第31話 少年、真名と最愛

 見えたのは、寂しい一室だった。中央にはボロボロのイーゼルが一つ。絵の具やその他の画材がイーゼルの下で散乱していた。それ以外のものといえば、汚れたチェストに隅にある簡素なベッド。

 ベッドには女性が一人、横になっていた。腹部は膨れ、妊婦であることが分かる。愛しげにお腹を撫でる彼女の隣に男性が立つ。気難しい神経質な足音だった。少し苛立ちが混じっている。ちらりと見えた男性の顔は、ドラクル本人。


「本当に産むつもりか?」

「……ええ」


 女性が顔を上げた。ようやく見えた相貌に僕は目を見開く。実験室の立体絵画の女性にそっくりだった。彼女はドラクルがどうして苛立っているのか、分かっているようだ。非難がましく見下ろす彼を、女性は静かに受け止める。


「産むわ、あなた。……ねえ、この子はあなたの子でもあるのよ」

「必要ない。君さえいれば十分じゃないか。そのお腹が膨らんでいくほど……君は、ベッドから降りられなくなってる」

「それは仕方がないのよ。子どもを産むには仕方がなくて、どうしようもないことなの。今となっては」


 静かに女性はドラクルを宥める。産むな、と言うには、すでにお腹の大きさは臨月ほどではないだろうか。そうなってしまえば、中絶なんでできない。逆に今しようとしたら女性の命がもっと危ない。数年前に加熱していた中絶手術の反対運動を読んでいた母とレイチェル嬢が話していたのを聞いたことがある。中絶するかしないかはその人が決めることでしょうに勝手な人たちだこと、とマーサ夫人がそれこそ他人事のようにボヤいていた。

 ドラクルは女性が弱っていくことに対して出産を反対していたのだろう。しかし、女性は我が子を産みたいと言っている。

 二人の話し合いはずっと平行線のままだ。


 時間が進む。


 歪んだ窓の外が冷たい雨模様になったとき、陣痛を訴えた。ベッドの周りを初老の女性たち数人が慌ただしく行き交う。

 分娩に訴える女性の苦しい声、指示を出す産婆の声が飛び交い、そして──。


「……妻は、どうなった? 子ども、は……?」


 愕然とするドラクルを産婆たちが見る。その瞳には憐憫が宿っていた。なかでも若い女性が腕に抱く赤子は一泣きもせずにいる。横たわる女性は青白い顔をしていた。上下する胸の動きがだんだんと弱々しくなっている。


「ああ……あなた……あなた、あなた」


 虚げな目がゆっくりとドラクルを見た。


「ゾーイ!!」


 ドラクルの悲痛な叫びが部屋を満たす。駆け寄って、取ったその手にもう生気が感じられなかった。しっかりと握りしめる。

 必死に縋る夫に、容赦なく彼女は首を横に振る。


 もう無理みたい。


 ゾーイは夫に絶望の一言を静かに告げた。


「あなた……赤ちゃん。あなたと、私の、赤ちゃんは……」

「元気な女の子です、奥さま」


 震える声で赤子を抱く女性がゾーイに嘘を言う。泣かないぐったりとした──すでに死にかけている赤子。


「ええ、そうなの、嬉しいわ」


 嘘を分かっているのだろう。しかし、ゾーイは口元を綻ばせた。弱々しく頷く。


「聞こえるわ、元気な声で泣いてる。ふふ……ちょっとうるさいぐらい。素敵ね、あなた」

「ゾーイ……」

「あなたが一人で子育てができるかしら……」

「ゾーイ、私は、君が、君がいてくれるだけで……っ」

「……」

「ゾーイ?」


 虚ろな瞳から涙が一線、頬を伝い落ちる。


「愛してるわ、愛しているの。あなたも、赤ちゃんも……」


 僕はゾーイに近づいた。口元をジッと見つめた。ドラクルの真名を、彼女が告げることを信じて待った。

 ゾーイは僕の期待を裏切らなかった。



「愛してるわ、     」



 慟哭が響く。

 ゾーイはドラクルに看取られて息を引き取った。二人の赤子も結局一言も泣きもせずに衰弱して死んだ。

 ドラクルが一人、取り残された。

 イーゼルの前で虚しく佇む彼はただの不幸な男性にしか見えない。握りしめた絵筆の油絵具は固まって、使いようがなくなった。


 時間が過ぎる。

 蕾が花へ、花が枯れるように、早く。


 ゾーイが亡くなって随分経ったとき、ドラクルに一人の客が訪れた。未だ虚無なる日々を送る男のまま。

 客は少年だった。僕と同じぐらいの背丈のその人物には見覚えがある。


 狡猾なマンダリンオレンジの双眸の少年──ヨアン・サンチェス。


「はじめまして、哀れな人。僕はマーリン」

「……マーリン? 随分とおふざけな名前だ」


 酒瓶を手にしたドラクルがヤケクソに鼻で笑う。


「ゾーイと赤ちゃんのことは残念だったね」


 唇に酒瓶が近づこうとしていた手が止まる。空気が冷えることも構わずに、ヨアンは穏やかにドラクルを見つめ返した。蠱惑に微笑むその美貌に思わず、僕も、ドラクルも、一瞬固まった。恐らく異性愛者でも彼の笑みに動揺してしまうだろう。

 熱くなる頬を僕はさすった。

 こいつはエヴァン先生にひどいことをしたかもしれない奴だ!

 見惚れてしまうだなんて情けない!

 足音さえも立てずにヨアンはドラクルに近づき、あの豪奢な指揮棒を取り出した。軽く振ると甲高い音が指揮棒の先端から溢れてドラクルの手にあった酒瓶が割れる。


「僕と話しているときにお酒なんて、ひどいじゃあないか」


 唖然とするドラクルの顎を指揮棒で持ち上げて顔を寄せた。ドラクルとヨアンの視線が混じる。ヨアンの美貌に、ドラクルは動けぬままだった。


「取り戻したいだろう?」


 甘い囁きに目眩がする。


「だめだ! そいつの言うことなんか聞いたら!」


 僕の叫びを二人は聞かない。聞こえていないんだ。そもそも、過去の出来事は変えられない。


「奥方と子どもを、死から奪い返せるんだよ」

「ゾーイを……?」

「できるとも。さあ、立つんだ。僕が君に教えよう。君ならできる」

「できる……」


 ドラクルはヨアンの手を取った。


 二人が、周囲が、文字に融解していった。

 文字が波が引くように僕から離れていく。離れてようやく僕は現実に戻った。


「オスカー!」


 シャーロット嬢の言葉で我に返る。


「今、あなた、文字のなかに入っていったの?」


 信じられない。彼女の呟きに僕は目を瞬かせる。


「まだ死神じゃないのに、能力を発揮できているなんて稀よ」

「え……?」

「それで、どうなの? 何か分かったの?」

「……ドラクルの真名が分かりました」

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