが今見つかったら大騒ぎになるかなあ。戦後の不発弾だー、って感じに」

 帰り道は、仕掛けた罠についての話題で持ち切りになった。

 どうやら鉄穴は、道の随所に様々なモノを仕掛けたらしい。

 極めつけは車の意図的な故障だ。

「別にいいじゃん。ガソリンタンクに砂糖入れたり、タイヤに五寸釘仕掛けた訳じゃないし」

 確かにまだまだ温い。

「どんなのを仕掛けて来たのよ」

「あのね。エンジンかけるとボンネットから猫の叫び声が聴こえるやつでね。まあ玩具なんだけど。それからブレーキ踏むでしょ? そしたら故障する」

「中々に効果があるわね。それと意趣返しも」

 素直に褒めると、鉄穴はにへっと気の抜けた表情を見せた。


          *


 翌日になって、私達は依頼を無事満了させたので少々奮発することにしたのだ。

 卓上に並んでいるのは洋菓子の数々。

 中には、以前鉄穴が希望していたバタークリームケーキもある。

 全てはこの糸猫庵店主、糸によるモノだった。

 飾り付けの豪奢なカットケーキの盛り合わせから、均衡を保ったクロカンブッシュと呼ばれる塔等々。

 前々から予約していたとは言え、ここまで豪華になるとは思いもしなかった。

 量を前にした私達を傍目に見れば、華奢な女性二人連れが大食いか何かを前にしている様に見えただろう。

 鉄穴は片端から手を付け、次々と口に放り込んでいく。

 私は無論、後頭部の口から。

 いいじゃないか。こっちが量を食べるのには向いているのだから。

 しかしそれでも、つい欲が出てしまって、とうとう二口女の本領を発揮してしまった。

四月一日わたぬき、それずるい!」

「何言ってるのよ鉄穴、量を前にしたらこうもしたくなるのよ……」

「まー元々大喰らいだったからね」

 そして負けじと、鉄穴も食べる早さを増していく。

 私は競争のつもりではないのだが、これではすぐに無くなってしまいそうだ。

 私は手を垂直に挙げ、店主を呼ぶ。

「すいません。ケーキ盛り合わせを二つお代わりお願いします」

 はい、と注文を受けた糸が、ふらふらと覚束無い足取りで厨房へと消えた。

 私は注文した皿が来るまでの小休止にと、前の客が残したのであろうか、手近に放り出されていた新聞を開く。

 見ると、一面に大きな見出しで或る事件が取り上げられていた。


『身元不明男性、山中の渓流にて愛犬が発見』

 某日正午、██川下流にて身元不明男性を発見。発見したのは近隣の█町在住の長谷川(仮名)さん。愛犬の散歩時に愛犬が匂いを辿って発見したと証言している──


 記事の概要としては、発見された男性は、主張する住所からは12㎞離れた場所で発見されたと言う。

 私はここで改めて、鉄穴の恐ろしさと言うか、潜在しているモノを知るのだった。


          *


 本日の料理

・鶯餅

・桜の練り切り

・椿餅

・甘辛短冊狐饂飩

・鱈子混ぜ汁無し饂

・温泉卵

・塩大福

・苺のホールケーキ

・バタークリームケーキ

・カットケーキ盛り合わせ

・クロカンブッシュ

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