第36話 支配者

 美しい川の中でしか生きてこなかった魚たちは、この現状をどう捉えるか。どぶ川に放り出されて、どぶ川を作り上げた元凶たちは、希望の光など降り注いでこない闇の中で彷徨い続けている。

 先の見えない現実で震える者、一縷の望みを捨てずに生きる者の差は、両極端に未来を変える。

「ほらあ、餌はちゃんと重さを測るんだよ。そのまんまあげたらダメ」

 シルヴィエの声により、鳥たちが一斉に騒ぎ出す。一羽の鳥が私に気づき、籠の中で元気に暴れている。誰かに似ていた。

「変わりないか?」

 私と共に未来を変えた一羽だ。籠の扉を開けてやると、頭上を飛び回り、私の肩に止まった。

「シルヴィエ、ひとまずこいつらを休憩させてくれ」

 大荷物を置き、労働をしていた人間たちに、怪我をしている者は前に出ろと声を張った。

「あなたは……」

「医者だ。擦り傷でもいい。薬がある」

 希望のない目にいくらか生が宿った。傷が癒えれば心も癒える。頼れる柱が亡くなった今、希望になるものを必死で探している目だ。

「この薬は?」

「身体に回った毒を解毒する作用がある。全員一錠ずつ飲め」

「毒を…………」

 男はがっくりとうなだれる。毒を作り、撒き散らした人間共は、この薬を前に何を思うのだろう。

「シルヴィエ、少し話がある」

一錠ずつ渡し、隣の部屋に移動した。シルヴィエが茶の準備をしている間、私も何か手伝おうと名乗り出るが、仕事が増えると叱られてしまった。

「この薬はシルヴィエに預けておく。人間たちに渡しても暴動の元だからな」

「処遇はどうするんだい?」

「意見が別れている。生かしておいてもまた我々が支配され、屈辱を味わわなければならない。処刑を望む声が圧倒的だ」

「アーサー先生は?」

「支配者は必ず生まれる。どの時代にも、どの国にも。千年の間に、私は数々の支配者を見てきた。支配を止める方法はない」

「なら、どうするのさ」

「あなたに頼みたい」

「私が?」

 願ってもない話、という顔ではない。冗談は止めてくれと、手を振った。

「支配者という言葉を用いたが、よろしくなかった。訂正する。私たちを導くリーダーとなってほしい」

「同じ意味じゃないのかい」

「違う。人間たちもあなたの指令を聞く姿を見て、確信が持てた。あなたの愛情は、きっと人間たちにも伝わっている。上から物を言う支配者は、この国には相応しくない」

「なぜアーサー先生はダメなんだい?」

 尤もな質問だ。

「平等に接することができないというのが、主な理由だ。私は息子のためなら、国を滅ぼしても何とも思わない。孤塔の地下には、サンプルとなった人間たちが多数眠りについていた。私が孤塔を破壊したことにより、本当の意味での眠りを与えてしまった。破壊兵器やアンドロイドを生み出す機関を打ち砕かなければ、何も変えられないと思ったからだ」

 非難されようが、私にとっては微々たるものだ。あるいは、医師として浴びせられてきた言葉の数々も含め、心が麻痺してしまっているのかもしれない。私の心は、氷よりも冷たい。熱を与えても溶けることはない。

「あなたに何もかも押しつけるつもりはない。私もタイラーも……凪も、側で支える」

「他のアンドロイドたちは納得しないよ」

「タイラーが話を通している。バーでの活躍も、見事なものだと聞いた」

 もしあの場に私やタイラーがいたのなら、間違いなく死者は出ていただろう。機転の利く彼女だからこそ、やり遂げられた。

「難しく考えてほしくはない。頼むよ、シルヴィエ」

「そうさね……考えるだけなら。言っておくけど、もしそうなったらビシバシ働かせるからね!」

「ああ、期待している」

 鳥部屋に戻ると、人間たちは楽しげに鳥と戯れていた。病んだ心には、動物や太陽の光がより良い効果をもたらすと文献で読んだことがある。見た目は私と何ら変わらない姿。けれど憎むべき敵。

「あの…………」

「なんだ?」

「薬を……その、ありがとうございました」

「…………また来る」

「…………はい!」

 憎悪の固まりどもは、嬉々としてはにかんだ。嬉しければ笑う。そこは凪と何も変わらない。

「ほら、お前ももう戻れ」

 共に戦い抜いた小鳥を戻そうとしても、私の肩に乗ったまま動こうとしない。無理に引き剥がそうとしても、手をつつかれる始末だ。

「先生、連れていったらいいよ」

「私が面倒を見ろと?」

「息子さんに世話をさせたらどうだい? 先生がいないときの話し相手になってくれるよ」

 黒目が私を向いている。何を考えているのか理解不能だが、籠に戻る気がないのは承知した。

 ぶら下がる籠を取り、私はハクの家を後にした。

 ハクのことを思い、ふと足が止まる。

 薬漬けにした彼女を冷凍保存した役割を、息子に任せてしまった。彼女を見殺しにしたという現実が襲いかかり、私は彼女の顔を直視できないでいた。最後まで息子を頼ってしまった。平気だと顔を腫らす彼を見ていると、いかに私は臆病者なのか思い知らされた。

「ただいま」

「おかえりー。おお……」

「土産だ」

 凪を見るなり、小鳥は私の肩から彼の肩へ移動する。意地でも籠には入ろうとしない。

「え? 土産?」

「育てられるか? お前が気に入ったみたいだ」

「よ、よかった……そういうことか」

「どういうことだ」

「食卓に上がるのかと思って」

 抗議をしているつもりなのか、小鳥は甲高い声で鳴いた。威嚇は私に向いている。なぜだ。

「よかったな、お前。ペットとして飼ってもいいんだって」

「骨と皮しかない。美味くはないだろう」

 私にくちばしを向けてきた。なんなのだ。

「ペットなら名前を決めてもいいかな」

「好きにしろ」

「じゃあアルネスからとって……アース」

「未来を夢見る若者らしい名前だな。オスでもメスでも良さそうだ」

「どっちなの?」

「さあ……卵を生めばメスだろう」

 ハクが残した命を少しでも救えたらと考えたが、凪にはとっておきの土産となったようだ。

 テーブルには、ミニチュアの人体模型と手術の本が多数置かれている。アンドロイドとしての物語は、終盤だと伝えてくれる。

「アンドロイドから人間になるという前例はない」

「ならアルネスが一番だな!」

「お前の前向きさは見習いたいものだ」

「ドイルさんにも、アルネスが手術している映像を見せたんだ。勘を取り戻したいんだって。みんな、アルネスのことが大好きなんだよ。アルネスのために何かできないかって、常に頭を働かせている」

「……………………」

「あっけど一番好きなのは俺だから!」

 小さな灯火が宿る感情は、愛しいという。

 凪の肩に触れると、彼は私を見上げてきた。背中に手を回すと、息子も私の背に手を置いた。

「骨が折れても、治りが早いんだな……」

「そうだな。こういう身体だ」

「アルネスが人になったら、ますます外を歩けなくなるよ」

「この世に生きる生物たちを信じている」

「どういうこと?」

 凪は顔を上げた。

「土の中から、毒を食べて生きる微生物が数種類見つかった」

「なにそれ……すごい」

 凪の目が潤み、私を抱きしめる力が強くなった。

「人間が壊したものは計り知れないが、小さくとも希望の灯火はまだある。何があっても、お前は諦めるな」

 凪の書き記すノートを手に取った。最初は書くこともやっとだったが、今では文字を思い出し、美しい字が知識という形で積み重なっていく。

 食事の準備は凪に任せ、今の今まで開かなかった禁断の扉を開けた。凍りつきそうなほど寒い。身体は震え、突き刺す寒気に限界を訴えるが、心臓付近のものは熱を出し、まだ大丈夫だと安心をもたらそうとする。この身体は寒さにも耐えられる。

「ハク…………」

 頑丈な扉の向こう側には、寒さをまとっても微笑み続けるハクがいる。

「ハク」

 もう一度、名を呼んだ。臆病な私を、あざ笑ったりしないだろうか。息子と会い、涙脆くなったせいか、頬が濡れて氷柱の瘡蓋ができた。

 彼女の気持ちに答えられたら、少しは浮かばれたのかもしれない。なのに、穏やかな顔で息を引き取るものだから、この世から消え去った今、彼女への想いが何倍も膨れ上がってしまった。それも夢にまで見るほどに。

「ハク、お前の分まで、私は生きたい」

 止まった心臓は動き出す。きっと、息子がやってくれる。

「誓おう。どうか、私の中で生きてくれ」

 遠くで私の名を呼ぶ声がする。立ち上がり、振り返りそうになる私をもう一度呼ぶ。

 廊下に出ると、ちょうど凪と出くわした。遠い昔に嗅いだ、暖かな花の香りがする。

「……あ、ご飯、できたぞ」

 妙に躊躇いがちな声だった。一度私を背にするが、再び彼は振り向き、親指でそっと頬を撫でる。心配しています、耐えられませんと顔中に書いてある。分かりやすい。

「ご飯だろう?」

「う、うん…………」

「行こう」

 すれ違い様に、凪は私の手首を掴んだ。

「俺はさ、アルネスに楽しい涙を流してほしい」

「楽しい涙……そんなものがあるのか」

「あるよ。がーっと笑って、止まらなくなる。腹がよじれるし、次の日は筋肉痛だ」

「生まれたときから、そのような笑いはした経験がない」

「いつか、俺が笑わせてみせるって。さあ、食おうぜ」

 テーブルにはシュガービーツが置かれていて、アースは一心不乱に私のものにくちばしで穴を開けている。

 私はずっと、平和な食卓を夢見ていた。

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