10.ミィ

 私は二人で暮らす長屋にいた。

「尚子ちゃん」

 田原の奥さんがナオの姿を見つけて駆け寄る。その腕には生まれて間もない赤ん坊が抱かれていた。どれくらい目が見えているのかわからないけれど、私の顔を見てニッコリと笑みを浮かべたような気がした。

「あぁ、田原さん、こんにちは」

 ナオは笑顔だった。

「……大丈夫なのかい?」

「大丈夫って、何がです?」

 首を傾げるナオに、田原の奥さんは眉根を寄せる。

「都ちゃん、お気の毒だったね……」

 ナオは笑顔を貼り付けたままだった。そんなナオを見かねたのか田原の奥さんがナオの手首を握った。

「あんた、ろくに食べてないだろう。うちにおいで。たいしたものはないけどちゃんと食べなきゃ都ちゃんが心配するよ」

 ナオは困ったように眉尻を下げたけれど、グイグイと田原さんの家の中に引っ張り込まれてしまった。

 田原さんの家は賑やかだった。大柄の旦那さんとどっしりとした奥さん、三人の子どもにこの間生まれたばかりの赤ちゃんが加わっている。

 私たちの家と間取りは同じなのになんだか狭く感じた。

 奥さんはナオをちゃぶ台の脇に座らせてるとその前にごはんとお味噌汁、漬物や煮物を置いた。

「さ、食べな」

 奥さんが有無を言わさない表情でナオを見て言う。ナオは断れないと思ったのか、ゆっくりと箸を持ち「いただきます」と言った。だけど一向に箸を動かそうとしない。

「食べなきゃだめだよ」

 そう言われてナオは箸で米粒を三粒ほどつまんで口の中に入れたけれど、すぐに茶碗と箸を置いてしまった。

 奥さんは大きなため息をつきながら首を横に振った。

 そうしてしばらくナオの顔を見つめていたけれど、ハッと思い出したように目を見開くと赤ちゃんをナオに見せるように体を寄せた。

「この子を見てごらん」

「かわいいですね」

 ナオがやさしい目をして赤ちゃんを見下ろす。

「少し前にウチのおじいちゃんが亡くなったんだけどね」

「そう、なんですか……」

「この子の腕を見てごらんよ」

 そうして奥さんは赤ん坊の産着をめくって肩口を見せた。

「痣、ですか?」

「そうなんだよ。アタシャこの痣を見てたまげたよ。ウチのおじいちゃん、子どものころに木から落っこちて、ちょうどここの所に傷跡があったんだよ」

 ナオは首を傾げている。

「この痣を見てさ、これはおじいちゃんの生まれ変わりに違いないって思ったんだよ」

「生まれ変わり?」

「そうさ。人はさ、死んでも生まれ変わるんだって。だから都ちゃんも今頃赤ちゃんになって生まれてるかもしれないよ」

「ミィが?」

 ナオは定まらない視点で空を見上げて何かを考えていた。

 私は思わず吹き出してしまった。生まれ変わっているはずがない。だって私はここにいるのだから。

 私は確かに死んでしまった。自分の葬儀も見た。だけど私はナオの側にい続けた。どうしてこんなことになっているのか分からない。もしかしたら仏様がご慈悲を恵んでくださったのかもしれない。

 結局ナオは食事に手を付けられないまま田原さんの家を出て、私たちの家に帰った。

 薄暗い暗い部屋に電気をつけるとグルリと部屋の中を見回す。そして台所に行ったり押し入れの中を覗いたりしながら、部屋の中をグルグルと歩き回った。

 最近のナオは帰宅するといつもこうして家の中を歩き回る。

「ミィ、どこに隠れてるの?」

 私はナオの目の前にいた。

「ミィ早く出てきて」

 ナオの言葉に応えても、ナオの方に触れてもナオには私を見るこができない。

 そうしてしばらくすると私の姿を探すことを諦めて部屋の隅でひざを抱えてしゃがみこんだ。

「ミィ、寂しいよ。早く帰ってきて」

 何もできない私は、ナオの横に座ってごめんねとつぶやいた。



 ナオは布団を敷くと素早くその中に潜り込んだ。だけど、眠れないのかいつまでもモゾモゾと寝返りを繰り返す。

「ねぇミィ」

 ナオは真っ暗な天井を眺めてつぶやく。

「ミィ、寒いよ」

 そうしてナオは布団を引き上げて体を丸めた。私はナオの枕元に座り、ナオの頭を撫でた。触れることはできないけれど、何かせずにはいられなかった。

 長屋の冬は寒い。

 ぴっちりと締めているはずなのに、窓の隙間から冷たい風が入り込む。薄い布団を被っただけでは温かくならないから、私とナオはいつも体を寄せ合って眠っていた。

 氷のように冷たくなるナオの手を包み込んでハァと息を掛けてあげると、ナオはうれしそうに目を弓型にした。

 今はもうナオの手を包んであげることができない。

 ナオはずっと震えている。それが寒さのせいじゃないと気付いた。鼻をすすりながら嗚咽を堪えるナオの声が暗い部屋の中に響いていたからだ。



 ナオが不意に目を覚まして「ミィ」と呼んだ。

「お便所、付いてきて」

 ナオが言う。

「ねぇミィ、意地悪しないで付いてきてよ」

 ナオの他に誰もいない部屋でナオは私を呼ぶ。

 ナオは夜暗くなってから便所に行くのをいつまでも怖がっていた。

 私も少し怖かったけれど、ナオに頼りにされたかったからそれを我慢して強がっていた。

 夜、ナオが「お便所に付いてきて」と言うと、私はランタンを用意する。便所にも電灯は付いていたけれど、暗い電灯はむしろ闇を深くするようで余計に恐ろしさが増した。だから少しでも怖くないようにランタンを持って便所に行く。

 ナオが用を足すために便所に入ると、私はその外で何かを話し続けなければいけなかった。少しでも黙ると便所の中から「ミィ、ミィ?」と呼ばれる。

「ちゃんといるから大丈夫だよ」

 私は便所の中のナオに聞こえるように言う。

「何かしゃべっててよ」

「何かって何をしゃべればいいの?」

「なんでもいいから」

 そんな私たちのやり取りは長屋に住む人たちに筒抜けだった。その証拠に、私たちのやり取りがはじまると、長屋に住む子どもたちが次々と便所にやってきた。

 夜、怖くて便所に行けない子どもたちにとって、私たちは絶好の機会だと思われていたのだろう。おかげで子どもたちが全員帰るまで私たちは便所の番をすることになった。

 今の私はもうナオについて便所に行くことはできない。せめて声だけでも聞こえればと思うけれど、そうしたら余計に怖がって便所に行けなくなるかもしれない。



 ナオは少しずつ日常を取り戻していった。

 ときどき不意に私の名前を呼んで泣くことがあるけれど、それも少しずつ減っている。

 私はホッとしていた。そうして早く私のことを忘れてくれればいいと思った。

「ねぇミィ」

 一人で夕食をとりながらナオが言う。

 ナオは目の前に私がいるように話しかける。だから私はナオの正面に座ってその話を聞いた。

「前に田原の奥さんが話してたこと覚えてる?」

 何の話だっけ? と思っているとナオはすぐに答えを教えてくれた。

「生まれ変わりって本当にあるのかな?」

「どうだろうね」

 ナオには聞こえないけれど私はナオの言葉にあいづちを打つ。

「ミィが生まれ変わってたら、また会えるかな?」

「ごめん、生まれ変わってないよ」

「今赤ちゃんだと三十五くらい年下になるんだよね」

「そうだね。でもまだ生まれ変わってないから」

「私、ミィに気付けるかな?」

「……気付けない方がいいかもしれないよ。だけど私はナオに気付きたいな」

「あー、でもやっぱりまた同じ年がいいなぁ」

「そうだね」

「それでね、もう一度ミィに出会って、もう一度ミィを好きになるの」

「ナオをいっぱい泣かせたのに、それでもいいの?」

「ミィも私を好きになってくれるかな?」

「好きになるよ。絶対に好きになる」

 私はポロポロと涙を落としながら答える。

 ナオは少しずつ泣かなくなったけれど、その分私が泣き虫になっていた。



 ナオが久しぶりにご飯を炊いた。

 一人分には少し多いように見えたけれど、ナオは気にせずにごはんをおひつに移す。

 お碗に水を入れて塩を皿に盛る。そしてそれらをちゃぶ台に並べた。

「もしかして、おにぎりを握るの?」

 ナオは腕まくりをして手を洗うとちゃぶ台の前に正座をした。そして濡れた手のひらに一つまみの塩と熱々のごはんを乗せるとギュッギュと拍子をとるようにしてごはんを握った。そうして出来上がったきれいな三角のおにぎりをお皿の上に置く。

 お皿を持ち上げると上からや横からじっくりとおにぎりを鑑賞してからヒョイと指でつまんでパクリと頬張った。

「うん、おいしい。ミィ、私の腕、まだ落ちてないみたい」

 ナオは満足そうに言いながらもうひとくちパクリと頬張る。

 お金を貯めていつか二人で食堂を開こうと話していた。

 そしてどんなお店にしたいかを語り合っていた。

 ナオが「気軽に入れるお店が良いな」というと、私は「お腹いっぱいになるお店がいいね」という。「やっぱりおいしくなくちゃね」「大人も子どもも好きなごはんって何だろうね」などと話しているうちに辿り着いたのが『おにぎり屋さん』だった。

「でもおにぎりなんて家でつくれるから売れないんじゃない?」

 と私が問えば

「家でつくれないようなおいしいおにぎりにすればいいんだよ」

 とナオが答えた。

「おいしいおにぎりだと、おいしい具を入れればいいのかな?」

「おにぎりの具といえば、梅干しでしょう、こんぶの佃煮、しぐれっていうのもいいよね」

「でもそれって普通じゃない?」

「じゃあ卵焼きは?」

「卵焼きなんて入れられるの?」

 そんな話をするのが楽しかった。

 あるときおにぎりを作る練習をしようという話になった。そしていつの間にか、どちらがおいしいおにぎりを握れるか勝負をすることになっていた。

 お互いに背を向けておにぎりを握り、せーので見せあったとき、私たちは目を丸くした。

「なんでナオのおにぎりは三角なの?」

「おにぎりって三角だよね? ミィのこれ……俵型?」

「どうして三角になるの? 普通にこうして握ったら俵のかたちになるでしょう?」

「ならないよ。私だって普通に握ったんだもん。三角の方が普通じゃないの?」

 私たちは首をひねった。

「ねぇナオ、おむすびころりんって話知ってる?」

「もちろん知ってるけど、それが何?」

「三角のおにぎりだったら、転がっていかないでしょう?」

 私が真面目に言うと、ナオは手を叩いて大笑いした。

「本当だ、ミィ、頭いいね!」

「なにそれ、馬鹿にしてるの?」

 それから私たちは時間があるとおにぎりを作って、おいしいおにぎりの握り方や具材について研究を重ねていた。

 私がこの世を去っても、ナオはまだ二人で話した夢を忘れていなかった。



 お昼を少し過ぎたころ、ナオが鏡台の前に座って化粧をしていた。

 私は濃い化粧をするナオの顔があまり好きじゃなかった。

「ねぇナオ、引っ越そうよ」

 別人のように変わっていくナオの顔を鏡越しに眺めながら私は言う。だけど私の声はナオに届かない。

「ナオ、無理してこの長屋に住み続けることないよ」

 化粧を終えたナオが派手な服に着替えて家を出た。

 玄関先で田原の奥さんと顔を合わせる。

「こんにちは」

 ナオが明るく声を掛けると、田原の奥さんは少しだけ眉をひそめて、でもすぐにそれを隠して「ああ、こんにちは」と挨拶を返した。

 ナオは颯爽とした足取りで商店街を抜けて駅裏に進む。駅裏は飲み屋街になっていた。

 食堂を辞めたナオはスナックで夕方から深夜まで働くようになっていた。

 食堂で働くよりもずっとたくさんのお給金をもらえるらしい。

 二人で貯めたお金の多くは私が実家に送金してしまった。残ったお金も私の病院代に使ってしまった。

 私の実家からは一円も出さなかったようだ。

 この長屋の家賃は、二人で働いていたならば安かったと思う。だけど女が一人で払い続けるのは辛いと思う。それなのにナオはあの長屋に住み続けている。

 スナックの扉の前でナオが足を止めた。

「心配しないで。大丈夫だよ」

 それはナオの儀式のようなものだった。

「ミィがいつ帰ってきてもいいように、私はずっとあそこにいるから。おにぎり屋さんも開く。そのためならどれだけでもがんばれるよ」

 呪文を唱え終えたナオはスナックの扉を開ける。

 酒とタバコの臭いが充満する狭い店で、ナオは笑顔を武器にして戦っていた。



「どうしたんですか?」

 ナオが田原の奥さんに話しかける。

「あー、ウチのチビが拾ってきちゃったんだけど、ウチでは飼えないからねぇ」

 覗き込むと田原の奥さんの足元には小さな黒猫がいた。人間に取り囲まれて恐れているのか少し震えているようだった。

「あの、ウチで飼ってもいいですか?」

 ナオが言う。

「もちろんいいけど……。あんた一人なのに世話は大丈夫なのかい?」

「はい」

 ナオはそう答えてから、猫を拾ってきた田原さんの子どもに声を掛けた。

「だけどどうしても大変なときは助けてね」

 そうしてナオの一人暮らしは終わった。

 猫を飼っている人に飼い方を聞いて、仕事の時間以外はせっせと猫の世話をした。

「ミィ」

 そう呼ばれて私が振り向くと、猫も一緒に振り向いた。なんだか私の名前を取られたみたいで悔しいと思ったけれど、ナオの寂しさが埋まるのだから我慢しよう。そうして私は小さな同居人を歓迎した。

 猫のミィが私の足元にすり寄ろうとしてよろけていた。何度も足元にまとわりついてはよろけて「どうして触れないの?」というように私を見上げた。

「ミィ、どうしたの?」

 すっかり子猫をミィと呼ぶようになったナオは何もない場所でコロコロと転がる子猫に声を掛けた。

 私はしゃがんで猫のミィの頭に手をかざす。触ることができないのに、猫のミィは嬉しそうにゴロゴロの喉を鳴らした。

「お前には私が見えるんだね」

 そうつぶやくと「ミー」と返事をするように鳴く。

 ナオは機嫌よく宙を見つめる猫のミィを見て何かを考えているようだった。

「この間、お客さんが犬や猫には幽霊が見えるって言ってたんだけど……もしかして、ミィにも見えるの?」

 ナオの顔から血の気が引いていく。

「ミィ、もしかしてミィがそこにいるの?」

 ナオが猫のミィを問い詰めるように言うと驚いてパッと逃げてしまった。

「そんなわけないか……」

 ナオは肩を落とした。

「驚かせてごめんね」

 やさしい声でナオが言うと、猫のミィは様子を伺うようにしてゆっくりとナオの側に歩み寄りその膝の上に乗った。

 ナオが猫のミィの首を撫でると目を細めてゴロゴロの喉を鳴らす。

「もしもミィがいるなら、私に会いに来てくれるはずだもんね。ミィがいなくなってから何年たつんだろう……。一度も会いに来てくれないなんて、ミィは冷たいよね」

 そうしてナオは猫のミィを見つめた。

「ミィはいなくならないでね」

 ゴロゴロと喉を鳴らしてゆっくりと尻尾を振る猫のミィを見て、私の役目が終わったことを知った。

 私はナオの側に膝をついてナオを抱きしめる。そして頬に触れて口づけをした。猫のミィが不思議そうな顔をしてナオの膝の上から私を見上げている。

 私は猫のミィの頭に手を置いた。

「これからはお前がナオの側にいてあげてね。頼んだよ」

 猫のミィは「ミー」と鳴いた。

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