同じ鍵 でも 分からない

fujimiya(藤宮彩貴)

第1話 Re:スタート!

 あたらしい、春。


 京都の大学を卒業した柴崎(しばさき)さくらは、生まれ育った東京へと帰ってきた。現在、二十三歳。事情があって一年休学してしまい、京都では五年を過ごした。


 新しい住まいは、就職した会社の本社近く。徒歩でも通える範囲に建つ、都心の高層マンション。違うフロアの部屋に、両親も住んでいる。東の窓からは、東京の夜景がうつくしく見える。西の窓の朝は晴れれば富士山が、夕方は日没の様子がきれいだ。


 現在は、五月。連休が終わって、新生活も定着しつつある。



 インターホンのチャイムが鳴ったので、さくらは家事の手を休めて玄関に向かった。


 ドアの鍵を開けると、紺色のビジネススーツ姿の類(るい)が笑顔で立っていた。目が溶けそうになるほど、かっこいい。新社会人ということを意識して、明るめの地髪をやや黒く染めているのが新鮮でいい。


 柴崎類。さくらの、ひとつ年下の夫。ダンナさまだ。結婚して、もう四年目に入った。


「ただいま」


「待っていたよ。おかえりなさい。類くん」

「さくら、いいこにしてた?」


「いいこって。もう、社会人だよお互い」


 そんな声が響く、明るい家。

 さくらに続いて、ちいさな足音も飛び出してくる。


「ぱっぱ! ままとばっかり、ちゅーしない。あおいもー!」

「分かっているって。おいで、かわいいあおい。だあいすき、ほっぺにちゅっ」

「あおいもぱぱ、ちゅき。だいちゅき! おかえりなちゃいっ」


 我が家……柴崎家の中心は、先月で三歳になったばかりの娘、あおいだった。



 婚約して半年後、さくらたちはあおいを授かった。入籍し、さくらは二十歳になった翌月に、あおいを生んだ。


 当時、大学三年生だった。どうにか、二年までの科目は履修できたが、さすがに乳幼児の時期の通学は無理で、一年間産休という名の休学を挟んだ。復学してからは周囲の助けを借り、単位はぎりぎりの成績でなんとか卒業まで漕ぎつけた。


 類は、現役の大学生モデル『北澤(きたざわ)ルイ』だった。週末だけ東京に通勤しつつ、さくらを助け、四年で無事に……というか、首席で卒業した。

 そして、惜しまれつつも、モデル業も引退。

 若い女性を中心に大人気だったので、さよならラスト写真集の発売日には、品切れの書店が続出し、二ヶ月が経った今でも記録的に売れ続けている。



 ふたりは、この春から母の聡子が経営する会社で、社員として働いている。『シバサキファニチャー』という、中堅の家具会社だ。和風でモダンで高品質低価格、を取り入れて人気上昇中。大都市を中心に、全国で支店を増やしている。


 類の入社はあらかじめ規定路線だったので、今年度の新入社員採用試験は志望者が殺到した。


 特に、女子学生が。


『北澤ルイ』と一緒に働きたい一心で、『お給料は要らないので!』『お金払いますんでどうか入れてください!』と、意味不明な鮮烈アピールする学生も多数出没するなどして、聡子社長はキレた。



 そんなこんなで、四月の入社式。

 類は新入社員の代表挨拶を堂々と、しかし初々しく務めた。さくらも、うっとりとして聞いた。

 入社式の様子は、テレビのニュースでも取り上げられ、『日本一かっこいいサラリーマン』として、さっそく宣伝広告効果を上げた。新人研修中の身の上ながら、文字通り看板社員である。


 聡子は(息子夫婦のために)本社内に保育園をも、新しく立ち上げた。

 勤務前に子どもを預けて帰りに迎えられるので、保育園不足の中、多くの社員が助かっている。


「来週から、営業部に配属されることになったよ」

「そうなんだ。がんばってね」


 会社の期待を受けている類の、新人研修は長かった。会社の全部署をたぶん、巡回したと思う。それでも駆け足で。さくらはさっさと研修を終えて、先月のうちに配属先が決まったというのに。


 類はスーツのジャケットをさくらに預けながら、ネクタイを外す。いちいち、しぐさのひとつひとつがなまめいていて、いまだに慣れなくてどきどきしてしまう。


「たぶん、吉祥寺の新店応援に行かされる。さくらは本社で内勤か。しばらく離れ離れだよ、いやだなー」


「でも、家では一緒だよ」

「たくさん仲よくしようね……今夜あたり、どう?」


「えっ。こんや?」


 まだまだ話し足りないけれど、あおいがさくらのスカートにまとわりついている。


「ままー、ごはん。おなか、ちゅいた!」

「そうだね。ごはんだね」


 あおいを抱き上げると、きらきらの笑顔を見せてくれた。外見も中身も、類にそっくりである。しぐさや喋りかたまで。そして、超絶美少女の予感しかない。


***


「あおい、寝たよ。かわいい顔で」


 類は、積極的に育児を手伝ってくれている。おふろも入れてくれるし、寝かしつけも得意だ。着替えもおむつもお散歩も嫌がらずに、ぜんぶ分担だった。


「ありがとう、助かった」


 さくらは、おふろに入っていた。類がいないと、家事もお世話も自分の身の回りも、すべてひとりでしなければらないので、ほんとうにありがたい。

 明日の朝食の下ごしらえもしたし、服も準備した。あおいの保育園バッグの中身も、確認済み。


 今夜はもう、寝るだけ。


「さ・く・ら」


「るいくん……」


 そっと、類がさくらを抱き締めて背中に手を回した。


「東京に戻ってきたことだし、そろそろ、『解禁』しようよ?」

「う、うん……でも、類くんの仕事が、本格的に営業になると不安。帰り、遅いよね。不規則勤務だよね。土日勤務だよね。すれ違っちゃう」

「だいじょうぶだって。ぼくがいる。母さんもオトーサンも近くにいる。あおい、ひとりじゃかわいそうだよ。絶対、きょうだいがほしいって!」


 あおいが生まれてから、類はさくらや周囲の状況に気遣い、短期間でさくらを妊娠させないよう、慎重になってくれた。いくら類でも、大学生でふたり目、さんにん目は、さすがにきついと感じたらしい。


 しかし、学生は終わった。もう、社会人だ。類は、子作りを再開したいと言う。以前から『子どもは五人ほしい』と、宣言していた。



 さくらは、違った。


 大学の卒業が一年遅れてしまい、かつての同級生たちは社会で活躍しはじめている。有名企業に就職し、大きなプロジェクトに関わっている友人もいる。


 ひとり、世間に置いて行かれているような気がしてならない。


 今、さくらは、育児よりも仕事がしたい。けれど、そんな本音は類に明かせないでいる。どう説明したらよいのかも、分からない。うまく伝えられそうにない。もどかしい。

 あおいを、育児を、軽視しているようには思われたなくない。あおいは、大切な存在だ。


 すてきなダンナさまに、かわいい子どももいるのに満ち足りていないなんて、とても贅沢な悩みだと思う。誰にも相談できない。


「でも、寝室には、あおいが寝ているし……」


 リビングでは、雰囲気がない。ほかの部屋も、しっくりこない。


「ぐっすり寝ているし、起きないよ。だいじょうぶ。たとえ目が覚めても、なんのことだか分からない歳だろうし、ぱぱとままはとっても仲よくしていたって言えばいいじゃん? 嘘じゃないでしょ。さ、解禁解禁♪ きょうだい♪」


 類は、さくらのパジャマのボタンに手をかけた。

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