其の二十「おオっ、西郷どん!」

 一月九日、子の三刻――いまでいう、午前零時半頃。

 広沢真臣の屋敷の縁側を、音もなく、滑るように歩む三つの影があった。いずれも覆面頭巾をしている。先頭の影は、迷うことなく屋敷の一室へ向かっている。残るふたつの影は、きょろきょろしながらそのあとに従う。

 桐野利秋こと中村半次郎と――風待一党の生き残りの、ふたりの士族であった。

 半次郎は決行間近になっても時正と明村が戻ってこないので、次善の策を弄した。すなわち、風待らが潜伏していた武家屋敷を訪れ、仲間を失って今後の身の去就に思いなやんでいたふたりの士族をそそのかし、広沢暗殺に同行させたのである。さしもの人斬り半次郎といえども、見張り役などを考慮すると、ひとりで暗殺を決行するのはためらわれた。

 当然、半次郎は身分を伏せていたから、ふたりの士族は彼を怪しまないではなかったが、死せる仲間の遺志を継いで広沢を暗殺できるうえに、金までもらえるとあっては、断る理由はなかった――彼らにとって、これが吉と出るか凶と出るかは、いまさらいうまでもないことだ。

 三人は、一室の前で立ち止まる。半次郎は障子戸に背をぴったりとつけると、左手の指先でいくつかの穴を開け、中をうかがう。布団が敷かれている。二箇所、盛りあがっているところがある。大きいほうが広沢で、小さいほうが妾――かねだ。添い寝している。

 半次郎は辛うじて舌打ちを堪えると、ふたりの士族に目配せをし、抜刀させ――障子戸を一気に引き開けた。魔風のごとく流れ込んだふたりの士族は、布団越しに広沢を滅多刺しにした。それを見届けると、半次郎も室内に入った。彼の鼻孔を、血と汗と栗の花の匂いが混ざった、せかえるような臭気が突いた。

「……?」

 半次郎は左手を懐中の斬奸状に伸ばしかけて、違和感を覚えた。

 たったいま斬ったばかりで、しかも死体は布団に包まれているのに、かくも血の臭いが濃いのは一体?

「どけ!」

 半次郎は声をひそめるのも忘れて叫ぶと、荒い息をついているふたりの士族を突きとばし、布団をはいだ。果たして、そこには広沢の死体と、かねの裸体があった――しかし、敷き布団に寝小便めいた染みがある!

「まさか!」

 半次郎は広沢の死体を引っくりかえした。その拍子にかねが身動ぎしたが、半次郎は目もくれない。というより、彼は広沢の股間から目を離せなかった――陰茎の生えているべき場所に、切り株めいた断面があったからには!

 ――きゃ、きゃつ!

 このとき半次郎を打ちのめしたのは、河畑に出しぬかれた事実でも、時正と明村の死でも、宗我兵衛の裏切りでもなく、ひとりの人斬りとして敗北した事実だった。

 半次郎もまた、広沢の陰茎を斬って殺すつもりだった。それこそが、斬奸状をもっとも引きたたせる殺し方だからだ――そう思っていた。

 しかるに、河畑深左衛門は――ただ陰茎を斬っているのではない。女陰に挿さった状態の陰茎を斬って殺している! 断面から、赤黒い血に混じって白い粘着物が垂れていることからわかる!

 ただ陰茎を斬るだけとは、難度も見映えも段違いだ。これこそ、斬奸状をもっとも引きたたせる殺し方に相違ない! だが半次郎には、交合中の男の陰茎を斬るなどという離れ業は思いつきすらしなかった……しかも見よ、根菜めいてつんつるてんとした切り口の美しさよ! かつて幕末の四大人斬りのひとり、河上彦斎かわかみげんさいは、人斬りとは野菜を斬るようなものだと嘯いたが、これこそがこの境地なのか?

 ――おいは、人斬りとしてもきゃつに負けた!

 半次郎は屈辱のあまり、衝動的に両の拳を握りしめかけた。そのとき、左手のうちで鳴いたものがある。

 斬奸状だ。

 斬奸状には、広沢の日和見主義と旧態然とした淫蕩いんとうきわまる私生活を弾劾し、彼のような公人がいるからこそ明治政府は腐敗し、人心を遠ざからしめるに至ったゆえ、天誅をくだす由が書かれている。西郷隆盛の出仕を見計らったような広沢の暗殺と、この斬奸状が合わされば、天然自然に政府要人は暗殺の黒幕が西郷であることに思いあたり、今後、彼に逆らわぬようになるだろう――そして薩摩の、いや西郷の正義のもと、明治政府は生まれ変わる。

 つまり、斬奸状なくして大義は果たされない。

 しかし!

 ――こ、このおいに、人斬り半次郎ほどの者に、河畑の尻馬に乗れっちゅうのか!? 人斬りとして負けながら、きゃつの作った死体をありがたく使えっちゅうのか!?

 半次郎は大義と己が正義とのあいだで葛藤していた。彼の正義とは、薩人の薩人による、日本国民のための明治政府の改革にほかならない。その栄光の過程に異物があってはならない――ましてや、夢も正義も大義もない、刹那の快楽のために暗殺をくりかえす河畑の助けなど!

 いまここに斬奸状を残せば、薩摩は未来永劫、河畑ごときに借りを作ることになる! なお一層の腹立ちは、その死体のありさまから、半次郎が殺した場合よりも大きな効果が見込まれるであろうこと! 瞼の裏に、河畑のにやけ面が浮かぶようだ!

 目的のためには手段を選ばぬ西郷であれば、迷いなく斬奸状を残したことだろう。しかし、怒りと屈辱のあまり、半次郎はそこまで冷静になれなかった。

 ……しかも、の悪いことに、半次郎には葛藤を乗りこえるための時間は許されなかった。

 不意に、女の声が聞こえてきたのである。

 最初、半次郎はかねが目を覚ましたのかと思った。それで反射的にそちらを見たが――半次郎の眼前に広がる光景は、彼の想像を絶したものだった!

「お、おはんら……な、なにをしちょるか!」

 ふたりの士族が、かわるがわるかねを犯しているのだ!

 半次郎は知らない。突きとばされたふたりの士族が、文句のひとつもいわずに黙ったままであった理由を。

 半次郎は見ていない。彼が広沢の体をひっくりかえしたとき、身をよじったかねの蜜壺から、濡れそぼった肉棒がひりだされ、笑う月の光のもとでてらてらと輝きながら、湯気をあげるさまを――その一部始終を見たふたりの士族が、ぽっかりと開いたままひくつく陰唇から美味そうに垂れるつゆに、一物をいきりたたせたことを!

 ただでさえ人を斬って興奮しているところに、かくのごとき淫乱きわまる据え膳を置かれて、食わぬ彼らではなかった!

 半次郎はふたたび葛藤した! いますぐにでも、この痴れ者たちを斬ってしまいたい! しかし、ここで斬るのはまずい。とにかく、即刻この乱痴気騒ぎをやめさせて、ここから離れなければ――

 そのときだった。縁側に面した障子戸が開いたのは。

 そこに、ひとりの若い男がいた――半次郎は知る由もないが、練造だった。

 外から吹きこむ冷たい夜風で、時が凍ったようだった。半次郎も、ふたりの士族も、練造もぴくりとも動かなかった――かねだけは止まっていなかった。腰を振りながら、熱っぽい喘ぎ声をあげていた。

 ――練造が身を翻す!

「ま、待てっ!」

 半次郎は追いかけようとするが、叶わない。目の前に、絡まりあう三人の男女がいるからだ。

「ばかもんどもめがっ!」

 半次郎はふたりの士族を殴りとばし、かねを蹴りころがして道を開く! だが、時すでに遅し! 練造の姿は闇に紛れようとしている! 半次郎は脇差しを抜き――投げた!

「――ううむっ!」

 闇の向こうから、くぐもった苦痛の呻きがあがった。

「追え! 見られたぞ!」

 半次郎はふたりの士族に命じながら、我先にと庭に飛び出した。夢から醒めたように目を白黒させていた彼らも、「見られた」という言葉で正気を取りもどし、慌てて立ちあがろうとしたが、転んだ。脱いだ袴が足に引っかかったのだ。彼らはいまだに半裸だった。

 そのあいだに、半次郎は塀まで辿り着いていた――そう、辿り着いてしまったのだ。

「ば、ばかな!? どこへ消えおった!?」

 先ほどの若い男を見いだすことなく! しかも、血痕すら見あたらぬ!

 半次郎は塀沿いを走り木戸を見つけると、躊躇なく開け、裏通りの左右を見た。そこにも、半次郎が探しもとめる姿はない。ただ、闇が責めるように黙りこくっているだけだ。

「ばかな……」

 若者の背には、半次郎が投じた脇差しが突きささっているはずだ。にもかかわらず、その姿がなく、血痕すらないということは、背中から脇差しを生やしたまま逃げおおせたということか? ――到底信じられぬ!

 では、まだ庭内にいるのか? しかし、押っ取り刀で駆けつけたふたりの士族にただすと、彼らは恐縮しながら首を振った。半次郎を探して庭内を駆けまわったが、どこにもいなかったというのだ。

 もはや、考えられることはひとつしかない。目撃者には仲間がいて、その助けを得て逃げたにちがいない。半次郎はそう結論づけざるをえなかった。

 目撃者は広沢の死体と、そのそばに立つ半次郎と、ふたりの士族に強姦されるかねを見ている。彼は、下手人は半次郎たち三人だと思ったことだろう――本当は、河畑深左衛門なのに! 河畑に出しぬかれ、時正と明村を失った挙句、先に広沢を斬られたばかりか、その罪を着せられるとは!

 半次郎の腸は煮えくりかえり、頭は赤熱した。そのとき、怒りのあまりに知らず握りしめた拳の中で、音を立てたものがある。半次郎は左手のうちを見た。悲しげにくしゃりと歪んだ、斬奸状があった。

 半次郎は目の醒めるような思いがした。

 ――「毒を食らわば皿まで」。ここまで恥をかかされたんじゃ。いまさら河畑の尻馬に乗って斬奸状を残すくらい、なんじゃっちゅうんじゃ。いや、そもそも、おいの正義や恥など大事の前の小事ではなかか?

 それはひとりの男の克己こっきであったかもしれない。

 ――それに、ここまで失態を犯してなお斬奸状一通残せなかったとなれば、三国一の笑い者じゃ。

 とはいえ、そう簡単に人が変わるわけもない。半次郎は避けうる未来の恥をもって己を鼓舞すると、木戸をくぐって庭に戻ろうとした。ふたりの士族が、よくわかっていない顔を見合わせる。

「――ぐっ!?」

 そのとき! 半次郎は三度、葛藤に襲われることになった! ふたりの士族をかえりみる!

 ――待てよ? さいぜんの男は、こやつらがかねを強姦しておるところを見ておった! おいが斬奸状を残し、薩摩の影をほのめかしたらどうなる? 長人も土人も肥人も、薩人がかねを強姦したと思うに決まっちょる! そいは薩摩の恥! 薩摩の力は強まるどころか、むしろ弱まるのでは!?

 ふたりの士族はのけぞり、後ろに蹈鞴を踏んだ。半次郎の形相が赤くなったと思えば青くなり、青くなったと思えば赤くなったからでもあるが、なにより、その血走った目に気圧されたからだ。

 ――じゃっどん、斬奸状を残さねば、広沢の死は見せしめにもならぬ……さりとて、薩摩に強姦の濡れ衣を着せるわけにも……おオっ、西郷どん! おいはどうしたらよかか!?

 進退きわまった半次郎を救ったのは、思いもよらぬ声だった。

「と、殿さま!? 奥さま!?」

 女の声であった。それは屋敷のほうからあがった――広沢の下女が、死体を発見したのだ!

 ふたりの士族がぎょっとする一方、半次郎は呆気にとられていた。「鳶に油揚げをさらわれる」……そんな諺が彼の脳裏をよぎった。

 広沢邸が、にわかに騒々しくなってゆく。

 そのありさまにはっとして、半次郎は拳を震えるほど握りしめた。その中にある、斬奸状への未練を断ちきるかのごとく。斬奸状はただ、音を立てて潰れ、捻じまがり、しわだらけになった。

「……なにをぼうっとしちょるか――ゆくぞ!」

 半次郎はふたりの士族を睨めあげ、吐きすてると、駆けだした。ふたりの士族は、しかめっ面を見合わせてからあとを追う。

「なあ……あれは、よかったな」

「うむ……思わぬ役得だった」

 などと、しみじみ語りあいながら。まもなく彼らは風待のあとを追うことになるが、それは取るに足らないことだ。

 取るべきことは、ほかにある。

「……行ったか」

「おう」

 半次郎たちが去ってすぐ、広沢邸をとりまく林の奥深く。枝葉の屋根に覆われ、幹の屏風に囲まれて、月影一筋ささない闇の中。木々のそよぎに紛れてふたつの声が流れた。いや、声だけではない。威嚇する獣のような息遣いもまた。

 声の主は、河畑と宗我兵衛であった。ふたりの足下で踏み潰された虫みたいに這いつくばっているのは、練造だ。その背には、柄が生えている――半次郎が投げた脇差しの柄が。

「運が悪かったな、練造さん」

 河畑が、たいへん残念そうに切りだした。

「まさか、賊と鉢合わせすることになろうとはよ。まあ、それは向こうにとっても同じことか。く、く……」

 自分でいって、自分で笑う。

 練造は震えながら、あたかも持ちあげるように顔を上に向けると、河畑を見上げた。沸騰したような目玉で。

 そして、残り滓をあらんかぎりの力で絞りだすようにいった。

「う……裏切り、者……」

 河畑は肩を竦めて首を振り、

「傷つくぜ。それは心得ちがいという、も、の……」

 と弁明をはじめたが、それは尻すぼみになっていった。訝しんだ宗我兵衛は、闇を見通す目で河畑を見上げる。河畑の目は、ある一点に釘付けになっている。その視線の先を追ってみると、練造の煮えたぎる目があった。いや、いまや噴きこぼれている――泣いているのだ!

 練造は泣きじゃくる子供のように訴えた。

「あの女……俺だけだと、いっていたのに……強姦されていたのに……あんなによさそうに、よがり狂いやがって……畜生――」

 そして、突っ伏した。死んだのだ。

 河畑は練造の死体の腹の下に爪先をもぐりこませると、蹴りあげて引っくりかえした。そのかたわらに膝をつくと、死体の衣類を剥く。宗我兵衛は狂人を見る目を河畑に向け、おののいている。

 はたして、あらわになった練造の陰茎は死してなお屹立し、その先から涙を流していた。

 宗我兵衛が狂人を見る目を練造の死体に向けていると、不意に、河畑が噴きだした。宗我兵衛は狂人を見る目を河畑に向ける。すると河畑は、死せる練造の墓碑めいた魔羅を指さし、肩を揺らしながらいった。

「いや、なに……これじゃあ、広沢に寝取られてもしようがねえな、とよ――」

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