転移編

【一人目】

 照準器スコープの向こうに見えた白兎は、すでに満身創痍の状態だった。

 なんというか、可愛くない兎である。長い耳には棘が生えて、瞳は充血し、前歯は凶悪なまでに長く尖っている。あの牙で一体何人が犠牲になったか、数えることすらできない。

 しかし白兎はまだ動ける状態だった。満身創痍でも、その身がボロボロになっても、命が尽き果てるまで生きているものを殺さんとばかりに鋭い視線を寄越してくる。――あれだけ痛めつけて、まだ動ける余力を残しているとは驚きだ。


「やーれやれ。あんなガッツのある兎さんは、食らうのも大変そうだなっと」


 冷たい銃把じゅうはに頬を寄せて、引き金に指をかけたくすんだ金髪の男は飄々とした口調で言う。冗談めいた彼の言葉に応じる相手はなく、ただ男の独り言がやたらと大きく荒野に落ちる。

 白い毛皮を己の血で赤く染めた白兎は、長く鋭い牙を剥き出しにして、照準器越しに男を睨みつけた。男を殺そうとして白兎が走ってくるが、照準器に捉えられた時点で相手の絶命は確定していた。

 何故なら彼我の距離は、およそ一〇キロは離れているのだから。どんなに動けるほどの体力を残していても、あんなにボロボロの状態で一〇キロの距離を瞬きの間に詰めるという芸当は、どんな化け物でもできやしない。


「スリーピー、貫け」


 男の相棒たる白銀の狙撃銃に呼びかけて、一思いに引き金を引く。

 タァン、という甲高い銃声は分厚い灰色の雲が覆う空に響き渡り、銃口から放たれた銀色の弾丸が、寸分の狂いもなく白兎の眉間に吸い込まれた。

 白兎は断末魔を上げて、その身を横たわらせる。静かに眉間から血を流していた白兎だが、やがてその全身がドロリと融解してしまう。黒い汚泥が赤い鮮血と混じり合って得体の知れない海を荒野に広げて、遠く離れているのに異臭が男の元まで届いてきそうだった。

 僅かに顔を顰めた男は耳に嵌め込んだ無線の電源を入れて、仲間と連絡を取り合う。


「こちら【眠り姫スリーピングビューティ】だ。標的の撃破した」

『ご苦労。帰投を許可する』


 耳に滑り込んできた氷よりも冷たい上官の声に、男は思わず身震いをする。付き合いは長いのだが、いまだに上官の氷像めいた美貌と絶対零度の声には慣れない。なにもしていないのに怒られているような気がしてならない。

 男は無線の電源を落として、砂色の外套からスキットルを引っ張り出した。錆びついた蓋を開いて、その中身を呷る。焼けつくような味が胃の腑へと落ちていき、男は堪らず「くぅッ」と唸る。


「やっぱ仕事終わりの酒は最高だなぁ。――っとと」


 目の前が唐突に歪み、男は額を押さえる。

 アルコール度数の強い酒を一口飲んだだけで酔いが回るとは考えたくないが、何故だかものすごく眠い。荒野のど真ん中だというのに、今すぐ眠ってしまいそうな勢いだ。


「あー、くそ。だから、せいぜい半日ってぐらいか……」


 霞む視界で足元を見やると、銀色の薬莢が二つほど転がっていた。男が二発撃ったということを如実に示している。

 狙撃をすることはいいし、後方支援が本職であることも受け入れているし、仲間の助けになるなら二発でも三発でもいくらでも撃ってやるのだが、いかんせん撃てば撃つほど眠くなってしまうのだ。嫌な性質である。

 ずっしりとした重みを伝えてくる白銀の狙撃銃をなんとか両手で抱えて、男は足を引きずりながら帰投地点まで歩く。迎えなどという気の利いたものはない。自力で歩かなければ、化け物どもの餌になるだけだ。


「ん。んー?」


 男は眉根を寄せる。

 耳に嵌め込んだ無線が、唐突のジジ、ジジと雑音を拾い始めたのだ。誰かが通信してきているのだろうかと、男は無線の電源を入れる。


「こちら【眠り姫】だ。お前さんは誰だ?」

『……ジジ、ザザザ。――ジジ、ザザザジジジジ、しあ、ザザザ、とーる、でザザジジガリガリガリ!!』


 酷い雑音だ。

 しかし、かすかに拾うことができた言葉の中に、人物名があったような気がした。

 ユーシア・レゾナントール。

 それは紛れもなく、男の名前だった。


「救助要請かぁ? 誰かがヘマでもやらかしたか」


 とりあえず、救助要請であるなら応じなければならない。ただでさえ男の同僚は人数が少ないのだ。限られた人数の中で、数多の敵を相手するのは少々酷なのだ。

 やれやれと肩を竦めた男だが、次の瞬間、くらりと目の前が歪んで立つことすらままならなくなる。堪らず膝をついた男は、抱えていた相棒の狙撃銃すらも取り落としてしまう。


「なん、これ……」


 ただの眠気ではない。まるでなにか、魔法にかけられたかのような。

 重くなっていく意識に抗うことができず、男は――ユーシア・レゾナントールは、ついに意識を手放した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る