第35話 もしかして?

 しばらくすると、にこにこ微笑む若菜さんの隣には何やら顔を引き攣らせた安達が並んで戻ってきた。

 ひよりはあまりにも異なる二人の表情に戸惑いながらも、薄く微笑み返す。


「お待たせしました。ほうじ茶です」

「ひよりさん。これ、母直伝のお漬物なのよ。お茶のお供にどうぞ」

「ありがとうございます。では、いただきます」


 安達が入れたほうじ茶は思った以上にひよりの鼻腔を満足させた。一口飲むと、口の中が一掃されたように香ばしさと優しい甘味が広がる。


「このほうじ茶、美味しいです」

「それは、よかった」


 安達は褒められたにも関わらず、口元を軽くヒクつかせながらそう答えた。

 次に、ひよりは若菜さんがいう母直伝のお漬物をいただいた。大根を醤油で漬けてあるのか、コリコリとした歯応えとしょっぱ過ぎない味付けがとても気に入った。お漬物を食べた後にほうじ茶を飲むと、またお漬物が欲しくなった。


「若菜さん美味しい。止まらなくなっちゃいそう」

「あらよかった。塩分控えめでつけてあるからよかったら持って帰る? お弁当に入れても臭くならないわよ」

「なるほど! いただいていいですか」

「もちろんよ」


 一息ついたところで、安達夫妻はテーブルに作った料理を並べ始めた。ひよりが手伝おうと立ち上がると、何故か安達が大慌てな様子でやってきて、ソファーに座れと言う。しかも言葉ではなく、両手を肩まで上げてそのままゆっくり下げるという座れのジェスチャーだ。

 そんな夫を若菜さんはただ肩を揺らして笑って見ている。ひよりは安達の不自然なまでの気遣いに首を傾げた。


(え、なにがどうなったの? わたしもう大丈夫なんだけどな)


「あの、もう大丈夫ですから。お手伝いします」

「そう? じゃあお皿を運んでもらえる?」

「はい」


 ひよりは勝手知ったる安達家のリビングを無駄なく歩き、食器棚に手をかけた。洋食でも和食でも中華でも、何を載せてもおかしくない万能皿がそこにある。ひよりがそれに手を伸ばそうとした時だった。


「ああ、ひよりさん。その上の段は私が」

「えっ。ありがとう、ございます」


 突然、安達が後ろから皿を下ろしてしまう。そしてそれをひよりに両手で渡した。しっかり持って行くんだよと、それはまるで小さな子どもにするようだ。


「四季さんたら、わたしのときから成長してないのねぇ。仮にも看護官さんなのに」

「若菜さん、病人とそのなんだ……こういうのは違うものなんだよ」

「そういうものなの? やだ、先が思いやられるわぁ……」

「うむ、そうだね……」

「あちらは仮じゃなくても医官さんよ。でも、やっぱり違うんでしょうね」

「ああそれはもう、違うさ」


 そして、ひよりの背中を見ながら安達夫妻は立ち尽くし、何かを憂いてしまう。かなり深刻な様子だ。



 ◇



「さあ、食べましょうか。ひよりさん、無理はしないでね。あとこれを飲みながらだと、さっきみたいにはならないかも」

「炭酸水ですか」

「レモン炭酸水。甘くないからお口の中をリセットできるかなって」

「あ、美味しいです」

「よかった。わたしもずいぶんとこれに助けられたものよ」


 懐かしそうにする若菜さんの隣では、いつもに増して鬼のような顔をした安達が料理を凝視している。ひよりはこの二人の対照的な雰囲気に戸惑うが、よくよく考えてみたらこれまでもそうだった。

 若菜さんは女性的でメルヘンな空気を醸し出すし、安達は顔こそ怖いが優しさに溢れた自衛官である。


(この二人は、本当にお似合いなのよね。引き合わせちゃう神様ってすごいなぁ)




 食事もそこそこ進んだ頃、ひよりのスマートフォンが鳴った。


「少し、失礼します」

「どうぞ」


 電話は夫の八雲からであった。


「もしもし八雲さん? うん、そうなんだ。じゃあ気をつけてね」


 まもなく仕事を切り上げて帰ってくるという。それを安達夫妻に伝えた。


「あら、よかったわね。餃子、たくさん作ってもらったから持って帰って。茹でてないものが冷蔵庫にあるわ」

「でも、お二人の分が」

「さすがにこの人も全部は食べられないわ。それに、デザートのマリトッツォもあるし」

「うむ。マリトッツォは本当に楽しみにしているんだ」


 強面の安達の頬が少しだけ上がった。彼は本当に甘味が好きなのだ。ひよりは心の底からマリトッツォを持ってきてよかったと思った。二人がコーヒーが合うか、紅茶が合うかを話しているのを見るだけで心がほっこりする。


(わたしも、こんなふうになれたらいいな)


 結局ひよりは、黒酢のにおいを思い出すだけで胃のあたりが不快になるので、酢豚は遠慮してスープと水餃子を食べた。食欲はあるので本当に黒酢だけが合わなかったのだろうと思っている。

 そう考えていると、新しく入れ直したお茶を持って若菜さんがひよりの隣に座った。さっきまで夫婦で並んで食べていたのに。そしてなぜか安達は戻らずに、キッチンで洗い物を始めていた。


「ねえ、ひよりさん」

「はい」

「考え違いだったら大変申し訳ないんだけど、もしかしてひよりさん、赤ちゃんできたんじゃない?」

「あっ、赤ちゃん⁉︎」


 驚いたひよりは甲高い声を出してしまった。気のせいかそのタイミングで安達がシンクに鍋の蓋を盛大に落とす。


「す、すまないね。騒がしくしてしまって」

「あなた大丈夫?」

「手が滑っただけだよ」


 何かに対して、かなり動揺している。


「ごめんなさいね。ひよりさん話を戻しましょう。今まで大丈夫だったにおいがダメになるとか、味付けがうまくいかないとかなかった?」

「あ、あの。今朝、卵焼きの味に自信がなくて。でも、いつもと変わりないよって言われました」

「あら。ねえ、どれくらい予定のものは遅れているかしら」

「えっと……2週間くらい」

「心当たりがあるのなら、簡易検査してみた方がいいかも。東さん医官さんだからきっとすぐに理解してくれると思うわ」


 赤ちゃんという言葉にひよりは動揺してしまった。いつでも欲しいと思っていたけれど、本当にお腹にいるかもしれないと思うと、喜びよりも先に不安のようなものが広がってしまったのだ。


「ひよりさん?」

「はい」

「もしかして、怖い?」

「えっ、えっと。よく、分からなくて。わたしもしそうなら喜ばないといけないのに」

「ひよりさん。怖くて当たり前なのよ。わたしも怖かったもの」

「若菜さんも?」

「ええ。こんなわたしでも、とても怖かったわ」


 ひよりがほんの一瞬見せた戸惑いや不安を若菜さんは分かっていたのだ。わたしも怖ったという言葉のあと、片付けをしていた安達の手も止まった。

 子どもを3人産み育てあげた彼女が、夫不在の日も朗らかに過ごしていたわけがないのだ。


「でもね。不思議とそれは徐々に消えていくの。まずはきちんと調べること。ご主人は医師よ? 何の心配もいらないじゃない。だって、何でもできる自衛隊の医官さんなんでしょう? みて、あそこにも何でもできる看護官がいるわ」


 あえてキッチンの安達に聞こえるような声で若菜さんは言った。安達は突然むせ返り、ガチャガチャとコップをあさっていた。

 ひよりはそんな二人を見て、ふうっと息を吐いた。


「そうですね。なんだか少し、気持ちが落ち着いてきました。早く、八雲さんに会いたいです」


 ピンポーン♫


「噂をすれば、医官さんのお迎えよ」

「え! 迎えに来るほどの距離じゃないのに!」

「あーら大変。先が思いやられるわねぇ。うちの人よりも重症かも」

「は、ハックしょい!!」

「あら四季さん、風邪?」

「埃が少しね、鼻をくすぐったんだよ」

「そうなのね、あはは」

「東隊長がいらしたんだろう。お茶でも淹れようか?」


 ケトルポットを持ち上げて安達は言う。しかし、ひよりはそれを丁寧に断った。これ以上、安達夫妻に甘えてはいられない。それに、大事な瞬間は二人で分かち合いたいから。


「今日はありがとうございました。このまま一緒に帰ります」

「そうですか。では、また」

「ひよりさん。いつでもいらしてね」

「はい!」


 さあ、夫婦で確認しなければならない。ひよりのお腹には赤ちゃんがいるのか、いないのか。


「八雲さん! おかえりなさい!」

「ひより! ただいま。まさか安達家でおかえりを言われるようになるとはね。実家みたいだな」

「隊長、お疲れ様です。変わったことは?」

「いつも通りでしたよ」

「それはよかったです。では月曜日にまた」

「はい。若菜さん、お世話になりました」

「こちらこそ、ひよりさんをお借りしちゃってごめんなさいね」

「いいえ。ひよりはいつも喜んでいますよ。では、これで」

「またねひよりさん」


 いつになく安達夫妻の優しい眼差しに見送られ玄関を出た。しかもエレベーターに乗り込むまで、なぜか安達がこちらを見ている。

 何とも言いようのない違和感に襲われたのはひよりではなく、八雲の方だ。


(なんだか、妙な予感がするんだが?)


「八雲さん。これ皮から水餃子作ったの! あとで茹でるから食べよ?」

「おお、水餃子か! いいね」


 とりあえず色々なことは、我が家に帰ってからである。

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