第6話 おいでませ樹の里

 激しく体を揺られながら、振り落とされないように必死になって背鰭にしがみつく一時間だった。


「到着。お疲れ様、スズネ」


 前方にいたヨルからそんな声が飛んできた。スズネは、水のサメによる高速移動にすっかり参ってしまい、途中から現実逃避の如く目を瞑っていた。そう言われれば頬を殴っていた風が止まったように思える。しかし、脳内が物理的にかき混ぜられたような心地の悪い余韻が鮮明に残っているおかげで、現在サメが進んでいるのか止まっているのかなど、スズネには最早判断がつかない領域のことだった。

 腹の奥から何かが込み上げている感覚がする。目を回したスズネは、サメから滑り落ちるようにしながら地面に足の裏をつけた。――はずなのに、まだ宙に浮いているような感覚が消えない。

 よろよろと体を左右に揺らしながら、スズネはそっと瞼を開ける。一時間と少しの間――途中からは景色どころではなかったので、実際見ていた時間はそれよりも少ないが――スズネ達を囲んでいた平原は何処へやら、周囲は再び、鬱蒼と茂る木々に囲まれていた。

 スズネが目覚めた森と決定的に違うのは、どの木々も、あの森で見掛けた木より遥かに巨大なことである。あの森の木の高さは、恐らく二十メートルくらいだったと思うが、ここの木は太さも高さもその倍はある。そんな巨木が所狭しと肩を並べ合い、密集している。

 それでも温かな日差しが三人の元に届くのは、木々が円を描くように並んでいたからだ。スズネ達が立っているのは円の中央であり、そこだけは周囲の密度に反して視界が開けた広場になっている。

 眼前には、木々に守られるようにして聳え立つ建造物がある。周囲が深緑の中で、その建造物だけは目が冴えるような赤に彩られていた。二本の柱の上に、また細長い木材が積んである。一番上の木材は二本の柱に支えられて太々しく横たわっており、その下に添えられた少し細い木材は二本の柱に突き刺さるようにして固定されている。

 鳥もサメも、一般的な建築物も思い浮かべることができるスズネの知識の中に、このような奇妙な建造物の姿はない。

 精霊のことといい、この建造物といい、唯一備わっている知識にすら、ある程度の空白があるようだ。それを自覚しながら、スズネは周囲を見渡す。

 その妙な建造物以外は何もない、ただの広場と森だ。里というには条件が不十分すぎる光景に、スズネは言葉を失った。


「これ、鳥居っていうんだ」

「……とり、い?」

「うん。聞いたことない?」


 ヨルはこの建造物に対して違和感を覚えていないらしい。本当にこの場所で合っているのか、と不安になったスズネが眉尻を下げると、それを安心させるような笑みを浮かべてヨルが頷く。


「シンヤも同じ反応してたよ。この鳥居っていうのは樹の里独特の建造物らしいから、他の里では一般的ではないんだって。キミが知らなくても可笑しくないと思うよ」


 少なからずキミは樹の里出身ではないみたい、と付け足して、ヨルはその場で手招きをした。


「おいで。里を案内するから」

「ここに、里が?」

「ちょっと特殊な入り口なんだよ」


 そう言われては抗いようもない。そもそも、ヨルの声は抗う必要を全く感じさせないほど優しい。

 ふらつく足取りで大人しく歩み寄ったスズネに、ヨルが静かに手を伸ばす。どうぞ、と言わんばかりに差し出された手に、スズネは何度も瞬きを繰り返した。思わずヨルの顔を見返せば、ヨルは不思議そうに小首を傾げている。その後ろで、眉間に深く皺を寄せたシンヤがヨルの手をがっしりと握っていた。

 あれだけ言い合っていたのに、どうして手を繋いでいるのだろう。滲んだ困惑に言葉を奪われたスズネの様子を見て、ヨルは漸く納得がいったように「ああ」と口を開いた。


「僕に触れてないと入れないんだ、ここ」

「……そんなことあります?」

「大精霊の結界が張ってあるからね。後でまとめて説明するよ」


 また新しい単語が出てきた。戸惑いを先回りして受け止めたヨルの言葉に、スズネは小さく頷く。そして、ヨルの手の平に控えめに手を重ねた。

 シンヤとスズネの手を引いたヨルは、そのまま鳥居の真ん中を潜る。鳥居の真下に足を踏み入れた途端、周囲の景色は突如として変わりだす。太い木の幹がぐにゃりと曲がり、陽炎のようにのように揺らめく。まるで世界がその一点に収束するような、奇怪な感覚が全身を巡った。

 森林の深緑が、鳥居の赤が、シンヤの黒が、ヨルの肌色が、混じる。上と下が一瞬分からなくなるような浮遊感が、スズネの腹部を強襲した。サメでの移動など目ではない、立っているのが困難なほどの眩暈がする。

 全ての色が混じり合って視界が白く染まった次の瞬間、スズネは、再び深緑の中に立っていた。

 目測で四十メートルほどの巨木は先ほどと変わらない。その中に存在する色鮮やかな鳥居は相変わらず目立っていたが、先ほどよりも異物感は薄れていた。

先ほどまで鳥居以外は何もなかった広場には、いくつもの建造物が現れていた。鳥居から真っ直ぐに敷かれた石畳の道を挟む様にして、木造の家が連なっている。道の先には一際大きな木造の屋敷が、荘厳な雰囲気を醸しながら三人を待ち構えるようにして建っていた。

 まさに、里と呼ぶに相応しい場所だった。そこかしこから談笑の声が漏れ、平穏な空気が漂っている。木造の建物で統一されているおかげで、とても柔らかく、温かい印象が持てる。


「ここが樹の里だよ、スズネ」

「す、すごい。本当に里だったんですね」

「そう、驚いたでしょ。……で、シンヤ。キミはいつまで手を握ってるの?」

「うるさい。握りたくて握ってるわけじゃない」


 スズネが忙しなくきょろきょろと周囲を見渡している横で、シンヤとヨルが火花を散らす。大人しく手を繋いでいる姿だけ見れば仲睦まじい友人だったのだが、やはりそうではないようだ。

 ヨルの手を投げ捨てるように離したシンヤを見て、スズネも慌てて手を離す。あくまで里に入るための触れ合いなので、いつまでも手を握っているのは失礼に当たるだろう。

 ヨルが「あ」と声を漏らすと同時に、スズネの鼓膜を、一層大きな声が揺らした。


「二人共、おかえり!」


 声の主は、石畳の道の道中に立っていた少女だった。黒髪のふわりとした髪の毛を肩の上で切り揃えている少女が、大きく手を振る。薄い桃色の瞳は鳥居を潜ってきた三人、正しくは、スズネの隣に並ぶヨルとシンヤを見据えて、無邪気に輝いていた。

 愛らしい少女は二人を見るなりスカートの裾を靡かせながら走り出した。その勢いは弾んだ声の調子にも負けない。造花とレースで彩られた可愛らしいヘアバンドの両脇から伸びた二本のリボンが、一歩進むごとにひらひらと揺れた。まるで少女の無垢さを象徴しているようである。

 こちらに駆け寄ってきた少女は、その勢いを保ったまま、鳥居の下に居るシンヤに飛びつく。突進と称せるほどの勢いがあったと思うが、シンヤは動じず、自分に抱き着いてきた少女の腰に素早く手を回して受け止めていた。

 スズネはぎょっと目を見開く。シンヤが笑っていた。ヨルに辛辣な態度をとり、スズネにはひたすらに無関心を突き通し、ずっと仏頂面だったシンヤが、酷く愛おしそうに笑っていた。


「ただいま、コハル。俺がいない間に何もなかった?」

「何もなかったよ。でも、シンヤくんがいなくて寂しかった」

「そっか。遅れてごめんね」

「シンヤくんは寂しくなかった?」

「寂しかったよ。君がいないと寂しい、当たり前でしょ」


 甘ったるい声による甘ったるい応酬は、何だかいけないものを見ている気になってくる。シンヤに対応するヨルと自分に対応するヨルは別人のようだ、とスズネは思っていたが、そんな変化が些細なものに見える。そのくらい、シンヤの態度は変わっている。

 目の錯覚かもしれない。そう思ってスズネは何度も目を擦ったが、目の前の光景は変わらなかった。


「この二人、いつもこうだからあんまり気にしないで」


 呆然とするスズネに、ヨルが呆れたように笑いながら説明する。気にするなと言われても気になるものだ。シンヤの対応の差は、露骨を通り越した露骨である。

 シンヤは手袋を外してコハルの頭を撫でていた。それに満足そうにすり寄る姿に何処となく人に懐いた小動物らしさを感じていると、ふとコハルと目が合う。それで漸くスズネの存在に気付いたらしい。コハルはぱちぱちと瞬きをして、それから愛想よく笑いかけた。


「こんにちは! 初めまして!」

「こ、こんにちは」

「私ね、コハルっていうんだ。貴女のお名前は?」

「スズネです。ええと、私、記憶喪失で」

「うん、二人が連れてくる精霊さんだからそうだよね。私も貴女と同じ記憶喪失の精霊なんだ。お互い大変だけど頑張ろうね」


 記憶喪失というのは恐ろしく大変且つ特殊な状況だと思うのだが、コハルはそれを感じさせない明るい笑顔でその事実を紹介してみせる。思えば、シンヤもヨルも、記憶喪失という単語を聞いても決して動揺した素振りを見せなかった。

記憶喪失だと知って、途方に暮れた自分の方が可笑しいのだろうか。そんな感覚を覚えて、スズネは肩を竦める。コハルは、スズネの戸惑いなどは大して気にもしていないようで、ただにこにこと笑うばかりだ。

 しかし次の瞬間、コハルはシンヤとヨルの二人に視線を向ける。ころりと変わった表情は気遣わしげだ。瞬きの間に次々と新しい表情が出るので、彼女は随分と表情豊かな女の子らしい。この数秒で、それがよく伝わってきた。

 眉尻を下げたコハルは、何処か心配そうな声音で言葉を紡ぐ。


「リンが心配してたんだよ、二人共。移動以外でマナを使ったみたいって、顔蒼くしてた」

「ああ、ちょっとね。スズネが悪い人達に絡まれてたから、少しだけ使ったよ。シンヤが。僕は使わなかったんだけど」

「ヨルの尻拭いをするためにね、仕方なく。本当は使わなくても倒せたんだけど」

「その情報いる? 嫌味ったらしい」

「俺がマナを使ったって情報を先に出したのは君だし、嫌味ったらしいのは君でしょ」


 コハルに事情を説明する合間にすら、シンヤとヨルは火花を散らせた。周囲の木々に燃え移らないか不安になる程の激しい火花を見たコハルが「喧嘩はやめなよ」と窘めると、二人は口を揃えて「だってコイツが」と言った。まるで打ち合わせでもしたかのように重なった互いの声に、真似をするなと言わんばかりに再び火花が散った時。

 水面に広がる波紋を思わせるような、酷く静かで落ち着いた声がその場に落ちた。


「おかえりなさいませ。ヨル様、シンヤ様」


 いつの間にそこに立っていたのだろう。四人の前に、一人の女性が深々と頭を下げて立っていた。地面に触れそうなほど長い一本の三つ編みが、女性の動作に合わせて揺らめく。黄金色の髪が光を浴びて美しく輝き、女性の不思議な魅力を引き出している。


「お二人共、ご無事で何よりでございます」

「ああ、ただいま。リン。記憶喪失の精霊を一人見つけたから保護してきたんだけど、大丈夫?」

「はい。すぐにお部屋を用意させます」


 ヨルの言葉に静々と応答した女性は、緩慢な動作で顔を上げる。萌黄色の大きな瞳に捉えられた瞬間、スズネは言葉にし難い何かを感じた。

 思わず呼吸を止めて背筋を伸ばす。女性は全てを見通すような不思議な眼差しを向けたまま、呟いた。


「私は樹の民の代表、リンで御座います。精霊様にお仕えするのが我々のお役目。何かあればお声掛けください。我々樹の民は、貴女を歓迎致します」

「わ、あ、あの、有難う、ございます。スズネです。お世話になります」


 そう言って、女性――リンは再び腰を直角に曲げてお辞儀をする。洗練された所作に釣られて頭を下げたスズネは、意味も分からず騒がしくなった心臓を誤魔化す様に、息を呑み込んだ。

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