4.衝動

 私は薄暗い工場の中にいた。ガシャンガシャンと大きな音が鳴り続け、大声で叫んでも隣にいる人の声さえ聞こえない。

 ああ、またあの夢だ。頭の隅でそんなことを思いながら、私は『都』の姿になった。

 工場は早朝から夜遅くまで稼働していて、二交代制で勤務している。早番のときは朝四時には起床しなくてはいけないけれど昼過ぎには仕事が終わるので、一日が長くなったような気がして少し得した気分になれた。

 交代時間を告げるサイレンが鳴り、私は作業を止めて工場の外に出た。外の風は肌をさすように冷たかったけれど、工場内の淀んだ空気から解放されて心地良く感じる。

 私はグーっと両手を突き上げて背伸びをした。

「んー」

 隣を見ると、ナオも同じように気持ちよさそうに背筋を伸ばしていた。目が合うとどちらからともなくクスクスと笑い声があがる。

 同室のナオとは勤務の班も同じで二十四時間一緒に過ごしていた。

 初対面のときは、ナオの距離の詰め方に戸惑ったけれど、今では側にナオがいないと落ち着かない。

 同僚たちは私たちを見て「双子みたい」とよくからかった。

 本来学校に通うはずだった年頃は、戦中戦後で混乱していてろくに勉強もできなかった。私の家は田舎だったから空襲の被害はなかったけれど、都会はどこも壊滅的だという話は伝え聞いていた。

 ナオの家の近くの街は空襲の被害にあったそうで、ナオも防空壕の中で震えていたと聞いた。今でも夜中に空襲警報の恐ろしさが蘇って、ナオと手をつないで眠ることもある。

 私たちの村には空襲とは別の問題があった。戦争中は男手がなく、女たちも各所の工場に駆り出されていたためろくに畑仕事ができなかった。

 家族が生活するために必要な作物も都会から食料を求めてやってきた人たちに盗まれてしまうこともあった。

 戦争が終わって徐々に平穏を取り戻していったけれど、食糧はいつも不足していた。出兵していた兄が傷を負いながらも無事に帰ってきたのは喜ばしいことだったけれど、ますます食糧が不足した。

 兄は嫁をめとりすぐに子どもが生まれた。どれもうれしいことなのに、明日の食事をどうすればいいのか考えるだけで暗い気持ちになった。

 農作業に精を出してもすぐに作物が実るわけではないし、日照りや長雨で思ったように収穫できないことも多かった。

 私が十六になった年、嫁ぎ先を探そうという話になった。兄はこの家を継ぐ。だから兄の嫁や子どもを外に出すことはできない。妹はまだ十歳にも満たない。食い扶持を減らすためには私を家から出すしかない。そう判断する気持ちは理解できた。

 近所に住んでいた二つ年上の女の子もそうして隣の村に嫁いでいった。だから私もそうするしかないのだと覚悟をしていた。

 そんなとき戦時中、疎開してこの村に来ていた瀬尾さんから手紙が届いた。足が悪くて出兵できなかった三十代の男性で、食糧を分けてもらう代わりにと集会場に子どもたちを集めて読み書きを教えてくれていた人だ。

 父と瀬尾さんはかなり馬が合ったようでときどき我が家に招いて僅かながらの料理を囲んで語り合っていた。

 瀬尾さんが戻った街に新しい紡績工場ができて、その工場を手伝っているという近況が書かれていた。そして人手が不足していて女工を集めているのだと記されていた。

 私はその話に飛びついた。女が家を出て働くなんてと父は渋っていたが、少しずつでもお給金から仕送りをするからと約束してなんとか承諾を得られた。

 そこからの話は早かった。

 私を働きに出したいと父が返事を送ると、瀬尾さんからすぐに迎えに行くと電報が届いた。

 三日後には瀬尾さんがやってきて、紡績工場での仕事の内容や寮に住めるから安心していいという話をしてくれた。瀬尾さんはいくらかの支度金を両親に渡したようだ。その内からわずかな額を私も小遣いだと受け取った。

 私は風呂敷包みをひとつ抱えてその翌日には家を出た。

 母は最後まで「仕事なんてして苦労しなくても、いい家に嫁に行けばよかったに」と言っていたけれど、私は笑顔でそれを聞き流して手を振った。

 はじめて乗る列車に最初はワクワクしていたけれど、故郷を離れるごとに不安が増していった。

「緊張してるのかい? 大丈夫だよ。向こうには都ちゃんと同じくらいの年の子がいっぱいいるから。すぐに仲良くなれるよ」

 瀬尾さんはそう言って笑顔を浮かべていた。

 到着した駅には村のお祭でも見たことがないほどの人であふれていた。

「お祭ですか?」

 そう聞いた私に瀬尾さんはカラカラと笑い声を立てる。

「これが普通だよ。すぐに慣れるさ」

 そうして杖を鳴らしながら歩く瀬尾さんの後ろについて歩いた。

 瀬尾さんは事務の仕事をしているらしく、工場で勤務するようになってからほとんど顔を合わせていない。

 はじめての仕事になかなか慣れることができず、工場長にいつも怒鳴られていたけれど、同室になったナオが励ましてくれたおかげでなんとかやってこられた。

 ナオは犬のようなまん丸い目をしているのに、笑うと弓のように細くなる。そんなナオの笑顔を見ているだけで元気になれた。

 そうして二年以上がたった今も、ナオははじめて顔を合わせたときと同じように笑顔を浮かべて私の側にいてくれる。

 ナオがいなかったらきっと一週間で音を上げてしまったんじゃないかと思う。

「今日はどうする?」

「明日から遅番だから朝はゆっくりできるし、ちょっと街に遊びに行かない?」

 私が提案するとナオは「そうしよう!」とすぐに賛同してくれた。

 街に出ても私たちには買い物をするお金なんてほとんどない。お給金から家への仕送りと寮費、まかない代を引いたら手元に残るお金はわずかだ。

 それでも街に出るのは好きだった。

 活気のある街で目新しいものを見るだけでワクワクした。

 モダンな服を着てきれいに化粧をしている女の人を見ては「私にも似合うかな?」「お金をためて二人であんな服をきて出掛けようよ」などと話すのも楽しかった。

「今日は古本屋さんに行こうか」

 ナオの言葉に頷いて私たちは行きつけの古本屋に向かった。

 無駄遣いはしないけれど、月に一度、古本屋で本を買うようにしている。最初に本を買おうと言い出したのはナオだった。

「これからの時代は女も知識を付けなきゃだめだよ」

 ナオはしたり顔で言う。

「なにそれ?」

「使えるお金は少ないけど、古本なら買えるでしょう? 一人一冊買って交換して読めば、一冊分のお金で二冊読めるよ」

「でも難しい本なんて読めないよ」

「別に難しい本じゃなくてもいいんだよ。どんな本でも読んでいれば漢字を覚えたり言葉を覚えたりできるでしょう? それに私たちが知らない世界のことも教えてくれる。たとえば面白い珍道中のお話でも、それを読めば旅に行かなくてもその土地のことがわかるでしょう?」

「そんなのでいいの?」

 少し興味がわいてナオに尋ねると、ナオは目を弓型にして「うん」と頷いた。

「小さな本の中に世界が詰まっているんだよ。本を読めばお姫様にだって怪人にだってなれるし、どんなところにだって行けるんだよ」

 ナオは両手を広げて世界の広さを示してみせた。

 それから毎月一冊ずつ本を買い、すでに二十六冊の本を買った。ナオが買ったものを含めると五十二冊の本を読んだことになる。

 面白かった本は繰り返し読んで、読まなくなった本は古本屋に再び売りに出した。

 二人で読んだ本の話をして、空想の旅をするのも楽しい。

 ナオはいつでも私に素敵な世界を見せてくれた。

 街の散策に夢中になり過ぎて、少しだけ寮に帰るのが遅くなってしまった。私とナオは手を繋いで寮まで走る。なんとか夕食の時間に間に合った。

 玄関で靴を脱いでいると寮母さんから「おかえり、遅かったね」と声を掛けられた。

「ただいまもどりました。街で本を買ってきたんです」

 ナオはそう言って買ったばかりの本をうれしそうに寮母さんに見せた。

「勉強熱心だねぇ。アタシは活字を読むだけで眠たくなっちゃうよ」

 寮母さんはそう言って豪快に笑った。

 部屋に戻ろうとすると寮母さんが「古河さんに手紙が届いてたよ」といって封書を手渡した。

「ありがとうござます」

 ナオは封書を受け取って裏書きを確認した。

 部屋に戻りながら「ご実家から?」と尋ねると、ナオは「うん」と頷いた。

 それから食堂で夕食を食べて部屋に戻った。私は買ったばかりの本を読み、ナオは実家から届いた手紙を読んだ。

 手紙を読み終えたナオがフウとため息をつく。

「どうしたの? 仕送りを増やしてほしいとか?」

 先日私がそんな手紙を受け取ったばかりだった。ナオは小さく首を横に振った。

「私、結婚するみたい」

「え?」

 私は読みかけの本を置いて身を乗り出した。

「結婚って、そんな急に」

「私も驚いているんだけど……」

 私たちはもう十九歳だ。結婚の話がいつ出てもおかしくない年ごろになった。私だってあのまま田舎にいたら、もう結婚をして子どもだって生んでいただろう。

「そっか、そうなんだ……おめでとう……なのかな?」

 私が無理やり言葉を探して紡ぐと、ナオは困ったような笑みを浮かべた。

「私もついに結婚かぁー。顔も知らない人と結婚するなんて嫌だな」

 ナオはそう言うと大の字になって寝転がった。

 私はそんなナオを見つめるだけで何も言えなかった。

 私は何事もなかったかのように読書に戻ったけれど、どれだけ目が文字を追っても頭に入っていかなかった。

 頭の中に渦巻くのは「ナオが結婚してしまう」「ナオがここを出て行く」「もうナオと一緒にいられない」そんな言葉ばかりだった。

 それから夜も眠れなくなった。ナオが隣にいない部屋を思い浮かべるだけで胸が苦しくて泣きたくなる。

 隣を見ればナオが穏やかな顔で寝息を立てていた。手を伸ばせば触れられる場所にナオいる。だけど目を閉じるとナオがすぐにも消えてしまうような気がして怖かった。

 食事をしていても何の味も感じなくなった。無理やりに喉の奥に押し込んでもすぐに吐いてしまう。ナオは「どうしたの? 体調がわるい?」と心配そうにのぞきこんだけれど「大丈夫」と言って笑うしかなかった。

 風邪を引いたわけじゃない。どうして食事が食べられなくなったのか自分でもよくわからなかった。

 そんな状態だったから、仕事でも何度もヘマをして工場長に怒鳴られてしまった。そのたびにナオが一緒に謝って仕事を助けてくれた。結婚をしたらもうナオがこうして助けてくれることもなくなるのだと思うと胸が押しつぶされそうだった。

 そんな日々が一週間ほど続いたある日、私はついに倒れてしまったらしい。気が付くと寮の部屋に寝かされていた。

「ナオ?」

 声を掛けるとナオが振り向いて布団の側に寄って私の顔を覗き込んだ。

「ミィ、大丈夫?」

「えっと、私……」

「仕事中に倒れたんだよ。少し頭を打って血も出てた。痛くない?」

 そう言われて額に手を当てると大きなガーゼが貼られていた。

「心配させてごめん」

 私はゆっくりと体を起こす。

「最近、全然ご飯たべてなかったでしょう? 駄目だよ、ちゃんと食べなきゃ。おかゆつくったんだけど、食べられる?」

 ちゃぶ台の上には小さな土鍋が置いてある。

「わざわざ寮母さんに作ってもらったの?」

「私が作ったんだよ。もう冷えちゃってるけど……」

「食べる」

 私はちゃぶ台まで移動して土鍋の蓋を開けた。冷えたおかゆをれんげですくって口に運ぶ。ナオはまだ心配そうな顔で私を見ていた。

「おいしい。すごくおいしい」

「普通のおかゆだよ」

 そう言いながらもナオは嬉しそうに目を細めた。

 私がおかゆを食べ終えるのを見届けるとナオはペンを手に取った。

「何してるの?」

「手紙を書いてるの。この間の手紙に返事をしてなかったから、催促の手紙が届いて……」

 いよいよナオがいなくなる。目の前が真っ暗になった。この工場での仕事をめげずに続けてこられたのはナオがいたからだ。ナオがいなくなったら、私はきっともうがんばることができない。

 結婚しないでほしい。ずっと側にいてほしい。そう言いたいけれど、そんな我儘が許されるなんて思えなかった。

「あのね、ミィ。私が結婚したら……」

 ナオが手紙を書きながらポツリと話はじめた。

 だけど私はその言葉の続きを聞きたくないと思った。部屋の外に出ようと立ち上がったとき、クラリとめまいがしてふらついてしまう。

「ミィ」

 ナオはペンを放り出して倒れかける私を支えてくれた。立膝をついたような状態で私はナオに抱きかかえられる。

 顔をうずめたナオの首すじから汗の匂いがした。工場のホコリの匂いもする。そしてその奥から甘いはちみつのような匂いがした。私は両腕に力を込めてナオを抱きしめてナオの香に身をうずめた。ナオの香が一層強くなる。

「ミィ、どうしたの?」

 耳のすぐそばでナオの声がした。頭の奥が痺れて何を考えていいのかわからなくなった。だた体の奥からマグマのような熱が溢れてきて体が燃えてしまいそうだった。

「離れたくない」

 かすれた声で私は言う。

「ミィ?」

 私はやおら体を離すとナオの仔犬のような瞳を見つめた。

「ナオが好き」

 頭の中は真っ白だった。何も考えていないのにその言葉だけが勝手に口から出ていた。

「ナオが好き」

 言葉が落ちる度に自分の感情が腑に落ちていく。私はナオが好きだ。友だちとしてではなく、ナオを愛しているんだ。ナオを離したくない。

 ナオへの想いを確信したら、私はもう体の中に溢れる熱を抑えることができなかった。

 そのままナオを押し倒して乱暴に口を吸った。

 自分が何をしているのかよくわからなかった。ただきっといけないことをしているのだろうと思った。それでも止めることができない。頭が、心が、身体がナオを求めていた。

 ナオは少しの間、私を押し返そうとしていたけれど、次第にその腕の力を緩めいった。

 そして、求めるように私の背中に腕を回した。

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