2.最期

「ミィ」

 私を呼ぶ声がする。

「ミィ」

 私は声のする方を見ようとしたけれど体が上手く動かない。

「ミィ」

 私のことを「ミィ」と呼ぶのは一人だけだ。はじめてそう呼ばれたのはいつだっただろう。

 そうだ。入寮したその日にそう呼ばれたんだった。

「同室の古河尚子(こがなおこ)です。私もここに来てまだ三カ月くらいなんだけど……わからないことがあったら何でも聞いてね」

 ナオは小ぶりだけどクリッとした仔犬のような目を弓型にして笑った。私はナオのそんな笑顔が好きだった。

「山野辺都(やまのべみやこ)です。よろしくお願いします」

 あのときの私はとても緊張していた。田舎から一人で知らない土地に出てきて、初対面の人と暮らしていくことが不安だった。

「都ちゃんね。んー、都ちゃん……ミィ。うん、今日からミィって呼ぶね」

 ナオの距離の詰め方に驚いたけれど不快ではなかった。

「ミィなんて、猫みたいじゃない?」

 私はそんな風に答えたと思う。

「いいじゃない、猫みたいでかわいいよ。よろしく、ミィ」

 私の意見など聞き入れるつもりはないというようにナオは満足そうな笑みを浮かべていた。

「でも、古河さん……」

 私がさらに反論しようとすると「それ!」と言って私を指さす。

「え? どれ?」

「古河さんって呼ぶの禁止。私がミィって呼ぶのに、ミィが古河さんって呼ぶなんておかしいでしょう?」

 私が「ミィ」と呼んでほしいと頼んだわけじゃないのにという不満を飲み込んで私は考えた。

「尚子さん?」

「駄目」

「んー、ナオ?」

「うん。そうしよう」

 ナオはようやく笑顔を取り戻した。

「よろしく、ナオ」

「よろしくね、ミィ」

 そうしてお互いの呼び名を決めたけれど、私は「ミィ」と呼ばれることになかなか慣れなかった。「やっぱり猫みたいだよ」とか「別の呼び方にしない?」と何度も提案したけれど、ナオは余計に面白がって私を「ミィ」と呼び続けた。

 だけどいつの間にか、ナオしか呼ばない「ミィ」という呼び名が特別に思えて大好きになった。ナオに「ミィ」と呼ばれる度に幸せだった。

「ミィ」

 悲しそうな声だ。

「ミィ、お願い。目を開けて」

 ナオの声に応えたい。私は接着剤で貼り付けられているようにピッタリとくっついて動かないまぶたを必死でこじ開けた。

 何とか目を開くことができたけど視界がぼやけている。

「ミィ、わかる? ミィ」

 私の横にぼんやりと人影が見えた。声はその人影が発している。ナオの顔が見たい。私は人影に目を凝らす。だけど視界はぼやけたままで姿を見ることができない。

 もどかしくて右手を上げた。だけど想像以上に腕が重たくて、ピクリと動くだけだった。

「なに? ミィ、何か言いたいことがあるの?」

 ナオが私の右手を取る。ナオの冷たい指の感触が伝わってきた。ナオは両手で私の右手を包み込む。ナオの冷たかった指にジワジワと温もりが宿っていく。

 ナオに伝えたいことがある。私は口を動かしたけれど息がこぼれるだけで言葉にならない。

「ミィ、苦しいの? どうしよう、私、どうしたらいい?」

 ナオが泣いている。

 ようやくぼやけた視界が定まってきた。私は大好きなナオの顔を見つめる。クリッとした目が泣きはらして半分くらいの大きさになっていた。その顔が可笑しくて笑いたいのに笑うことができない。

「ミィ」

 ナオ、もう泣かないで。私は苦しくないよ。強い鎮痛剤のおかげで痛みも全然ないよ。だけどごめん、うまく話せないの。私は心の中でナオに語りかける。

「ミィ、お願い、置いていかないで」

 私の手にナオの涙が落ちるのがわかった。

 ナオの頭を撫でてあげたい。ナオはゴワゴワで櫛もうまく通らない自分の髪が嫌いだと言って、私に撫でられるのも嫌がっていた。だけど私はナオの髪を撫でるのが好きだ。浮いてしまう髪を封じ込めるようにきっちりと結わうのを手伝うのも好きだった。

 強い意思を持っているようなナオの髪は、一度決めたら絶対に曲げないナオにそっくりだ。そんなナオ自身のような髪をやさしく撫でると私の手を受け入れるように少しだけ柔らかくなる瞬間がある。

 もう一度ナオの髪を撫でたい。だけど手を動かすこともできないから、私はナオの手をギュッと握り返した。力を込めたけれどうまく動かせたのかわからない。

「ミィ、お願い」

 ナオは祈るように私の手に口づけをした。やわらかくて温かいナオの唇が指に触れる。

 ナオのふっくらとした唇を指でなぞり、滑らかな頬に手を添えると、ナオは恥ずかしそうに目を細めて私を受け入れてくれた。もう一度そんな風にナオの肌に触れたい。

 ナオの肌はしっとりとしていて、手のひらを滑らせるとまるで磁石のようにピッタリと張り付いてしまう。離れがたいその感触にいつまでも酔いしれていると、ナオはやっぱり恥ずかしそうな瞳を私に向けて微笑むのだ。

 私はナオが好きだった。ナオの笑顔が好きだった。

 それなのに泣かせてしまってごめんね。心配をかけてごめんね。

 伝えたいことがたくさんある。だけど全部を伝える力も時間もなかった。

 私は大きく息を吸い、力を振り絞って唇を動かす。

「ナ、オ」

 私のかすれた声に気付いてナオが私の口もとに耳を寄せた。

「どうしたのミィ」

 汗が混じったナオの香に包まれて私は幸せな気持ちになった。

「ナ、オ、あい、して、る」

 最期に伝えたいかったのは「ごめん」でも「ありがとう」でもなかった。これは呪いの言葉なのかもしれない。それでもどうしても伝えたかった。

「ミィ、私も愛してるよ……だから……」

 ナオは泣きはらした顔を私に寄せて静かに、だけど力強く言った。

 最期に聞いたナオの言葉に、私は頷けただろうか。笑顔を返せただろうか。



 生まれ育った田舎の集落の端にある小さな集会場に人が集まっていた。

 集まっているのは同じ集落に住む人たちなのだと思う。だけど顔を見て名前がわかる人は数えるほどしかいない。

 集会場の入り口には黒と白の垂れ幕が掛かっていた。狭い我が家では葬儀を行うことができず、集会場を借りたのだろう。

 故郷を離れてから二十年近くたっていたけれど景色に代わり映えはない。

 この葬儀に集まった人たちも、近所だからという義理で参列しているだけで、私のことなんて覚えていないと思う。

 私はナオに見守られて息を引き取った。

 確かに私は死んだのだけど、気が付くとこの集会場の前に立っていた。

 病院での出来事が夢だったのではないかと思った。だけど私の横を通り過ぎる人たちは誰も私に気が付かない。触れようとしてもすり抜けてしまって触れることができないし、声を掛けても気付かれなかった。

 しばらく考えて、私は幽霊になってしまったのだと理解した。信じられない話だけど、実際にそうなのだからしょうがない。

 人には気付かれないけれど、犬に吠えられたり猫が驚いて逃げ出したりしたから、動物には幽霊が見えるという噂は本当なんだなと思った。

 一通り自分の状況の確認を終えてから、私は勇気を振り絞って集会場の中に入ることにした。

 自分の葬儀を見る気になれなかったのだけれど、父や母に挨拶もできなかったから一度は顔を見ておくべきだと決意した。

 集会場の奥には小さな祭壇があった。その真ん中には私の写真が飾ってある。

 その写真に見覚えがあった。社員旅行で写した集合写真だと思う。今から十年以上前の写真だ。

 写真を撮る習慣がなかったからそんな写真しかなかったのだろう。

 周囲が切り取られて私の顔だけになっていたけれど、正面を向いていなくて少しマヌケな顔をしていた。あのとき私はカメラではなくてナオを見ていた。ナオが隣に並んだ男性と仲良く話してるのが気になって、あんなマヌケな顔になってしまった。

 確かに写真をあまり撮ってこなかった。それでもナオに聞けば、このの写真よりはましな写真を用意できたはずだ。

 生きていれば文句のひとつも言えるんだけど、と思いながら祭壇の近くに立つ家族に目を向けた。

 父と母の顔には深いしわが刻まれていて、私の記憶よりも随分老けていた。二十年近く帰郷していないのだから当然かもしれない。

 その隣にいる女性が誰だか一瞬わからなかったのだけど、家を出たときにはまだ幼かった妹だと気が付いて感慨深い気持ちになった。

 兄は昔の父によく似ていた。私が家を出る少し前に嫁いできた義姉は、どっしりと落ち着いて『お嫁さん』じゃなくて『お母さん』という印象になっている。

 義姉に体を寄せて不安そうに辺りを見回しているのが三番目だか四番目だかの子どもだろう。元気そうな様子にホッとした。

 みんな神妙な顔で参列者にお礼を述べていた。

 母だけはボロボロと大粒の涙を流している。そんな母を労わるように父が肩に手を置いた。

 人の波が切れたころ、母がキッと祭壇を睨んだ。

「本当に、なんて子なんだい」

「おい……」

 父がなだめようとするが、母は堰を切ったように言葉を吐き出しはじめた。

「なんて親不孝な子だ。出て行ったっきり一度も帰ってこない。やっと帰ってきたと思ったらこんな……。親より早く逝くなんて本当に親不孝だよ!」

 母はこういう人だったと思い出した。

 性格がきつくて、口が悪くて、強がりで、だけど頼りになってやさしい人だった。

 たまには帰ってくるべきだったと反省するが、今更どうしようもない。帰郷するお金が無かったというのもあるが、それよりもどんな顔をして家族と会い、話せばよいのかわからなかった。それに帰郷する間、ナオを独りにするのも嫌だった。

 だからわずかな仕送りと近況を書いたおざなりの手紙を送るだけで済ませてきたのだ。

 私は母の前に立ち肩に手を伸ばしたけれど触れることができなかった。死んでから気が付くなんて遅すぎる。

 ふと参列者の中にナオの姿が無いことに気が付いた。ナオには仕事もあるだろうし、遠い田舎まで来るのは無理だったのかもしれない。

 もう一度ナオの姿が見られなかったことを残念に思ったけれど、ナオは病院でずっと付き添ってくれていたから無理もさせたくはない。そう思いながら入口に目をやるとナオが入ってきた。

 ナオの姿を見た途端、先ほどまでの気持ちは吹き飛んでうれしさが込み上げる。だけどすぐに跳ね上がった気持ちが急降下する。

 ナオはひどくやつれていた。顔色も悪い。歩く足もおぼつかないほどフラフラとしていた。寝食を忘れて私の看病をして、さらにこの田舎まで長旅をしてきたのだ。ナオの疲労の深さは考えなくてもわかる。

「ナオ、無理しないで」

 私は叫びながらナオに駆け寄ったけれど手を貸すこともできなかった。ナオは私に気付かないまま祭壇を見つめている。

「出て行って!」

 その声に驚いて私は振り向いた。母がナオに向かって叫んでいた。

「お願いします。都さんと別れをさせてください」

 ナオはか細い声で言う。だか母は聞く耳を持たず「今すぐ出て行って!」と叫ぶばかりだ。

 父も兄も妹も目を逸らして母を止めようとはしない。

「どうしてナオにそんなこと言うの!」

 ナオの前に立ち母に向かって言ったけれど私の声は誰にも届かない。私は無力だった。

 母はツカツカとナオに歩み寄って肩を押した。そんなに力を入れているようには見えなかったが、ナオはふらついて倒れてしまう。

「お母さん!」

 ナオを抱きしめたい。だけどナオに触れることができない。

「お願いします」

 ナオは地面に手をついて頭を下げる。

「都はあんたのせいで死んだんだ! どうしてここに来られるんだい!」

 冷たい目で母はナオを射抜く。

「ナオのせいじゃない! 全部私が悪かったの。ナオは何も悪くない!」

 どうしてこの声が届かないのだろう。どうして大切なナオを守れないのだろう。どうして私は死んでしまったのだろう。

「すみません。すみません。いくらでも責めは負います。だけど今日だけは、都さんにお別れを言わせてください。お願いします」

 ナオは母に土下座をしていた。

「ナオが謝ることなんて何もないのに……」

 自分の無力さに私は泣くことさえできなかった。

「あんたの顔なんて見たくない! 出てって! 早く出て行って!」

 母は半狂乱になって叫ぶ。それでもナオは泣きながら頭を下げ続けていた。

 母の脇を抜けて妹がナオの側に屈んで肩に手を置く。そしてナオの耳元で何かを伝えて立ち上がらせると、ナオの肩を抱いて集会場から出て行った。

 私はナオと妹の後を追った。

「尚子さん、母がひどいことを言ってすみません」

 妹が落ち着いた口調で言う。私が覚えている幼い妹の姿はもうない。

「尚子さんのお気持ちはわかりますが帰ってください。ここまでお越しいただいたのに、申し訳ありません」

 そうして妹は深々と頭を下げた。妹が母と同じ気持ちなのだと思うと悲しくなった。どうして私の家族はナオを責めるのだろう。

 だが妹の話は終わっていなかった。

「母だって本当はわかっているんです。だけどあまりに突然で……。誰かを責めずにはいられないんだと思います。最期まで姉によくしていただいて本当に感謝しています。だけど今日は……すみません」

 そうしてもう一度頭を下げると、妹はナオを残して集会場の中へと戻って行った。

 ナオは集会場の外から祭壇のある方向に向かって両手を合わせた。

 私は触れられない体でナオを抱きしめた。

「ミィ」

 名前を呼ばれて私のことが見えたのかと思ってナオを見つめた。だけどナオの目は私を通り越して集会場を見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る