第2話

 ⋯⋯気がつくと、俺は見知らぬベッドで寝ていた。

 ガンガンと頭が痛む。

 俺、何してたんだっけ?

 ふと自分の腕を見ると、よく分からない薄く青い色の服と、中途半端に焼けた肌の色の組み合わせが何とも言えない気持ち悪さを放っていた。

 「⋯⋯起きたの?」

 誰かから、声をかけられた。

 「ん、。俺どのくらい寝てた?」

 何故か酷いくまを目の下に携え、10歳くらい老けて見える母さんだった。驚いたような顔で俺を見ていた。

 寝ていないのか? 疲れ果てているみたいだ。

 「みち、な、が?」

 「うん。俺だけど。何?」

 名を呼ばれたので、返事をした。当然の反応。

 その当然を見るや否や。

 「⋯⋯先生! 息子が、息子が!!!」

 「母さん!?」

 母さんが、叫びながら見知らぬベッドのある見知らぬ部屋から飛び出していった。

 しばらくして、母さんが医者らしき男と帰ってきた。⋯⋯と思いきや、すぐその男に別室へと連れていかれる。

 そして、まだ朦朧としたままの意識の中で、たくさんの質問をされた。

 体調は大丈夫? とか。眠る前に何をしていたか覚えてる? とか。

 かなりたくさんの質問をされた気がするが、いまいち記憶にない。寝起きということもある。それに加えて、質問に答えようにもやけに記憶が曖昧なのだ。

 唯一、なんと答えたか覚えている質問がある。『眠る前何をしていたか覚えてる?』という質問だ。

 答えは『いいえ、全く覚えていません』。

 ⋯⋯これが、本当に全く覚えていない。

 そもそも、何故セミが鳴く音がこんなにうるさいんだ?

 俺は中学を卒業したばかり。まだ春真っ只中のはず。

 ⋯⋯ずっとずっと、停滞した春でいいんだとけどな。

 質問攻めにあったあとの病院特有の長い廊下の散歩中。まだしつこくズキズキと痛む頭を自分で撫でながら、俺はそんなことを考えながらぽつりと呟いた。

 「⋯⋯異常気象でセミが増えているだけとか?」

 「動物園からセミが逃げ出しただけかもしれないよ?」

 「動物園にセミはいないだろ⋯⋯⋯⋯⋯⋯ん?」

 「なにおう。広い世界の動物園にはいるかもしれんでしょ」

 「日本以外なら海を渡る前に死んでるだろ⋯⋯って君誰!?」

 歩いてるだけで全ッ然知らない人に絡まれた!!!

 誰だよ、この女の子!!!!

 「やあやあ破音君。誰とはご挨拶だね。と言っても実際にご挨拶な訳ではなく、むしろ挨拶と仮定した場合誤った挨拶とかいて誤挨拶だ」

 「なにがむしろなんだ⋯⋯」

 ピン、とどこか自慢げに人差し指を一昔前の家庭教師キャラみたいに立てながら、謎の女の子は僕にペラペラと話しかけてきた。誰だよ、破音。

 「すまんが、多分人違いだ。俺の名前は高村道永だからな」

 「ほう?」

 ずい、と謎の女の子は僕の方へと1歩近づいてきた。

 「あー⋯⋯どこかで会ったことがあるのかもしれないな。いまさっき起きたんだが、やけに記憶が曖昧でな」

 やけに申し訳ない気持ちで、ぽりぽりと後ろ頭を掻きながら僕はそう弁明した。

 しかし、その弁明に対する女の子の返しは、斜め上に発せられた。

 「会ったことがあるもなにも、あたし達はクラスメイトだろう?」

 「へ?」

 「⋯⋯君、どうしたんだい?」

 *

 「記憶喪失ぅ?」

 絶対に、俺はただ寝ていただけではない。俺の身には何かが起きていた。

 小宮さん(という名前らしい)との会話でそれを確信した俺は、母さんに俺の身に何が起きたのかを問うた。

 そして返ってきた答えが、これだったというわけである。

 「いや、記憶喪失って母さん⋯⋯何言ってんの?」

 「⋯⋯信じられないかもしれないけど、事実なの」

 「嘘だろ⋯⋯」

 「あと道永、あんたさっきから『春の割にやけに暑いな』ってしきりに呟いてるけど、今は夏の真っ最中よ⋯⋯」

 「マジで!?」

 やけにセミがうるさいと思った!!

 しかし、そうか。今は夏なのか⋯⋯俺の記憶ではまだ入学式すらしていないので、入学式前から今までの空白の時間が、俺が記憶をなくしていた数ヶ月なのだろう。

 日付を見ると、8月の13日。夏休み期間中だろうか。

 どうやら、気が付かないうちに俺は入学し、普通にクラスですごしていたようだ。

 小宮さん、とやらの態度を見る限り、いじめられることもなく。

 ⋯⋯そうか。

 俺じゃない俺に、感謝しないといけない。

 ⋯⋯俺じゃない俺、か。要するにそれは、記憶喪失をしている間の、もう1人の俺で。

 「母さん、記憶がない時の俺ってどんな感じだった?」

 それが気になってしまうのは、人の性というものだろう。

 「⋯⋯とにかくお母さんとは口を聞いてくれないし顔を合わせてくれなかったから、ただただしんどかったわ」

 「あー⋯⋯」

 存ぜぬところでまさかの親不孝。

 やぶ蛇とはこのことか。

 記憶が無い時の俺はあまりいい印象を持たれていないんだな。

 なんかそれって、少し悲しいことかもな。

 

 「でもまあ、それでもお母さんの息子には変わりないからね。絶対に姿が見られないように朝食昼食夕食、全て用意してお見せしたわ。その他家事も基本隠れながらしてたわ。お母さん、自分の思わぬ才能にびっくりしちゃった」

 

 「なんだそれ」

 ぶはっ、と俺は吹き出した。

 家の中でコソコソしながら家事をしている母さんを思い浮かべると、面白すぎるのだ。

 「え、ちょっと道永? あんたなんで泣いてるの?」

 「へ? 泣いてなんか」

 そこまで言葉を紡いで初めて気付いた。

 今、俺は大粒の涙を零し続けているのだ。全く気が付かなかった。 

 なんで面白いこと聞いたのに泣いてるんだ?

 なんで流したことにすら気が付かない涙は止まらないんだ?

 なんで?

 

 なんで、俺はこんなに胸が痛いんだ?

 

 「あれ⋯⋯なんでだろう、ね」

 ぐしぐしと必死に手の甲で涙を拭うが、それでも涙は零れ落ちてくるのをやめない。

 「もう、記憶が戻ったばっかりでちょっと混乱してるのかもね。長々話して悪かったね、ゆっくりおやすみ」

 「うん⋯⋯ごめん、母さん」

 そう言って、母さんは病室から出ていった。

 刹那。

 名状できない痛みが、頭に走った。

 声が、聞こえた気がする。

 『あと少しだけ、頼む』と。

 ⋯⋯あぁ、そうか。

 お前が、俺を、救って____。

 ______________。

 _____________________。

 ⋯⋯痛みが引くと。

 は数時間ぶりに意識が戻り。

 朦朧とした意識を覚醒させるべく、目を擦ったあと。

 ぐるり、と辺りを見渡し。

 

 「ラストに線香花火は欠かせない、よな」

 

 歩き出す。

 目的地は、彼女の元。

 儚い儚い、いつ地に落ちてもおかしくない輝きを放つ命を携えて。

 ミンミンミンミン、と。

 セミは、僕の夏のグランドフィナーレを急かすように命を叫んでいた。

 *

 命というのは、酷く儚いものだ。

 病室の窓の外で鳴くセミを見ながらそう思う。

 月刃夜は、死んだ。

 消えたのではない。死んだのだ。彼女の存在も、1つの生命なのだから。

 彼女が遺したのは、私の中に残る彼女の記憶と、彼に向けたこの手紙だけだ。

 ⋯⋯しかし、それだけでも幸福なのかもしれない。

 彼の方には、湖心破音君⋯⋯もう1人の彼の記憶は残っていないようだった。

 ⋯⋯あたしが好きだったのは、湖心破音だ。あの生を諦めたような目に、何故か惹かれたのだ。

 しかし、あたしは存外気が多いのか。高村君にも惹かれるものがあった。

 あたしは、湖心君も、高村君も知っている。どっちの彼を好きでいるのも可能な、贅沢な立場だ。

 あたしはその贅沢をさらに堪能したいのか、どちらにも好きという思いを抱いていた。

 ⋯⋯少し違うかもしれない。

 湖心君を好きなのは、月刃夜。君の方、だな。

 あぁ、ならば。あたしは高村君にこれを見せる義務があるな。

 夜の最後の言葉を。

 

 「なーに似合わないアンニュイな顔してるのさ、小宮」

 

 「へ!?」

 後ろには、いるはずのない、今思い浮かべたいたはずの人が立っていた。だって、この声で、この親しさで、小宮、って呼び方は。

 「⋯⋯ごめんね、ムードも何も無くて。僕には時間が無いんだ」

 「あ、あ」

 彼しか。いないんだから。

 

 「やぁ。1ヵ月ぶり、小宮。夜。最後に逢いに来たよ」

 

 「はいん、くん」

 死んでいなかったのだ。彼は。

 最後の最後に、一瞬だけ咲いている、弱い、弱い花だ。

 その最後の時間を、あたし達のために咲いてくれる。

 こんなに幸福なことはもうないだろう。

 「⋯⋯⋯⋯」

 「小宮?」

 ⋯⋯その時間は。

 あなたのためにあるのだね、夜。

 じゃあ、あたしにできることはこれだけだ。

 「なに?これ」

 あたしは、無言で夜が遺していた手紙を手渡した。

 渡したかっただろう。自身の手で。

 それが叶わないから。

 今回だけ、代理でしてあげるのだ。

 感謝するといい、夜。

 「夜から、かな」

 その問いに、あたしは無言を返す。

 それを肯定と受け取ったらしい破音君は、丁寧に封を破り、読み始めた。

 どうか読み終えて欲しい。

 散る前に、夜の想いを。

 *

 『湖心君へ

 貴方がこの手紙を見ることは無いでしょう。私に手紙なんて渡す勇気があるとは到底思えませんし。

 ですから、思っていることを少しだけ、湖心君に綴ろうと思います。

 まず、流石に記憶喪失を患う患者に毎日お見舞いに来るのは狂っていると思います。湖心君も記憶喪失でなければ出入り禁止にしているところです、もう。というか何で貴方はそんな自由に歩き回れるんですか。ずるいです。記憶喪失期間が長すぎるからですか? それが凄く羨ましいです!!

 それから、私を救うと言ってくれたのは嬉しいですが、貴方に少ない余生を楽しむと言う発想はなかったのですか。私はとても⋯⋯その場で消えてもいいと思えるくらいには嬉しかったですが、少し不安にもなりましたよ。これでいいのかな、って。女心というものがわかっていません。学んでください。

 最後に。ほんの少し未来の私が伝えるか分かりませんが。

 私は、貴方のことを、湖心破音のことを。本気で、愛していますよ。恥ずかしがりな私のことですから、好き、なんて言葉で済ましているかもしれませんけど。愛しているんです。ほかの誰にも替えられない、貴方しかいない。それ程に貴方を愛しているんです。

 ですから、湖心君。

 もし、これを読むことがあれば、1回でいいです。キスをして欲しいんです。

 絶対、これは私の口から言うことは無いです。恥ずかしすぎますし!!

 もし、貴方がキスをしてくれると言うならば。

 たとえ私だけ死んでも、きっと帰ってきますから。

 貴方の短い生の1番を貰いに、意地でも帰ってきますから。

 死んでいたら、たった一言、私の名前を呼んでくれたら、帰ってきますから。

 奏、って。呼んでください。

 よろしくお願いします。

 8月吉日 奏』

 

 夜らしい、丁寧な文字と文体に、興奮気味に書いたのか少しまとまらない文章を読み終えて、唯一この文章で、間違っている部分を読む。

 

 「違うよ⋯⋯君は、夜なんだよ。たった1人の、月刃、夜なんだ」

 

 「えぇ。知っていますとも」

 

 手紙から目を離し、小宮の方を見ると。

 

 落ち着いた笑みを浮かべて、そこにはが座っていた。

 

 それは、もう深けかけている、短い夜かもしれないけど。

 

 たった1回、2人の持つ儚く光る線香花火を、重ね合わせることだけなら簡単に出来た。

 

 「ん」

 

 「⋯⋯破音、キス下手くそです」

 

 「初めてだからな」

 

 「ふふ。奏に嫉妬されちゃいます」

 

 「分かっててやったくせに。告白までしてそんなこと気にすんな」

 

 「気にしてませんよ。フリです、フリ」

 

 「悪い女だ」

 

 「モテる男の罪なんですよ」

 

 ぱたん、と。

 

 夜の小さな身体がベットに倒れ込んだ。

 

 彼女の線香花火は、ここで落ちたらしい。

 

 僕の持つ線香花火も、やがて落ちる。

 

 落ちる前に、せめて地に近いところへと。

 

 僕もベットに座り、備えた。

 

 ⋯⋯長く光った線香花火が勝ち、なんて。きっとナンセンスなのだ。

 

 美しいものは、散ってからも美しくあるべきだから。

 

 横に眠る、もう起きないであろう彼女のような美しさを携えていないのなら。きっとそれは、初めから美しくなどはない。

 

 だから、少しだけ早く散った線香花火が。

 

 いつまでも美しく在らんことを。

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