ささみサラダ・九鉢目
中村消防署はJRナゴヤ駅の西側、国道六十八号線、
待機室のスピーカーが、突然鳴り響く。
「中村区○○町、ホテル・ニューオオタミで火災発生。
繰り返す」
恭司たちの顔から笑みが消え、スクッと立ち上がった。
~~♡♡~~
夕暮れ時のホテル前は大混乱であった。
ビル全体から黒煙が立ち込め、オレンジ色の炎がいくつも壁をなめている。
通りは野次馬があふれ、国道では行き交う車が徐行して渋滞を起していた。
消防車と救急車のサイレンが、窮地に現れる正義の騎士団のファンファーレに聴こえ、ざわつく人々に安堵感を与える。
だが燃え盛る炎は敵対するがごとく、勢いを増していた。
渋滞している国道に、はしご車、ポンプ車、救助車に高規格救急車がようやく姿を現すと同時に、警察のパトカー数台もサイレンを鳴らして駆けつけた。
警官たちによりすぐさま周辺を囲うように、「立入禁止 KEEP OUT」の非常線テープが貼られる。
警官の誘導により消防車がホテル前に移動されたときには、ホテルの窓という窓から炎があざ笑うかのように吹き上げていた。
〜〜♡♡〜〜
煙は濃度を増し、人体に有害な毒煙となっている。
「つぐみっ、大丈夫か!」
「わたしは平気よ、おにいちゃん。
それよりもどうしてスプリンクラーが作動していないのっ」
彦一は姿勢を低くしたまま、煙が充満している天井をにらんだ。
「おおかた手を抜いた改装工事してんだろ。
よし、俺たちも退散するぜ!」
直後だ。
バキバキッと大きな音とともに、天井が崩れてきた。
「つぐみーっ!」
彦一は我が身を挺し、つぐみの身体の上へ覆いかぶさった。
コンクリートの内部を通っている鉄筋が灼熱の炎で真っ赤に熱せられ、周囲のコンクリートを破壊し始めたのだ。
つぐみの悲鳴も、崩れるコンクリートの音にかき消される。
毒煙以外にも、崩れ落ちた天井が床に散乱して新たな土煙を巻き上げた。
「お、おにいちゃん!」
つぐみは咳き込みながら、背中を守ってくれた彦一を振り返る。
「つぐみっ、怪我してないか!」
「わたしは大丈夫!
あっ、おにいちゃんっ」
彦一の脚にコンクリートの塊が乗っているのだ。
つぐみは「誰か、誰かいませんかあ! 助けてくださーいっ!」と涙まじりの大声で叫んだ。
だがこの階にいたひとたちは、ふたりが避難させている。
「つぐみ、にいちゃんはいいから、さあ、早く逃げろ」
彦一は苦痛に顔を歪めながらも、笑いかけようとする。
「いやっ!
おにいちゃんを置いて逃げるなんて、絶対にいやっ!」
「つぐみ、にいちゃんは大丈夫だ。
なあに、這ってでも逃げてやるさ。
なっ、良い子だから、にいちゃんの言うことをきくんだ」
つぐみは涙を手の甲でぬぐうと、キッとコンクリートの塊を
「わたしがなんとかするっ。
何があっても、おにいちゃんを助けるから!」
しゃがんだ姿勢のまま彦一の脚部へ移動し、精一杯の力をこめて塊を持ち上げようと試みる。
だが、強力な磁石で床に吸い付くように動かない。
彦一は苦痛に顔を歪める。
エレベーターから、炎の触手がゆっくりと現れた。
~~♡♡~~
「ななぼし食堂」のテーブル席。
「どうでえ、ひばり。
美味いか」
「うーん、とっても美味しいですぅ。
文ちゃんも一緒にどうぞぉ」
ひばりは天津飯を口に放り込み、切り身の煮つけを差し出す。
店内は八割がたお客さんで埋まっていた。
ガラッと入口が開き、血相を変えた
「おおっ、まいどの!」
「どうしたい、八百屋」
大将は荒い息を吐きながら、ふたりの座るテーブルに手をつく。
「大変だ、大変!
国道沿いにある、なんとかってホテルが燃えてるってよっ」
「燃えてるって、火事かよ」
文太の目つきが変わる。
「そうだよっ。
今日はたしか彦ちゃんが、あんたの代わりにホテルへ行ってるって言ってなかったか」
文太は立ち上がった。
ひばりはごくりと口中のご飯を飲み込んだ。
「ぶ、文ちゃん!」
文太は厨房から顔をのぞかせた吟さんを振り返った。
「ななぼしのっ、代金はつけといてくれや!」
言うなりひばりと共に店を飛び出した。
~~♡♡~~
ポンプ車から勢いよく水流がほとばしる。
はしご車からも消火ホースを使い、ホテルに向かって大量に放水している。
応援の消防車がさらに加わり、幾本もの水しぶきが上がっていた。
防火衣の上から呼吸器装着時現場
「現状、まだ建物内に取り残された人間がいるのかどうかは不明だっ。
各自、非常階段を使って探索するように」
「了解!」
そのなかに、恭司はいた。
防火ヘルメット、防火衣、空気呼吸器の総重量は約十八キロある。
相当な負荷がかかる。
だからこそ普段から肉体を鍛えているのだ。
恭司たちは呼吸器を顔面に装着し、燃え盛る炎のなかへ飛びこんでいった。
~~♡♡~~
つぐみは歯をくいしばり、コンクリートの塊を持ち上げようと踏ん張る。
充満した煙は容赦なく呼吸の邪魔をしてくる。
咳き込みながらも、つぐみは必死に力をこめた。
「つぐみ、いいから。
にいちゃんは大丈夫だから。
おまえにもしものことがあったら、天国にいるおかあさまに申し開きできないじゃないか」
彦一は努めて冷静につぐみを説得する。
「いやだいやだっ」
「いつもはちゃんと、にいちゃんの言うことを聴くのに、どうして素直になれないのよ」
「うるさい!
わたしは絶対におにいちゃんを助けるんだから!」
そこへひとすじの光が伸びてきた。
「誰かいますか!
救助隊です!」
ヘルメットの正面に取り付けたライトの光が、ふたりの姿を浮かび上がらせた。
「こ、ここです!
ここにふたりいます!」
つぐみは叫んだ。
「えっ、ひ、彦一さん?
それに、つぐみさんじゃないですか!」
その消防士は顔から呼吸器を外し、駆け寄ってきた。
「恭ちゃん!」
彦一は驚いた。
恭司はすかざず状況を把握する。
すでに炎は大広間まで広がってきていた。
「彦一さん!
必ず救助します。
でも時間がない。
さきにつぐみさんから脱出してもらいますっ」
正しい判断であった。
「いやです!
おにいちゃんを助けてくださいっ」
「このままでは、つぐみさんまで巻き込まれますっ。
ここは救助隊のプロである、ぼくにしたがってもらいます!」
恭司は彦一の顔をのぞきこんだ。
「いいですね、彦一さん。
ぼくは必ずもどってきます。
それまで、絶対に負けないで!」
「恭ちゃん、早くつぐみをお願いします」
彦一は両手で拝む。
大事な大事な妹を、どうか助けてくださいと。
恭司は口元を引き締め、うなずいた。
「いやだいやだっ、おにいちゃーん」
つぐみは子供のように駄々をこねて泣き叫ぶ。
恭司は中腰で、つぐみの腹部に肩を入れて立ち上がる。
まるで羽毛布団を担ぐように軽やかに。
すぐさま恭司は非常階段へ走った。
「恭ちゃん、たのんだよ」
彦一は煙幕に消えていく後ろ姿を見ながら、意識が遠くなっていくのを感じていた。
~~♡♡~~
文太とひばりが商店街の通りを、かなりのスピードで走って行く。
みどりは薬局の入り口で、液体洗剤を段ボールから出しているところであった。
「あらっ、どうしたのよ、ふたりでランニング?」
文太はまっしぐらに走り去って行くが、ひばりはその場駆け足でことの次第を手短に伝えた。
みどりは段ボールを足元に落とす。
「えーっ!
彦ちゃんとつぐみちゃんがっ」
言うなり走り出す。
「ああっ、みどりちゃーん、待ってぇ」
ひばりは後を追いかける。
「どいてどいて、どいてぇ!」
通りの人ごみのなか、みどりは白衣をはためかせながら現場へ向かった。
つづく
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