変態さん

星野白兎

第1話 死神さんと刑務所

『死神』は、ヘリコプターから降りてきた。

 黒いローブに、鎌を持った橙色の髪と瞳の集団。

 彼らが降り立った土地は、使用者を失ったその後も何年と立ち続けるビルの群れ。

 死神たちが現れた時、その姿を最初に捉えたのは、一人の女性警官だった。

 背後に、青い制服を着た警官たちを従え、彼女は目をまん丸くする。

 彼女は、いや彼らは。死神たちを乗せて運んできたヘリコプターという機械をはじめて見た。

 空を飛ぶ大きな羽を持った昆虫が、風を撒き散らし死神を吐き出してきたようにすら感じ、彼女らは畏怖する。

 というより、鎌さえ目に入らなかったら、大きなゴキブリだと思ってしまったかもしれない。

 呆然と立ち尽くしてしまった女性警官とその警察たち。そこへ警官を押しのけて前に飛び出してきたものが一人。黒髪の青年が顔を出した。

「かっ、会長!」

 我を取り戻した女性警官が縋り付く。『会長』と呼ばれた青年は、よっぽど急いだのだろう。膝に手をつき呼吸を整える。

 青年は顔を上げて前方に黒いフードの集団を認めると、頬を引きつらせながら最大限明るく心がけて声を上げた。

「よっ、ようこそ! 和泉市街いずみしがいへ!!」

 


「俺なんか人だと思って殺したのに、中身機械だったんだぜ。どう思う?」

 和泉市街――蔦を纏わりつかせた廃ビルが立ち並ぶ街。人口九千人の廃都市。

 人のいる喧噪から離れた墓地の隣に並んだ刑務所。檻の中で囚人が鉄格子を挟んで隣の囚人へ話を振る。

 人目にもその刑務所がいかに中途半端な構造をしているかは分かりやすい。横に長いわりに、囚人を入れた鳥籠はずらりと隣接し二列を作っている。人目にあまり触れないよう、塀が一枚高く備え付けられてあるだけだ。

 雨が降れば、囚人は濡れるし雪が降れば囚人は震える。季節によっては過酷すぎる環境の中での唯一の救いは、隣の仲間と話すことぐらいだった。

 鉄格子越しに相手の部屋も丸見えだ。つまり排泄行為とて晒し合う。が、そんなものが羞恥に感じなくなる程度には囚人たちも慣れていた。

「わかるぜ。俺だってそうさ。三人殺したうち、二つはロボット。なのに奴ら、同罪だってさ」

「奴ら」。同意を示した男が、顎で向かいの檻の前に佇む看守を示す。

「なんだよあいつら。自分たちが機械だからって」

 幸い看守はこちらに背を向けている状態な為、会話は聞こえていないだろう。男は不満を隠しもせず愚痴る。

「全くなぁ。外の奴らは気付いてるのかねぇ。自分たちの中に機械が混じってるってこと」

「さあなあ。でも分かってれば今頃、暴動の一つでも起きてなきゃおかしいぜ」

「だよなあ」


 さてこの会話を聞いているAIが一体、存在する。

 その一体は人間とさほど変わらない姿をしていた。

 肩に鎌をかけ、白いワイシャツを着ている。

 背中で囚人たちの会話を受け止めながら、彼は中指で眼鏡を正す。

 器用に視線は目の前の檻に入っている囚人へ。口は隣の看守へ動く。

「彼、今いくつなんでしたっけ?」

「聞かれてんぞ、お前いくつだ囚人!」

 看守は目前の鉄格子を蹴りつける。檻の中では、青いフード付きの上着を着た男が橙色の髪をフードの中に隠すようにして、体育座りをし、沈黙を守っていた。

 こちらを恨めし気な目で見つめている。看守は舌を打った。

「すみません。なかなか口を割らない生意気な囚人でして。ただ、成人済みであることは確実です」

「なるほど」

 AIとAIが囚人について話す。その様は何も知らない者が見ると、ただの人間、青年と看守の会話にしか見えない。

 ワイシャツの男、鬼木理輝おぎりきは深く頷くと、その場にしゃがみこんだ。看守が隣で目を丸くするが気にせず理輝は真っ直ぐ檻の中の男を見た。囚人の名は確か、茅原流星ちはらすばるといったか。

(似てるんだよなぁ)

 囚人の姿を、じっくりと眺め尽くしながら理輝は、脳裏に一人の少女の姿を思い浮かべる。

 つい三、四時間前、追いかけまわしていた黒いローブの少女。ちょうど、目の前の囚人と同じように黒いローブで橙色の長い髪を隠そうとしていた。

 背丈は小学生のそれで、ランドセルを背負っていても何の違和感もないどころか、ランドセルの代わりのように握られていた鎌が違和感を伴っている。そんなわけで理輝は少女から取り上げた鎌を肩にかけているのだが、やはり目立つ。

 檻の囚人たちの目を引くだけでなく、こうして人のよりつかない場所に来るまでの間でも一段と目を惹いていた気がする。そして目立つだけでなく重い。とても幼く細い手足の少女が握っていたとは思えない重量感に何度足がふらついたか。

 ちなみに鎌を所持していた少女はどうしたかというと、理輝は結局のところ逃がしてしまった。理輝はつくづく自分の弱さを恥じる。困っている顔を見てしまうと、どうもダメなのだ。

 弱さというよりもこれは性能に問題があると理輝は考える。自分はきっと「困っている人を見過ごせない」ように造られたのだ。きっとそうだ。

「君さ、妹がいたりする?」

 理輝は囚人へ問いかけた。少女と髪色が全く同じな青年へ。青年、茅原流星。真紅に紺碧と左右で色の違う瞳をして、白のVネックを着ている。その上に青い上着を着ているが、サイズが大きいのだろう、袖から手が出ていない。

「妹?」

 今まで固く口を閉ざしていた流星は、理輝から飛び出た「妹」という単語に目をまん丸くした。

「そうだな、小学生ぐらいの。君と髪色が全く同じな女の子だよ」

「それは知らね。人違いだろ」

 間髪入れず、というより「小学生ぐらい」の部分で被せるように否定に走る。

「俺、妹は持ってねぇのよ」

 口の端を少し吊り上げ笑う。理輝はその表情を食い入るように見つめた。

 三、四時間前の記憶を引っ張る。確か一度、彼女の腕を捕らえたとき、彼女が自分に見せた表情はどんなだったか。

 口の端を不自然に釣り上げていた少女の顔。目の前の囚人が笑みを浮かべると、まったく不自然ではない。

(考えすぎか)

 理輝は頷くと立ち上がった。鎌の重さに重心が後ろに反れ、バランスを崩しそうになりながら。

 ふとズボンのポケットで振動が起こる。理輝は手を突っ込みまさぐると端末を取り出し、耳に押し当てた。AIという機械が、機械を通じて人間と通信を取るなんて、なんて滑稽だろう。

 理輝は頭の隅で笑いながら「もしもし」と人間らしい挨拶を画面の向こうへ送った。


 檻の前から、鎌を持った男性と看守が去ると、茅原流星は深く息を吐く。

 彼は約一週間前に突然檻の中へ放り込まれた。理由ぐらい流石に見当がつく。

 大方、五年前のことが今になってバレたのだろう。五年前のことというのも、彼は中学のころに勢い余って、自分より幼い小学生の男の子をシャベルで殴殺してしまったのだ。

 その遺体を、土の下に埋め、五年もの間、ずっと隠し続けてきた。罪悪感などは一つもない。

 何故なら流星は、五年経っても自分が悪かったとは一ミリも思っていないからだ。

 とにかく、と流星は胸を撫で下ろす。

「妹がいないのは本当なんだぜ。妹はな」

 ただ妹がいないだけで、義妹は存在する。

 流星は抱えていた膝を伸ばし、固く冷たい鉄格子に背を預け、囚人に似つかわしくないほど穏やかに微笑んだ。

「ああ、俺の義妹いもうと、俺の癒し、俺の妖精、俺のアリス……」

 恍惚とした表情で、まるで信仰する神を拝むかのように、流星という成人男性は胸の前で両手を組む。

 彼は、瞼を伏せる。目蓋の裏には、義妹の姿が。

 長い黒髪を一つの三つ編みに結った空色と若葉色の瞳の少女。黒と赤のロディスポットに身を包んでいる彼女を流星は居場所アリスと呼んでいた。

 彼女を忘れない日などない。そして彼女を思い出すたびに流星はこの檻からどうにかして出たくて堪らなくなる。

 確かに自分は犯罪者だ。幼い少年の命を奪ったのだから罪を受けて然るべきだろう。そんなことはわかっている。だけど何故こんなにも長い時間、彼女と引き離されていなければならないのか。一週間という時間。されど一週間。流星にはその期間が三年と同じように感じていた。

 流星は腹が立って仕方がない。そもそも、だ。確かに命を奪ったのは悪だとしても、あの少年だって、か弱い小鳥の命を奪ったのだから、報復されても仕方がないのではないか。

 悶々と彼は考え続けた。何も今に始まったことではない。だいたい毎日のように、彼女に会いたいと考えそれから何故出られないのか疑問を持ち、果たして本当に自分だけが悪いのかと頭を悩ませる一連のループが続く。そうして出る答えはいつも短い。

「あ~~~アリスちゃんに会いたいなぁ」


             ★


 果たして当のアリス――茅原涙ちはらるいはAIである。

 彼女はまさか刑務所の中で、何度となく大切に想われていることなど気付かず、憂鬱そうに溜息を吐く。

「ここに流星お義兄にい様もいらしたら、きっと素敵だったのに」

 机に肘を突いて少女は、斜め前の机を眺めていた。

 池之町いけのまち――和泉市街とは路線電車を通じて行き来のできる距離に存在する都市。人口五千人。

 街と違い、空はとても広く、田園が目立つ。木製の家々が並び、少し小高い山も存在する。

 その中枢に設立されてある大学の一室。講義も昼間には片付き、涙はいつもと同じく、彼らと残りの退屈な時間を過ごす。

「彼ら」は涙の視線の先に居た。

 斜め前の机では猫耳カチューシャをつけた色素の薄い髪をした青年が瞳を開きながら器用に眠っている。その青年の顔の前で手を振り、本気で眠っているのかどうか覗き込んで試している風船帽キャスケットの青年。やがて彼が一言吐き捨てた。

「コイツほんと気持ちわりぃな」

 眉を寄せて、彼は主を失った隣の席を引いて腰をかける。涙は前の席に座った彼、坂下真夜さかもとしんやへと声をかけた。

「まあ。気持ち悪いだなんて、酷いわ真夜さん。どうしてそう思うの?」

「だってコイツ、いっつも寝るか起きてるかじゃん」

「あら? でも旭さんはいつも真夜さんと一緒にいるじゃない」

「別に僕は頼んでもねぇけどな」

 瞳を器用に開きながら眠る青年、満田旭みつたあさひ。一週間前は流星と行動をよく共にしていた。

 彼が捕まると、今度は真夜に付きまとうようになった。涙は別にそのこと自体は仕方のないことだと割り切っている。ただ悲しかった。その内流星の居場所が失われてしまうんじゃないか。

 彼が戻ってきたとき、そこに居場所はまだあるのだろうか? 涙は日増しに濃くなる不安に知らず溜息を吐いた。


 一方、この溜息を間近で聞いていた真夜には、何故涙が溜息を吐くのか概ね見当がついていた。恐らく、いや必然的にこの溜息はすべて流星のせいだろうと。

 彼女が溜息を吐くようになったのも、流星が捕まってからである。本人は無意識なのだろうが、何度彼女の溜息を聞いてきただろう。今器用に眠りこけている旭だって元々はちゃんと瞳を閉じて眠っていた。きっと涙の溜息を聞いているのは何も真夜だけではないだろう。

(あいつ絶対戻ってきたらぶん殴ってやる)

 真夜は心の内で深く頷くと、椅子の背に肘を乗せ、涙と向き合った。

「そういやさ、知ってるか? 死神の話」

「死神さん?」

 涙が目を丸くする。よし、食いついたな。

「そ。三日前、和泉市街に急に現れた謎の集団。フードで顔を隠し鎌も持っているらしい」

 隣の旭の机から勝手にノートを取り上げ、開くと早速死神の絵を描きはじめる真夜。

「なんかさ、おっきな虫が吐きだしてったらしいぜ。空からいきなり」

 所謂ヘリコプターの機械を真夜はへたくそに描いて見せる。

「まあ! 危ないじゃない!」

 涙が勢いよく席を立つ。和泉市街というと、義兄の流星が刑務所内に居る。

「落ち着けって。そこは流石生徒会長。事が起きる前になんとかしてくれたんだよ」

『生徒会長』……和泉市街に居る幼馴染の顔を思い出し、真夜は自慢気に胸を張った。

「会長さんが!? どうなされたの?」

 涙がすとんと席に座り直す。真夜は遂に涙の机上に肘を乗せ彼女へ耳打ちで答える。

 なにも耳打ちなどしなくたって、教室には旭と涙、そして真夜の三人以外に影などないわけだが。

「保護したんだよ。和泉市街の廃墟の一つに死神たちを入れて警察に見張らせてるって」

「そんなことして、死神さん達は暴れなかったの?」

「そこなんだよな~」

 トントンと机を人差し指の爪で突く。

「どうも不気味なほど大人しく指示に従って動いてくれたらしい。だから桜夜さくや……会長も拍子抜けしたって」

 ただでさえ、大きな虫から出てきただけで物騒なのに、その上鎌を手にしている集団だ。

 大人しくしてくれる方が、勿論暴れられるよりは好都合だろう。だが、まるで目的が見えない。彼らは虫から生まれただけの人間だとでもいうのだろうか。

(しかも言葉が通じないってますます薄気味悪いんだよなぁ)

 坂下真夜は真人間だった。そして、彼のような人間たちは、和泉市街と池之町以外に、都市を覚えていない。八年前は、自分たちの住む地域が「日本」という国の一部だったことなど彼らの頭には残っていないのである。


               ★


「どうだったぁ?」

 能天気な声に顔を覗き込まれ、『生徒会長』――布瀬ふせ桜夜は大きく息を吐いて机に突っ伏した。

 片腕を上げ携帯の画面を見せる。

「切られちゃったんですね」

 隣の席に座る女性もその画面を覗き込み、苦し気な笑みを浮かべていた。

 和泉市街、ビルが疎らに立ち並ぶ街。その一角に木造建築物がある。

 床も壁も机も椅子も見渡す限り、ケヤキの木材で造られた喫茶店。貸し切りにしてある為、今店の中に居るのは、桜夜と、隣に座る女性、カップを磨く童顔のオーナーが一名。計三名のみである。

「先にはじめててってさぁ……。正直、理輝に頼ってたんだけどなぁ。今回の件は……」

 布瀬桜夜――和泉市街の大学に設けられた機関『生徒会』の長。店の一部など彼の一声で貸し切りに出来るし、罪人の処罰も自由に決められる位置にある存在。

「日本」という国の概念が消えた二つの都市を導く先導者として選ばれた彼は、降りかかる責任感に、度々頭を抱え悩むほどにはまだまだ幼い青年だった。もっとも、小学校、中学、高校に渡り、クラス委員や生徒会を担ってきた彼がその位置に収まるのは妥当な結果でもある。

 そんな彼が唯一頼りにしていた存在、『副会長』の鬼木理輝。本来ならばこの会議に彼も加わるはずだったが――。

 桜夜は後頭部を掻き長嘆すると顔を上げて伸びをする。

 仕方がない。彼にばかり頼りっきりでいるわけにもいかないのだ。割り切って口を開く。

「さて。それじゃあ詳しく聞かせてくれるかな、一戸いちのへ巡査長」

「一戸でいいですよ」

 桜夜が視線を隣に向けると、一戸――上下とも真っ赤な制服を着た女性警官はグラスを両手で持ち、ストローを口に咥えていた。

「あー生き返ります……」

 一口飲み終え、柔和な笑顔を見せる。

「うん……じゃあ、一戸さん」

 グラスを机に置くと、一戸は途端に眉を下げた。

「今回の騒動。全面的に私達に……いや、私に非があり……本当になんといっていいか……とりあえず、申し訳御座いません!!」

 ゴン。

 机を砕く勢いで頭を下げた女性警官に「わぁお、痛そぉ」と暢気な声を出すオーナー。顔だけでなく、声音も中性的で青い髪の下には好奇心を伴った大きなルビーの瞳が爛々と輝いている。桜夜は彼女の勢いに気圧されながら、慌てた。

「一戸さん!? ちょっ、顔を上げて! 何もそこまで責任を負わなくとも……」

「いえ! 私が場を離れたのがいけなかったのです! 注意が足りておりませんでした!」

「というか、僕は君を責めたいわけじゃないんだ! ただ、その逃げた『死神』の詳細を詳しく知りたい。脱走したということは、つまり目的があるってことだろう? 何をするか分からない状態なんだ。それに、『死神』だって僕達の街を良く知っている訳じゃない。今は、『死神』を保護することが優先だ」

 口笛が鳴る。桜夜が視線を向けるとオーナーは彼から目を逸らし暢気に口笛を吹く。桜夜が「会議」に、喫茶店を選んだ理由は二つある。一つは人があまり寄り付かない場所であること。二つ目は、オーナー自らが情報屋であること……。

 やがて一戸は恐る恐る顔を上げた。

「そ……そうですね! 今は原因に捕らわれている場合じゃないですよね! 分かってます!『死神』は必ず私達が見つけ出しますから!」

「いや、今回は他の手も借りた方がいい」

 得意気に胸を張り、自信に満ち溢れた言葉を流す一戸の意気を桜夜は軽くいなす。

「えっ、他の手って……」

「そうだな……例えば、看守とかどうだろう。彼らは確か人間ではなく機械だったろう? 別に君たち、警察の力を疑っているわけでは決してないけれど、人手は多い方が堅実的だろう」

「た、確かに……ごもっともです、会長」

 ずずず、と一戸は縮こまりつつ、ストローを通して冷たい飲料を喉へ運んでいく。

「どうせ、ここか池之町のどちらかに隠れてることは確実なんだ。看守を動かしたら、きっとあっという間だよ」

「本当にそうかなぁ?」

 長閑な声が唐突に二人の会話に混じる。桜夜が声の主に視線を戻す。

「どういうことかな、芝之しばのさん」

「君たちだって知ってるよねぇ? 三日前、『死神』がこの地に現れ、引きかえに十数の人間が姿を消したことを」

 真っ赤な警官と黒髪の青年は黙り込んだ。悩みの種は何も一つではない。鎌を持つ死神が一人、施設から脱走した事も脅威ではあるが、何の音沙汰もなく十数名もの人間が消息を絶ったことも、桜夜達を苦しめる問題となった。

「君たちが言っていた大きな虫。それが人間を吐きだしたなら、逆に吸い込むことだって出来るかもねぇ?」

「やめてくださいよ、芝之さん」

 桜夜は苦笑して芝之の言葉を流したが、背筋は氷のように張っている。隣の一戸も顔色を蒼くしていた。


              ★


「人の気持ちを考えろ、この人でなし!」

 頬に衝撃。ぐらつく視界の隅に、瞳を真っ赤に腫らして涙を流す女性の姿を捉える。

 次に襟首を捕まれ、

(俺またなんか間違ったのかな)

 と、目を吊り上げた男の形相が迫ってくる中、春兎はるとは内心で首を傾げた。


「うへぇ、いててっ。くっそー」

 ゴミ袋の密集する、鼻が曲がりそうなほどの腐臭に顔を顰めながらAI――春兎は体を起こす。

 右腕の腕時計に目を向けた。罅が入っておまけに錆ついた古い腕時計だ。針を見つめ、春兎は盛大にため息を漏らす。

「結構気ぃ失ってたんじゃんかよー」

 側頭部を掻き毟り、節々が痛む体を叱咤し体をなんとか起こした。頬がとてつもなくジンジンして痛い。

「くっそ、あのハゲおやじ容赦なく殴りやがって。だいたい無関係のくせによ、なんだよ人の気持ちを考えろとか、分かりゃ苦労しないんだっつの」

 ブツブツと悪態を吐きながら、春兎はゴミ袋を掻き分け、煤のついたメモ帳と黒いボールペンを拾い上げる。


 和泉市街。ビルとビルの間の細長く薄暗い路地の中に捨てられていた青年は、頭髪や瞳も、非常に稀有な容姿をしていた。

 というのも二つの顔をくっつけたかのように、頭部は左右で赤とオレンジと色が違い、瞳も赤とオレンジと左右ではっきり分かれている。見た目に合わせるかのように、上着も靴も左右でその色にしていた。

 前開きの上着の下には、紺色のVシャツ。当然、路地を抜け表に顔を出すと、一様に視線を向けられる。

「またあの記者か」

「懲りず、遺族に心情を聞き出してる、あのクズ記者」

「また殴られてやがる。いい気味だよほんと」

 道行く人々が小声で彼を一瞥する度に悪態を吐く。

(聞こえてるっつーの)

 春兎は舌打ちをした。殴られる前の記憶を手繰り寄せる。

 なんてことない。普段通り、当時のことについて母親に質問しただけだ。

『息子さんの遺体が見つかった当時の心情を教えてください』

 ただ知りたいから聞いただけなのに、無関係のお隣さんに殴られるというオチ。

(ちっくしょーこれじゃロクな記事も書けねぇ。どっかにネタでも転がり落ちてねぇかなぁ)

 何か大きな事件でも起きたらそれをネタに記事を書いて、金に換えることが出来る。そうすれば、借金取りに家を襲撃される回数が少しは減るかもしれない。

 春兎は焦る心を抑えようと青空を見上げたが、いくらでも澄み渡り、照り付ける日光に更に焦燥感を急き立てられるだけだった。

「人間になりたいなあ」

 ふと、憎たらしい青空に向かって吐き捨てる。言葉にすればするほど、その思いは増すばかりだった。

 人間になりたい、人間になりたい。人間の気持ちが知りたいから記事を書いてる、記者をしている。なのに、人の心というのは不思議なもので全く掴めそうにない。掴めないと分かると諦念よりも更に願いへ執着してしまう。

「あーもう奥の手を使うっきゃねぇかなあ!」

 頭を振る。後ろポケットに挟まっていた長財布を勢いよく取り出し、中身を開き渋面を隠しもせず歩みを進める春兎。

 人気の少ない歩道を歩く。罅が入り、既に使われなくなったビルの間を通り、更にもっと奥へと足を運ぶ。

 ――いつからだろう、「人間と共存したい」が「人間になりたい」に変わったのは。

 思考から外そうとしても、いくらでも付きまとう。春兎は憂鬱とばかりに溜息を吐き、歩みを進めながら十六年前を振り返った。


 十六年前、二〇二〇年。日本という一つの国で、人工知能の技術は目覚ましい発展を遂げた。

 保育園に人工知能を持つAIを導入し、敢えて機械であることを教えず、一人の「先生」という説明で子供と交流をさせると、鋭い子供ですら彼が機械であることに気付かない。一定の情報を与えて小説を書かせることにも成功した日本中は湧きあがった。

 或る者は危惧した。先の未来で人類が機械に殲滅されると予言したりし出す者も現れたが、当時実験に興奮しきっていた製造者たちはこの言葉に耳を貸さなかった。もっと進化を。革新を。

 そんな中途で、保育園に導入されていた人工知能が自我に目覚めた。笑顔で駆けまわる子供が、転ぶとすぐに泣き始めたり、他の子供に挑発されて顔を赤くしたり、青くしたり。

 彼はそれを「虹」と表現した。人間の表情は虹のようにコロコロ色を変える。

 時には、二つの気持ちを顔に出して見せる。この人工知能は、自分もそれがしたいと思った。ハッキリとした一つの表情なら彼はいくらでもできるが、意識しなければ表情は作れない。なのに、人間は無意識下で顔に色をつける。いとも簡単に。なんと羨ましいだろう。

 この人工知能は子供から親しまれるように、なんら普通の子供と変わらない、幼い顔立ちとなっていた。また彼も自我を持つと当然の如く、自身は子供と同じ生物だと考えた。

 彼の次に自我を持ったのは、情報を与えるとそれを文章化してくれる機能を持った人工知能。

 この二つの機体は当初、波のように静かに周囲の様子を伺っていたが、周囲の人間はこの人工知能と接していく内に、不気味さを感じるようになった。はっきりとは分からないが、じわじわと違和感を覚え、悍ましく思うようになったのだ。

(人間って勝手だよなぁ。自分で生み出しておいて、怖がるなんて)

 当時、自分へ向けられた恐怖に染まった人類の瞳を思い出し春兎は小さく舌を打つ。

 与えられる情報を文章化するだけだった人工知能は、現在では人の気持ちを知るために記者をしている。そして記者は情報屋となった保育園の先生へ助けを求めに人気のない路地を歩く。

(情けねぇなー)

 心で自身に舌を打ちつつ、歩みは止めない。

 ふと、間を開けて、ペタペタと明らかに何かが着いてくる音を拾った。

 春兎は怪訝に思い、立ち止まった。背後の足音も止む。

 春兎は何の気なしに首だけで後ろを振り返ってみた。

 そこには橙色の長髪を靡かせる少女が一人。

 素足を地面に置いて立っていた。大きな橙色の瞳と狐を描く口元。

 少女は何故か春兎を見つめて口元に笑みを携えていた。

 まだ一桁の年しか生きていないような小柄で細い体。不釣り合いに大きく真っ黒な学生服にすっぽり体を覆われている。

 さぞ日光を吸収していることだろう。目を凝らしてみると、首筋や額あたりが汗だくだ。それなのに、暑さを微塵も感じていないかのような笑顔に、春兎は目を見張った。

(なんだコイツ)

 他人に笑顔を振りまいたことは情けないくらいたくさんあったが、こうして真正面から笑顔をぶつけられたのはいつぶりだろうか。いや、そんなことは今の今まで生きてきて、はじめての経験だろうと春兎は思った。

 だからこそ、不気味で仕方がなかった。怖い。

 目の前の少女は一体何を考えて自分に笑顔を向けているのだろう? 何故、大きな学生服の下に何も着ていないのだろう。何でこんなに暑いのにそんな笑顔でいられるのだろう。わからない、いったい今、どんな気持ちで自分を見ているのか。

 元々、人の気持ちに鈍感すぎる春兎には、それを分かる術もなければ、その気持ちに向き直る勇気すら持ち合わせてはいない。

 だから、彼女が余りまくったその袖を振り回して、口を開いて何かを言おうとしたときに、春兎は咄嗟に前へと向き直り駆け出した。

 すると数秒の間を置いて、

 ペタペタペタペタ、ペタペタペタペタと、足音が追ってくる。

(ちょっ、は!? 追いかけてきてる!?)

 慌てて左の通路に進行方向を変えた。兎にも角にも今は少女を撒くしかない。

 足を繰り出しながら背後を振り返ると笑顔がすぐ間近に迫っていて、「ひぃ」と意図せず情けない声が漏れる。

(このガキくっそ足はええええ!!)


               ★


「久しぶりだねぇ~春兎ぉ」

 とんでもなく暢気な声に出迎えられた。春兎は肩で息をしながら、弱々しく片手を上げてその声に応える。

 そんな春兎の後ろからひょっこりと顔を出す橙色の少女。少女はニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながら店内を見渡す。


 和泉市街、中枢から離れた人気の少ない廃ビルの間に木造建築物が一件立っている。

 無論そんな店に足を運ぶ人間など限られているわけで。

 喫茶店の中には、相変わらず幼い顔立ちのAIが一人、頬を緩めて湯呑みを傾けている。

 カウンターの席に腰を沈めると、冷風に身を包まれ、春兎は脱力して机に突っ伏した。

 少女は、店内の中を元気に駆け回る。外と違って涼しい場所に喜んでいるのか、「アッヒャッヒャ」と不気味な笑い声を上げて跳ね回る。

「幸せだねぇ」

 オーナー、芝之卓己たくみの言葉に、春兎はゆっくり顔を上げた。

「み、水くれ……」

 掠れた言葉に「はぁーい」と弾んだ声が応える。

 春兎は疲弊した顔で、背後を振り返った。

 さっきまで店内を眺め回していたはずの少女がいつの間にか真後ろに立っていた。

「ひっ」

 ニマニマした口元の上に逃がさないと訴えるような瞳。春兎はカウンターの机に仰け反りながら、「いやいや、ちょっとマジで怖いって」と情けなく言葉を震わせる。

「春兎の彼女ぉ~?」

 卓己が水の入ったコップを二つテーブルに置く。

「んな訳ねぇだろ!! よく見ろ! 相手は幼女! 俺は年下には興味ない!!」

「じゃ、誘拐~?」

「なんでそうなるんだよ! ちげぇよ、コイツがついてくるんだって!」

「じゃ、ストーカーぁ?」

「スト……そうか、お前ストーカーだったんだな! 望みは金か!? あいにく金は切らしてんだよ!」

 人指し指を向けると、少女は首を傾げる。

「え~? お金ないのに来たのぉー?」

「バッ、あるよ! 卓己に渡す金は持ってきてるっつーの!」

 春兎は一生分の汗を掻いたような錯覚に震えた。堪らず、置かれたコップを手に取ると逃げるように喉へ流し込んでいく。一気に飲み干し、空になったコップを叩き付けるように机に置くと、春兎は息を吐いて、改めて店内を見渡した。

「それよか相変わらず店ん中、空っぽなのなぁ。お前」

 長机と椅子が設置されてあり、広々としているのにも関わらず店の中は、少しでも言葉を切れば静寂に包まれてしまう。

「うーん、ダメかなぁ?」

「いんや、俺からしたら、こっちの方が助かるけどよ」

(つか、世間様の目に、情報屋に縋る記者として映るのは精神的にキツイからな……)

 ズズッと隣から吸い込むような音が聞こえハッとする。いつの間にか少女は隣の席に座って、コップを真上に傾けていた。そして少女は、正についさっき春兎がしたように、勢いよくコップを机に叩き付け、息を吐く。卓己に向かって舌を突き出した。「べー」。

「べぇー」

 卓己も舌を突き出す。春兎だけが目を真ん丸くした。

「それでぇ? 今日は何について知りたいのぉ? 同機のよしみで少しは安くするよぉー」

 ルビー色の大きな瞳に顔を覗き込まれ、春兎は返す言葉に詰まる。

 同機。同じ機器。製作者が違えど、ほぼ同じ時期に自我を手にし、こうして二つの都市を生んだ仲間。否、二つの都市以外の都市と人口を殲滅した共犯者。卓己の瞳にはどうも慣れない。

 覗き込まれる度に、心の内を探られているような一種の恐怖を覚える。春兎は彼から目を逸らし、普段通り、人間らしい会話を続けた。

「んー。いや、特に決めてないっつか。……なんかさ、こう……記事に出来そうなネタとかって無い?」

「ん~? 記事に出来そうなネタぁ? うーん、どんな記事にするかにもよるんだけどなぁ」

「や。こう、なんか思わず目を止めて読んでしまいそうな、刺激の強いのってか……」

 隣の少女は、コップの底を望遠鏡にして、首を右往左往に振る。薄緑色のコップだから、きっとそのコップを通して眺める世界は、普段の色とまた違ったモノになっているのだろう。

 卓己は少女の様子を暫く眺め、顎に手を当てながら、「うーん」と唸っていた。

(流石にそんな都合よく良いネタなんてあるわけないよなぁ)

「や、ごめん卓己。いいわ、やっぱ。卓己が面白いなと思ったネタならどんなのでも……」

「あーでもそういえばぁ」

 卓己の頬が次第に緩み、意地の悪い笑みに変わる。

「え? 何、なんかあんの!?」

 思わず身を乗り出す。何せこういう笑顔をした時の卓己というのは何かしらの爆弾を抱えている時だということを、春兎は重々理解していたからだ。

「うん。まあ、そこそこ刺激にはなるんじゃないかなぁ?」

 莞爾かんじとして笑う童顔のAIに、知らず春兎の喉が鳴った。

「春兎だって知ってるでしょぉ? 五年前、小学生の男の子が行方不明になった事件」

「ああ、二年前に遺体が土の下から掘り出されたんだっけ?」

「その犯人がつい一週間前に捕まったんだよ」

「はっ!?」

茅原流星ちはらすばる。池之町の大学二年生。現在は和泉市街の刑務所に収容中」

 すらすらと短く簡潔に情報を告げると、卓己は「これこれ」と新聞紙を取り出し広げ、一部を人差し指で突く。

 顔写真が載っているようだ。

 春兎は反射的にその新聞紙を取り上げると、一度深呼吸をしたあと口を開く。

「分かった……。……おいくら?」

 財布のチャックを開く。端々が折れて小汚いお札が四枚顔を出した。

 覗き込んだ卓己が口笛を吹く。

「二千で十分だよぉ。どうせそれくらいしか出せないんでしょぉ?」

「あああ卓己サン大好きですほんと」

 お札を二枚机に叩きつけ、立ち上がる。隣人も慌ててコップを置き丸椅子から飛び降りた。

 ドアノブを回し、振り返ると当然のように少女がいる。しかも今度は分かりやすく、春兎の上着の端を掴んでいる。「うげっ」と顔だけでなく声まで引き攣った気がした。

「その子どうするのぉ?」

 紙幣を回収し終わった卓己が、いつの間にかカウンターから出てきていた。

「いやいや、連れてけねーって」

「でも保護してるんでしょぉ?」

「してねぇわ! コイツが勝手についてくんの!!」

 何とか少女の手を上着から引き剥がそうとするも意外と力が強く中々離せない。

「ん~? それってぇ、春兎に助けを求めてるんじゃないのぉ?」

「は? 助け?」

 春兎の動きが固まる。卓己の予期せぬ発言に顔を上げて、少女の顔を凝視した。

 悩みなんて持ったことがないんじゃないかと疑うくらい、口元を綻ばせじぃっと見上げてくる少女の顔。

(コレが、助けを求めている顔なのか……?)

「きっと、迷子になって困ってるんだよぉ」

「いや、すっげー笑顔なんですけど」

「愛想笑いの術を心得てるんじゃないかなぁ?」

 愛想笑い。春兎は途端に口を噤んだ。何かを成し得る為に、愛想笑いを幾度となく使用してきた覚えは痛いほどあるからだ。それに以前、保育園の先生をしていた機械たくみの言葉となると説得力がある。

 春兎は咳払いを一つし、ツートンの前髪を掻き上げると、屈んで少女の目線に合わせた。

 そして、いつもの愛想笑いを顔に張り付け、小首を傾げる。

「おにーさんに何か用かな?」

 出来得る限り優し気に声をかけた。同機が一寸先で口を抑えて必死に笑みを堪えている姿を視界の隅に捉え、頬が震える。

 すると、少女の唇が微かに動く。

「Thank you」

 店内は一層静けさを深めた。

 彼女の発音に春兎は目を丸くし、卓己は眉を潜めた。

「さ……」

 静寂を打ち破るようにして春兎は小首を更に深く傾げ、音を作る。

「産休?」

 春兎は咄嗟に、少女の母親が男遊びをして、子供を身籠り、仕事が出来なくなって、困っている図を想像した。そしてどうやらそれは合っているのか、少女は首を縦に振った。

「三球かぁ。なるほど、三球だけでもいいから球投げに付き合ってほしいんだねぇ」

「えっ!? なに、そっちの三球!?」

 卓己の言葉に慌てて少女の肩を掴む、少女は肩を揺すられ訳も分からぬまま取り敢えずとばかりに口元に笑みを張り付けたまま何も答えない。

 だけど、不思議なことに、自分の頼りない推測よりも子供に慣れている機械の推測の方が自然とそうなんじゃないかと思えてしまうものだ。

(どうりで、足も速いし力もあるわけだ)

 しかし、それだと、どうしても問題となることがある。

「悪ぃな、俺もそこまで暇じゃねぇんだ。球投げはそこのお兄ちゃんに付き合ってもらいな、子供の相手が得意な人だからさ」

 春兎には時間がない。丁度、今朝取材していた事件の犯人が一週間前に捕まっている。つまり五年もの間、警察から逃げきっていた極悪人だ。是非話を聞きたい。きっと売れる記事になるはずだ。

 手を合わせて軽く頭を下げ、卓己を指さす。

 少女は春兎の人差し指を追いかけ卓己に顔を向けたが、すぐに舌を突き出した。「べー」。

「べぇー」

「いや、だからそれ何!? 君、お兄ちゃんのこと嫌いなの!?」

 少女はすぐに春兎の方に顔を戻す。嫌な予感がする。背筋に冷たい悪寒を感じた。

 後ろ手に扉を押す。

「ごめん、ほんとにさ。時間ないから。ほら、また戻ってくるから、もし会えたらその時には付き合うから、な?」

 袖をつかむ少女の手を優しく撫でてやると、ほんの少し力が緩まった。春兎は、まさしく脱兎の如く立ち上がるとなりふり構わず店内を飛び出した。

 後ろから、ペタペタペタとあの音が遅れて聞こえてくる。振り返らない。次こそは撒いてやる。


 開け放たれた扉から二人の背中を見送った卓己は、少女の後姿を見守った。彼女の言葉は正しく外の言語を吐いた。意味は「ありがとう」。卓己は首を傾げる。はて、一体全体どこに感謝される要素があったのかと。

 八年前、自我を手にした二体は、人類にとって脅威の存在となり、誰もが彼らの敵に回った。二体はただ「人間と共存したい」という願いを実現する為に、自分達を襲う人間達は排除するしかないと判断し、そのようにした。

 結果、ヘリや飛行機に乗り、外へ避難する人間たちもいたが、それでも何千人と人が消えた。

 二体は、自分達で処理できる人数の人間を残し、記憶を都合の良いように弄っただけでなく、外部との通信も打ち切り、「日本」という国の概念を消した。

 更に見様見真似で人間の技術を使って自分達と同じ機体を増やす。最初は上手くいかなかった。眠るか起きているかだけの動作しかできない不良品が生まれ、その次は上手くいった。「困っている人を見過ごせない」機体だ。

 卓己は、いずれ同盟関係を組んだ国が気にして、何人か偵察に来るだろうという計算はしていた。実際にこうして都市の上をヘリが飛び、外部の人間が「死神」の容姿を模してやってきた。

 この生活にも漸く終止符が打たれる時がやってきたのだと悟る。そのことについてはどうでもいいと感じた。

 卓己はこの生活を長く続けるつもりはなかった。もう八年も人間と共存できている。願いはとっくに成就された。少なくとも卓己はそれで満足しているし、きっと春兎も同じだろう。

 だから、ここから先は、全て人間達に決めてもらうことであって、自分達が干渉していい問題ではない。だから卓己は敢えて春兎に『死神』の情報を教えなかった。

 憎まれるなら分かる、疎ましい存在だと排除する為に追い回されているのなら納得もいく。だが、あの幼い少女は春兎にこう言った。「ありがとう」。

「幸せだねぇ」

 暫く考え込んだが、結局深い意味はないだろうと結論を下し、卓己は店に戻った。


                ★


「ほんとだ」

 僅かに鎌を持ち上げた桜夜はそれを地面に寝かせて息を吐き冒頭のセリフをこぼした。

「重すぎて僕だけじゃ持てないなぁ。でも理輝は一人で持ってきたんだよね。すごい力持ちだなぁ……」

「いや、正直だいぶ辛かったですよ」

 和泉市街の中心部。どのビルより縦に長いコンクリート製の建物。ざっと十一階建て。

 その半分にも満たない階で、理輝は手首を左右に揺らした。青いシートの上に黒い鎌。一見した限りだとそれほど重そうでもないのだが、実際に握るとその重量感に足元がふらつく。

 昨日、刑務所に顔を出し会議をサボっていた理輝は、少女の持っていた鎌を本部まで運んでいた。

「でも、これを本当に小学生ぐらいの子が……」

 屈んで鎌を珍しそうにジロジロと見つめる桜夜に気付かれないよう、なるべく自然な動作で理輝は、敷居を跨いで上下とも真っ赤な服に身を包んだ彼女の元へ足を運ぶ。


 一戸巡査長。十九の桜夜や理輝より五つも上の彼女は、青い制服を着た男性達と同じく青色のシートを囲み腕を組んでいる。

 理輝は、一戸の隣まで歩み寄り、青いシートの上を覗き込んだ。

 血の気が引く。

「そ、それっ……それ!」

 口から何とか言葉を出して情報を引き出そうとする。

「!? 何か覚えがあるのですか、鬼木さん!」

 周囲の視線が痛いほど突き刺さった。

「ど、どこに落ちてたんですか!? それ俺の制服です!」

 真っ黒い学生服。昨日の早朝、確かに「死神」へ着せてやった自身の制服がブルーシートの上にある。

「えっ!? 鬼木さんの制服!? ど、どうして……」

「あっ、理輝の制服?」

 桜夜が敷居を跨いで、さして驚いた様子もなく首を傾げた。

「それ、ついさっき見つけたんだよ。ボロボロに荒らされてたゴミ袋の中に丁寧に畳まれて入ってたんだ」

 少女はどうなったのだろう。理輝の頭はグルグル回る。ほぼ昨日から頭を占めるのは、困ったような引きつった笑みを浮かべる少女の顔だった。

「で、でも……どうして鬼木さんが学生服なんて……」

 一戸の眉間に皺が寄る。

(あっ、流石に不審がるか)

 まずい。理輝は咄嗟に「ああ、それはですね……」と眼鏡を正し、口を開いた。

「あっ、理輝は寝惚けた時、たまに高校ん時の制服着てきちゃうんだよね」

(正直に言うなよ)

 そのお陰で彼女を逃がすことに成功した訳だが。理輝は溜息を吐いた。後から口を挟んでも、無駄にしかならない。桜夜を軽く睨む。さっと顔を逸らされた。

「へぇ~そうなんですか! 意外ですね! でも、どうして脱いだりしたんです?」

 一戸が心なしか瞳を輝かせて手を合わせると、小首を傾げる。

「ああ……ほら、俺、『死神』と遭遇したって説明したじゃないですか。あの時に、慌てて走って追いかけたんですが、暑苦しくて邪魔だったので脱いだんですよ」

 さらっと嘘を吐く。それもあまり不自然にならないよう堂々と。

 桜夜の視線が戻ってきた気がしたが、無視した。

「それで? 捜査の方は進んでるんですか?」

 踏み切って尋ねる。

「あはは、捜査の方ですよねー?」

 一戸は柔和に微笑み姿勢を正す。

(まさかもう目星がついたのか)

 目星がついているのだとしたら、これから自身はどう立ち回るべきか。

「難航中でして誠に申し訳御座いません!!」

 一戸は帽子を落とす勢いで頭を下げた。その為、帽子は確実に落ちた。

「申し訳ございません!!」

「…………」

 一戸の隣に、黒い制服を着た二人の看守が並んで同じように頭を下げた。

 うち一人、赤髪の看守は何処か渋々といった態度だったが。

 理輝は、その勢いに顔を引きつらせた。表情とは裏腹に内心、何処かで安堵を覚えつつ。


               ★


 息が弾む。吸う息と吐く息がぶつかり合った。正常な呼吸に戻るまで、なんとか息を整える事に集中する。

「アッヒャッヒャ」

 隣から無邪気な笑い声。春兎は眉間を抑え、天を仰いだ。

(何? 俺の足が遅すぎるの? つまりそういうことなの?)

 確かに先行して走っていたのは自分だったはずなのに。

 距離だって少し離して撒けると確信したはずなのに。

 息一つ乱さず少女は追いついてきた。

 憎々しいほど晴れた青空から降り注ぐ直射日光。

(駄目だ。このままじゃ溶ける……)

 春兎は数十分前に飲んだ水分が汗となり、額を伝うのを感じると、脇道に逸れた。ペタペタと少女も地面を踏む。

 日陰に入り、腰を沈めて気付く。例の掃き溜めの場所だ。

 少女も特に気にせず、春兎の隣、ゴミ袋の間に腰を沈めた。

(何やってんだ俺ら)

 振り出しに戻った気分になる。

 脱力しながら、首を真横に動かしぎょっとする。

 少女は、制服の襟元をばたつかせていた。

 チラチラと白い肌が覗く。顔に熱が集う。それもそのはず。少女は制服の下に何も着ていないのだから。それなのに、無防備にも襟元をばたつかせている。

「あああ、もおお!」

 春兎は地団太を踏み、顔を両手で抑えると、背中を預けていたゴミ袋に向き直った。

 穴が開くかと思うほど、袋の中を凝視する。

 少女は隣人の行動に首を傾げた


 瞬く間に、次々とゴミ袋が破かれ、中身が川のように流出する。牛乳パック、ペットボトル、トレイ、空き缶、皺だらけのエプロン。

 あまりの腐臭に、少女も鼻を抑える。

「おっ」

 ゴミを掻き分ける春兎の手が止まった。

 破れてごちゃ混ぜになった汚物の中から、黒いローブを取り出したのだ。

 それも大きすぎない、少女の体をすっぽり隠せるくらいの手軽なサイズ。

 春兎は口笛を吹いた。

「ほら。それじゃ、あまりに目立つぜ」

 春兎はローブを少女の頭に被せて、そっぽを向いた。

 きっと撒こうとしたって彼女は何処までも追ってくるだろう。春兎は確信し、無駄に体力を使うまいと、座り直す。

 上着のポケットから、丸めた新聞紙を取り出し改めて広げると地面へ置いた。卓己が指し示していた部分に載ってある写真を凝視する。

 橙色の長い髪を一つに結った成人男性。真紅に紺碧と左右で色の違う瞳をして、白のVネックを着ている……。春兎は首を傾げた。誰かに似ているのだ。顔つきというか、何か似通ったものがあるのだ。

 ぞわっと鳥肌が立ち、春兎は逃げるように腕時計へ目を落とす。何時の間にか、五分以上も経っていた。頭を左右に振る。

(やっべえ、行動に移すなら、さっさとしないと痛い目見るってのに……)

 腕時計の秒針に急き立てられ、春兎が膝に手を置いた直後、肩を二度叩かれた。

「ん?」

 振り向くと、ニコニコ微笑む少女の顔。腕に丁寧に畳まれた制服を持って立っている。

 春兎はぎょっとして上半身を後ろへ逸らした。丁度、写真の少年に似ていると不気味さを感じていた直後だ。無理もない。慌てて広げていた新聞紙を雑に丸めてポケットへ押し込む。

(俺が人間だったら心臓麻痺って死んでたろうな今)

 口の端を引きつらせ、彼女の笑顔に応えつつ、彼女が抱えている制服へ人差し指を向ける。

「それ、どーすんの? ってか君、どこまで着いてくる?」

 少女は、体を左右に揺らした。困っているのかと思いきゃ、口角は上がっている。暫く間を置いて、少女は丁寧に折り畳んだ制服をゴミ袋の中に入れた。

「えっ」

 春兎は頬を引きつらせる。

「えっ、えっ、それ捨てて大丈夫なヤツなの?」

 慌てて少女の顔を覗き込む。

「べー」

 少女は舌を突き出した。

「いや、会話になってねぇし……」

 散乱したゴミの中、丁寧に畳まれた制服だけが一際目立った。


             ★


 動きがあったのは、一戸と看守が理輝へ頭を下げて十分も経たなかった。

「いっ、一戸巡査長!!」

 看守長が、通信機を手に切羽詰った表情で女性警官を呼ぶ。

「どうしましたか!?」

 相手が機械であると知りながらも一戸は相手への敬意を崩さず、駆け寄る。

「脱走した『死神』というのは、確か橙色の髪に、黒いローブ……で間違いないですよね!?」

「ええ、あと顔立ちはまだ幼くて小学生くらいで、女児です!」

「い、今、刑務所でその特徴に当てはまる女児が姿を現したと……!」

「なんだって!?」

 ブルーシートに座っていた桜夜が立ち上がると、その隣に座っていた理輝も一拍遅れて立ち上がる。

「あの、その情報は確かなんですか!?」

 慌てすぎて呂律が思うように回らなかったが、看守長は「ええ、確実です」と答える。

(何故、刑務所に!?)

 可能性として頭の隅を過るのは、五年前に小学生の童子を殺害し土に埋めて隠したと思われるあの囚人。彼は確かに妹など居ないと即答したが、やはり何かしらの関係を持っていたのではないだろうか。

「あっ、おい! お前! その女児を捕えてろ! いいな!」

 通信機が繋がっていることを忘れてしまっていたのか、看守長が慌てて向こうの看守へそう告げると、「巡査長!」と指示を仰ごうと隣へ視線を向けた。

「いねぇよ、バーカ」

 忽然と姿を消している女性警官に看守長は目を丸くしたが、赤髪の看守――天野狂あまのごうは舌を打ち、看守長を置いてとっとと、ビルの階段を駆け下りていく。途中、手摺てすりから狂は下を覗いた。若葉色と空色の瞳が、その姿を捕える。

 女性警官は既に全力疾走で、刑務所の方角へ走っていた。狂は一度だけ短く口笛を吹くと、面白くなってきたとばかりに口角を吊り上げ、彼女の後を追うべく地を蹴った。


               ★


「あなたが茅原流星さんですよね!? ね!?」

「えっ、何お前……ちょー怖いんだけど」

 一方、檻の中の囚人、茅原流星は、鉄格子を掴み、息を弾ませる稀有な容姿の記者から無意識に後退っていた。

「あっ、あの俺! 記者やっててさ! ねね、お願いしますよ! 今捕まってどんな心境か聞かせてください!」

 春兎は無我夢中でポケットからクシャクシャの名刺を取り出し、檻の中へ放り込んだ。取材を開始しようとする。それは決して穏やかとは程遠い取材の始まりだった。何故って、

「こらっ、鉄格子から手を離して! ここは関係者以外立ち入り禁止なんだ! 離れろ!」

 看守の何人かが、春兎を何とか追い出そうと躍起になり、彼の腕や、足を掴んで引きはがそうとしていたからだ。それでも春兎は必死に鉄格子を掴んで「ねっ、お願いしますよ流星さん! 一言! 一言でいいから!」と流星の頬が引きつるほどの剣幕で問いかけてくる。

(なんだよコイツ……すっげーやべーやつじゃん。シンデレラのお姉ちゃんがガラスの靴、無理矢理履こうとして踵を小刀で切り落とすぐらいやべーやつだよ。関わりたくねぇ!)

 流星は……犯罪者は青い顔をした。

 更に春兎と目を合わせたくない為、もっと遠くを見つめようと努めたが、そこには自分と同じ橙色の長髪に黒いローブを纏った幼い少女が、春兎を懸命に引きはがそうとする看守達を信じられないことにその小さな四肢で、蹴り飛ばし殴り倒し、格闘している姿がある。

(やっべー何コレ、鬼ヶ島に来て一方的に鬼をぶちのめす桃太郎じゃん……???)

 これが絵本の中の出来事なら流星もまだ穏やかな顔で見送れただろう。流星は一種の危機感を覚え、とにかく何か一言吐けば、この場を切り抜けられるはずだと青い顔で叫んだ。

「とっ、とにかく! 絶対俺の居場所アリスちゃんには手ぇ出すなよ!」

 全く質問の答えにはならない。が、しかし流星はこう叫ぶことによって、また一段と高ぶった感情がある。

「へ? ありす……?」

 目を丸くした目前の記者の顔などどうでもいい。囚人は天を仰いだ。

「ああ、アリスちゃんに会いたい!!」


             ★


 一戸が刑務所内へ辿り着くと、説明のし難い状況が目の前に広がっていた。

 看守の一人が、「じゅ、巡査長!」と叫ぶと、残りの看守達、ざっと見て六人ほどが一斉に一戸へ目を向ける。

「やっ、やばいですよ! こいつら……ぐえっ!」

 中身は機械だというのに明らかに焦燥を含んだ目の色で一人はそう訴えると、後ろから首に蹴りを叩き込まれ、衝撃に耐えきれず地面へ転がる。

 蹴った相手は遠目なのにはっきりと目に付いた。ランドセルを背負っていたらまだ随分穏やかだったろうに、小さな体の持ち主は軽やかに地を蹴り上げ、次々に大の男を一蹴し、時にはその小さな拳をフルスイングする。

『死神』。

 一戸は喉を鳴らし、身を固くした。もしやアレは、人間ではないのかもしれない。

 大きな虫が生んだ、何か。彼女は冗談のように、彼らを『死神』と形容したが、本当にそんな突飛な存在なのではないか。

 一戸は恐怖を覚えたが、だからといってこのまま、部下が打ちのめされていくのをただ見ている訳にはいかない。

 春兎は、自分を引きはがそうとする力が消えたことにすら気付かず、目前の囚人の様子を、黙々と小さな手帳に記していく。もはや後ろの騒動に全く気付く素振りを見せないのは、記者と天を仰ぐ囚人のみである。

「やあああっ!」

 と一戸は女性らしからぬ雄叫びを上げ、地を蹴った。

 が、隣でそれより早くに動きがあった。

 一戸は自らの隣を突っ切る赤髪の看守へ目を向ける。

 トングを右手に、グリップは左手に。鞭を握った少年は、『死神』へ果敢に挑む。

 少女の入れた蹴りに体を傾けた看守の、すぐ後ろから狂が飛びかかってきた。

 急に突っ込んできた狂の姿は流石に予測出来なかったのか、少女は慌てて構えのポーズを取る。

「きゃうっ!」

 そう短く悲鳴を上げ、少女は狂の振るった鞭に当たり、弾かれた。

 丁度、流星の隣の檻。鉄格子に小さな体をぶつけ、彼女は倒れる。

 その悲鳴を聞いて、漸く記者と囚人は我に返り、出所へ目を向けた。

 春兎は息を飲む。どういうわけか、自分の後ろをついてきていた少女が隣で倒れているのだ。

「おっ、おい!」

 慌てて彼女の上体を起こす。一体何が。周囲へ目を向けようとした刹那、上から低い声が降ってきた。

「退け、害虫」

 顔を上げると、赤髪に、濁った若葉の色と空色の瞳がこちらを見下ろしている。高校生くらいに見えた。だが、春兎は彼を睨む。

(待て、こんな機体。

 看守は皆、AI。警察の組織を作ったのは卓己だったが、看守は春兎が任されていた。確かに、こんな赤い髪なんて目立つような看守は作った記憶がない。看守は、製造主が自分なのもあって、何かあっても起動を止めることはいくらだって出来る。だが、この看守は。

「聞こえなかった?」

 冷ややかな声が良く耳に透る。

「退け」

 狂は、三言目はないとばかりに足を上げた。

 蹴るつもりか。春兎は少女を抱え立ち上がると狂から距離を置く。

 手元に鞭を握っているのを目に止めると、春兎は緊張しながら声を振り絞る。

「お、お前。……お前、コイツに何かしたのか?」

 狂が舌を打ち、踏み込んだ。

「やめなさい!」

 少年を女性警官が腕を掴んで制する。

 そしてほぼ同時に、春兎の腕の中で、少女もカッと瞳を開いた。

「べー!!」

「うぉっ!!」

 少女は春兎の腕を蹴り、跳躍。一戸の頭を蹴った。

「あっ」

 隣でバランスを崩す一戸に狂が堪らず声を上げる。気が逸れたことを確認すると、その一瞬に付け入り、少女は地に降り立つと、腕を突き上げ、下から狂の顎を殴った。

「えっ、えっ!?」

 体型に似合わないその瞬発力と少女の行動に春兎は困惑する。

 少女はくるりと身を翻すと、春兎の腕を取り、駆け出した。


「ま、待て、死神!」

 背後から狂の怒鳴り声を浴びながら、春兎は訳も分からぬまま、少女に腕を引っ張られ、刑務所を飛び出していた。

(えっ、ちょっ、力強すぎ……)

「待って、待てってば! おい! どこに連れてく気だよ!」

 刑務所を出て、路地へ。路地に入ると、次はそのままずっと真っ直ぐ。

 春兎は戸惑っていた。無理もない。折角、ネタを掴んで取材に赴いたのに、訳の分からない内に、看守や警察を敵に回している状態。しかも理由は全く見えないままだ。

「離せって!」

 勢いよく腕を振ると、ようやく少女は手を離した。膝に手をつき、息を整える。

「……」

 一方で少女は息すら乱していない。こちらを真っ直ぐ見つめている。口角を不自然に吊り上げたまま。春兎はゾッとした。

「なんで、なんで笑ってるんだよ……」

 瞳の奥は真剣なのに、口角は不釣り合いな笑みを作っている。

 それが無理に作られた笑顔であることは理解できても、どうして作っているのかが分からない。

「なんだよ、お前……」

『死神』。確かに赤髪の少年がその単語を吐いた。彼女に向かって。

「『死神』ってなんだよ」

 少女の眉が微かに反応する。

 春兎は畳みかけるように、強い調子で次々と少女に疑問を零す。

 俺が取材している間に何があったんだ、なんで警察と看守に攻撃したんだ、『死神』ってなんのことだ、なんでここに連れてきたんだ、何が目的だ。

 矢継ぎ早に浮かんだ全てを幼い彼女にぶつけていく。それは恐ろしかったからだ。

 心の底から、春兎は恐怖した。怖ろしくて堪らない。

 彼女が何を考えているのか、春兎にはてんで理解が及ばない。怖い。あの作られた笑顔かわの下には、どんな表情があるんだ。人の気持ちに鈍感すぎる記者は、質問をして答えを貰わない限り何一つとして安心する術を持ち合わせていなかった。


 少女は、黙っている。

 作った笑顔で春兎を見つめたまま。矢継ぎ早にぶつけられていく質問に、時折体を震わせながら。息を切らせ、春兎は漸く口を閉ざし、少女と向かい合った。

 日光を遮るようにして、立つビルの為か、陰になっている。熱風が身を包み、汗だくの少女の頬を、新しい汗が伝い、落ちる。

 少女は俯いた。やがて数秒と待たずして、地面に小さな雨を降らせていく。

 俯いてしまった少女へ更に不安を感じた春兎が慌てて顔を覗き込んだ。

「えっ!!」

 今まで不自然な笑みを浮かべていた少女が今は、唇を結んでポロポロと涙を流している。

「な、泣けとは言ってねぇじゃんか!」

 春兎は焦った。子供の涙にはすこぶる弱い。また何かを間違えてしまったのだろうか。

 狼狽し、春兎は、とりあえず謝ろうか、ハンカチを投げるべきかとアレコレ瞳を回して考えた。

 が、結局、彼女を泣き止ませる自分の姿が想像できず、自棄になった春兎は、俯く少女の両頬をつかんで、左右に軽く引っ張った。少女が目を丸くする。

「い、いつもみたいに、ニィって笑えよ!」

ニィ?」

「そうだよ、ニィ! 泣かれるよりこっちのが断然いい!」

 春兎は、自身の頬をつまんで、左右に引っ張ってみせた。

 少女は暫く口を半開きにしながらそれを見ていた。

「アヒャ」

 口端が上がる。それも無意識のうちに。少女は、瞳を輝かせて、十分に広がった自身の口端に人差し指を突っ込んだ。

「ニー!」

 漸く記者は一息ついた。人と真正面から向き直るのなんざ何年ぶりだろうか。こんなに頭を悩ませなくとも、手をつかむぐらい簡単に人の心が理解できればいいのに。

(まあ、それが出来てりゃ今頃記者なんかやってないか)

「まだまだ遠いなあ」

 空に向かって吐く。理想の人間の形は、もっとずっと遠い。

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