其の十四「問答無用――」

「何故、この店に?」

「なに?」

 河畑が猪口を乾して問う。時正が猪口を乾して聞きかえす。ふたりの猪口に、ふたりの江戸っ子が徳利から酒を注ぐ。まるでわんこそばだ。ちがうのは、給仕が入れかわり立ちかわりすることくらいである。面白がった江戸っ子たちが、順番に酒を注いでいるのだ。

「いや、なに……黙々と飲んでも面白くないのでな。して?」

 河畑が猪口を乾して問う。時正は猪口を傾けながら考えた。

「……やけに繁盛しておると思ってのことじゃ。深い意味はなか」

「ははあ」

 時正が猪口を乾していう。河畑が相槌を打っているあいだに、また二個の猪口は満たされた。

「このあとは?」

「さて……とんと決めてなか」

物見遊山ものみゆさんかい」

「……そげなところじゃ」

「あやかりたいね……時に――」

「待て、待て!」

 このあいだも、ふたりは猪口を乾しつづけている。一問一答一杯といったところであったが、ここで時正が待ったをかけた。

「もう降参かい……」

「ばかめ、そげなはずがあるか。さっきから、おはんばかり問うておるではなかか。おいにも問わせんか」

 とはいったが、実のところは嘘を考えるのが面倒臭くなっただけだ。すると河畑は、猪口を乾して、

「では、お前さんも問うがよい」

 といった。

 ――さて、そうはいったものの、なにを問うべきか?

 時正は猪口を乾しながら考えた。まさか、河畑が誰を広沢真臣暗殺の依頼人に仕立てあげようとしているのか、問うわけにもゆかない。さりとて、物見遊山客よろしく東京府の見所を問うても仕方がない。嘘を考えるのが面倒臭くなって切りだしたはずが、より面倒臭いことになっている。

「……ここの勘定はおはんがもつと聞いたが、何故じゃ?」

 ようやく考えついた問いは、無難きわまりなかった。

「お前さんは運がよい」

「なに?」

 はからずも河畑の金で時正が酒を飲めていることは、なるほど幸運といってよいかもしれない。しかし、河畑は猪口を乾すと、全然ちがうことをいった。

「立てつづけに、江戸の名物をのあたりにしているんだから――これが、宵越しの銭は持たぬ、というやつよ。泡銭があったものでな」

 時正はすぐに、泡銭の出処に思いあたった。川路利良は依頼を取りさげたとき、河畑に手切れ金を渡したという。ばかげた情けだ。それにちがいないが、してみると、河畑は官費――使途不明金とはいえ――で、かかる乱痴気騒ぎをしていることになる。

 時正は、自分が密命を帯びた身でありながら、いまだに官費濫用の役得にあずかれていないこともあって――もっとも、桐野利秋こと中村半次郎の目が光っているから、あずかれても大した役得ではないだろうけれど――河畑に逆恨みの念をいだいた。

 一方で時正は、河畑がなにかを隠していることも承知している。この酒宴は、広沢真臣暗殺の依頼人探しに連なるものであるはずだ。まさか、この江戸っ子どもに酔った勢いで依頼させるつもりではあるまいが――

「今度はおれの番だ……お前さん、いつ江戸にやってきたんだい」

 河畑は問い、猪口を傾ける。いつのまにか、代わりばんこで問うことになっている。だが、時正はそれをよしとした。嘘を考えるのも面倒だったが、問いを考えるのも思いのほか面倒だったからだ。

「昨日じゃ」

 時正は答え、猪口を傾ける。これは本当のことだ。

「そうかい……では、今度はお前さんの番だ」

「む」

 時正は乾した猪口を置き、沈思黙考した。江戸っ子ふたりが、二個の猪口に注ぐ酒の流れを見ながら。江戸っ子ふたりは酒を注ぎおえると、見物の輪の中に戻ってゆく。時正はまだ考えている。一体、なにを聞けば河畑の腹のうちがわかろうか……

 そのときである。

「どしたい、さっさと飲まねえか!」

「さては、もう酔っぱらったのけえ? 薩人も大したこたあねえなあ!」

 声は目の前ではなく、うしろから飛んできた。野次だ! 時正は反射的に振りかえって睨みを利かせたが、見物人は大勢いて、誰がいったものかまるでわからない。

「とのことだが……」

 今度は河畑の声だった。見れば、河畑は弥次郎兵衛やじろべえみたいにゆらゆら揺れている。その笑顔は赤く、歪んだ口角や吊りあがった左眉もあいまって、梅干しのようだ。河畑は勝ちほこったようにいった。

「おれの酒が飲めないのかい? ……もう?」

「……ばかが」

 時正は猪口を奪うように取ると、大口を開け、中身をぶちまけた。そして棋士の一手のごとく、猪口を座敷に叩きつけながら、

「やはい、おはんに問いたかこつはなか」

 といった。

「どっこい、おれはお前さんに問いたいことがある」

「好きにしろ。そのかわり……」

「そのかわり?」

 時正は方針を変えることにした。もとより、河畑を酔いつぶすためにはじめた飲みくらべだ。この薩摩きっての「さけのん」たる時正が、こともあろうに時間稼ぎの謗りを受けてまで問いを考える必要はない。答えにしても同じだ。河畑に嘘かまことかを知るすべはないのだから、嘘は適当でよいし、咄嗟に思いつかなければ真を――さわりのない真をいえばよい。なにより、問いや嘘を考える時間は河畑を利する。休憩時間にほかならないからだ。

 むしろ――

「おいが乾すまでに問え……問うたら、乾せ」

 むしろ、自分はもっとはやく呷って、河畑を煽るべきだ。河畑はあきらかに酔っている! 一方、自分はまだまだ飲める……いまこそ、しかけどきだ!

「よかろう。さて、江戸には誰を頼って来たんだい……おや?」

 河畑が頷き、問いながら猪口を持ちあげたとき、すでに時正は猪口をおろしていた。その底に一滴の残りなし。

「親類じゃ」

 時正は息を吐くように嘘をつくと、いまだ芋の果肉のごとく白い頬を歪ませた。

「どげんした……もう飲めなかか?」

「ばかな……」

 河畑は猪口を高く掲げると、大口を開け、中身をぶちまけた。そして乾した猪口を薙いだ。時正も空の猪口を薙いだ。江戸っ子たちは一瞬顔を見合わせたが、すぐに心得て、ふたりが掴んだままの猪口へ徳利を傾けた!

「宿は?」

 河畑が問いながら、手首を返して猪口の中身を口の中へ投げいれる!

「柳橋」

 時正が嘘――知っている地名をいいながら、両頬をすぼめて猪口の中身を吸いつくす!

「時に、生まれは?」

 河畑が問いながら、猪口を迎えにいき中身をすする!

「薩摩は鹿児島」

 時正が真をいいながら、猪口を乾すや逆の手にも猪口を持つ!

「ここに来るまでなにを?」

 河畑は応じて、問いながら両手の猪口の中身を飲む!

「物見遊山」

 時正が嘘をいいながら両手の猪口の中身を飲む!

「どこへ!?」

 河畑が飲む!

「新橋!」

 時正が嘘――知っている地名をいいながら飲む!

「この勝負を終えたら!?」

 河畑が飲む!

「帰る!」

 時正が真をいいながら飲む!

「帰りしなに一杯りにきたというわけかい!? 図らずも、いい土産話ができそうじゃあないか!?」

 河畑が飲む!

「左様、おはんを酔いつぶしたっちゅう土産話がな!」

 時正が嘘と真をいいながら飲む! そうとも! 一刻もはやく河畑を酔いつぶし、半次郎に吉報をもたらすべし!

「……それはおかしいな?」

 不意に、河畑が声の調子を落として呟いた。

「なに?」

 時正はいましも、両手につまんだ猪口を口の前で貝のごとく合わせ、中身をまとめて吸いこむべく、ひょっとこみたいな顔をしたところであったが、そのまま止まった。止まらざるをえなかった。それまでお互い、餅つきのつき手と返し手さながらに、素晴らしい拍子で問うては飲み答えては飲んできたのに、その律動を突然崩してきた河畑へ、不審を覚えずにはいられなかったのだ。

「なにがおかしい?」

 時正は思わず問うていた。なにもおかしいところはないはずだ。自分がいった嘘も真も他愛のないものだし、そもそも河畑に、どれが嘘でどれが真かわかるはずもない。それなのに、どうして河畑の目は炯々たる光を放っているのか……

「いや……お前さん、いま、この勝負が終わったら帰るとか、帰りしなに一杯飲りにきたとかいったがね」

 河畑は右手の猪口を乾すと、畳に叩きつけるように置き、

「……いっとうはじめは、このあと物見遊山に行くといっちゃあいなかったかい?」

 と問うてから、左手の猪口を呷った。

「……そげなこつか」

 時正は安堵の吐息を一笑にかえて、

「帰りしなの物見遊山っちゅうこつじゃ。おかしかは、おはんのしたり顔のほうじゃったな!」

 と嘲った。

 しかし河畑は、例の半月みたいな目を三日月ほどに細めて微笑むだけだった。その顔に同情の色を見てとって、時正は狼狽した。おまけにどうしたことか、周りからは笑い声まで聞こえてくる。

「な、なにが……なにがおかしかか!」

「なにがって、そりゃあ……ねえ?」

 河畑は江戸っ子のひとりから折りたたまれた和紙を受けとると、開き、時正に見せた。それは江戸切絵図――地図であった。

「お前さん、ここに来る前は新橋に寄ったといっていたが……新橋から柳橋に帰るなら、ここ――麹町富士見町は通らねえぜ」

「えっ?」

 河畑の青白く細い指先が、江戸切絵図上の新橋をさす。次にその指先は、新橋の北東へ滑っていって、柳橋をさす。そして一度新橋に戻ると、反対側に跳ねて――新橋の北西の、麹町富士見町をさし、ピンと弾いた。

「………………!」

 時正は目が回る心地がした。酔いのためではない。いい逃れのしようのない嘘を吐いてしまった……否、吐かされた事実に目眩めいていた。河畑はひとつひとつの嘘を見破ろうとしていたのではなかった。問いを繰り返し、前後の答えが齟齬をきたすときを待っていたのだ……なんのために?

 ……時正の目の前の江戸切絵図が、幕のように少しずつあがってゆく。

「してみると、お前さん――別の由あって、ここに来たんじゃあないかい? そういえば……」

 江戸切絵図という名の幕は、下端が時正の目の高さに至ったとき、止まった。その下に、河畑の顔があらわれた。河畑は江戸切絵図越しに、時正の目から下を見上げながらいった。

「お前さん……どこかで会わなかったかい?」

 時正が中村半次郎の手の者か否か! 改めるために決まっている!

 半次郎は河畑を「転んでもただでは起きぬ奴」と評し、明村と時正を密偵に放った。その読みは当たっていたが、河畑のほうでも半次郎の動向を読んでいたのだ。

 そしていままさに河畑は、江戸切絵図を編み笠に見立て、「広沢真臣邸の裏手で会った、編笠をかぶった薩摩藩士ふたりの目元から下」と、「目の前の薩人の目元から下」を照らしあわせている!

 時正は俯いた。その顔を、河畑は首をかしげて覗きこもうとする。

「どしたい……もう酔いつぶれちまったのかい、おおっと!?」

 河畑はのけぞった。直後、ふたつの風切り音がしたかと思えば、まばたく間もなく、河畑の後方の壁からふたつの破砕音がした。なにが起こったかわからぬ江戸っ子たちが色めきたつ一方、河畑は、

「勝負も投げるかい?」

 と、左手の猪口を放りなげる仕草をしながらいった。時正の両手は空であった。河畑に投げたからだ。先のふたつの破砕音の正体は、河畑がかわした二個の猪口が、壁にぶつかって粉々に砕けた音だった。

 時正は俯いたまま立ちあがる。自然、河畑を見おろすこととなったが、その目はいまや屈辱と憤怒に燃えあがっていた。

「たわけめが……おいとおはんが会ったこつがあろうがなかろうが、こん勝負とはなんの関係もなか。勝負はこいからじゃ――水入りにはさせんぞ、きっと酔いつぶしてくるる!」

 時正は叫ぶや、彼の猪口に注ごうとしていた江戸っ子から徳利をむしりとり――あろうことか、口をつけて呷りはじめた!

 その喉が、太くて短い芋虫みたいに上下に蠢くこと数度……時正は、徳利を口から離しざまに投げ捨てると、瘴気を思わせる息を吐き、再び河畑を見おろした。血走った目で。

 江戸っ子たちが息を呑んで見守る中、河畑は……

「もはや問答無用――」

 彼の猪口に注ごうとしていた江戸っ子から徳利をむしりとると、同じく口をつけて呷りはじめた! 青白い喉を蛇腹のごとくうねらせることしばし……河畑は、徳利を口から離しざま放り投げると、手のひらを上にして手招きをした。

「――次じゃ!」

 時正の咆哮! 江戸っ子たちは各々徳利を抱えると、誰からともなく二列縦隊を組んだ。そして、

「……次っ!」

 時正の合図に応じて、一列は時正へ、もう一列は河畑へ徳利を供しはじめたのだ! さながら、刀狩りならぬ徳利狩りのごとし!

「次っ! ……次っ! 次ぃっ! ……次……!」

 二本、三本、四本……五本! なんたる「さけのん」! なんたる「さけのんごろ」か――しかし!

 ――こ、こやつ……何故、何故ついてこられる!?

 河畑もまた、時正に遅れをとることなく、五本の徳利を乾している。しかも、さいぜんは確かに赤いと見えた顔が、いまは青白いのだ。まるで素面……いや、酒を飲みすぎた者の顔は、まず赤くなり、しかるのち青くなる――それにちがいない……時正はそう思い直すと、乾した徳利を掲げ、

 「つ――」

 「次」と、いおうとした。けれど、いえなかった。「ぎ」の音とともに、なにかが込みあげて 漏出ろうしゅつしそうだったからだ。

 突如として、時正は目が回る心地がした。いや、実際に回っていた。目のみならず、足も踏み場を探すかのようにふらつきはじめた。

「こ、こげな……ばかな……こつが……!」

 今度は酔いのためだ。河畑、梁、徳利、江戸っ子、河畑、座布団、江戸っ子、畳――目に映るものが万華鏡のごとく回り、移ろう――徳利、江戸っ子、江戸切絵図、河畑――……

「どしたい……もう、とっくり飲んだのかい? 踊っちまって、愉快そうによ……く、く……」

 ……――河畑、河畑、河畑!

 ――飲みくらべはおいの負けじゃ……じゃが……!

 飛びまわる視界が、力尽きる振り子みたいに一点に収束されていったとき、時正は右手に持った空の徳利を振りあげながら、その一点に向かって踏み込んでいた。右足が畳を踏むと同時に、棍棒と化した徳利は一点に――河畑の頭に振りおろされる!

 そのはずだった。

「おオっ!?」

 しかるに、踏みこんだ右足は畳ではなく徳利を踏んだ。河畑がそっと転がしたものだ。時正はつるっとひっくり返り、縦に半回転したすえに顔面から畳へ墜落した。座敷が震撼し、河畑の前に立ちならんだ空の徳利が倒れて、底にわずかに残っていた液体がこぼれた。

 うつぶせに倒れた時正の舌に、こぼれた液体が触れた。その瞬間、時正は見えざる刃に貫かれたかのごとく目を剥いて、呻いた。

「こ、こいは……み、水……」

「なんと! 道理で、水のように飲めると思ったわ……誰だ? まちがえたのは?」

 河畑が膝を打ってしゃあしゃあと問えば、

「てんでわからねえ。酒も水も、見た目は同じだからねえ」

「匂いにしたって、てめえが酒臭えからわかりゃしねえ」

 と、江戸っ子たちも悪びれずに答えた。彼らの声は、あきらかな嘲りを孕んでいた。

 ――ど、どげんして……

 確かに飲みくらべをしかけてきたのは河畑だ。だが、河畑が店内の江戸っ子たちと談合した様子はなかった。しかも、酌は毎回ちがった。それなのに……

 時正がその答えを知ることはなかった。ただでさえ薩人に恨みを持つ江戸っ子たちの一部が、時正に喧嘩で負けて辛みをもつのらせた結果、生来の悪戯好きの気質を活かし、暗黙の了解のもと、各々自主的に河畑へ水を供した事実を知ることはなかった。何故なら時正は、

「まったく、江戸っ子ってやつはそそっかしくていけねえ……さて、祝杯をあげる前に――お前さんらに聞きたいことがある」

 という河畑の声を聞くや聞かずやのうちに、意識を失ったからである。

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