第23話 少年、師匠と通話

 エヴァン師の声だ。

 僕の胸はどきりと大きくなって高揚した。

 一番求めていた人だ。


「ここだ、オスカー」


 なんとエヴァン師の声はあまりにも間近に聞こえた。そして辿ると目の前にいたのは、あの黒妖犬だった。真っ赤な両眼が僕へと真っ直ぐ注がれていた。


「もしかしてエヴァン……先生……?」

「半分正解だが、半分不正解だ」得意げに黒妖犬の口元が笑う。「この黒妖犬はアーネスト。私のペットだ。そして私の声を通すことができる。簡単に言うなれば電話だ。通話だよ、オスカー」

「じ、じゃあ、エヴァン先生は、ここにいるわけではない?」


 黒妖犬──アーネストが首を縦に頷いた。それを見て僕は失望する。

 

「ずっと見ていたよ。アーネストの目を通してね。魔術師の工房で君はよくやった。ウォルター・リチャード・シッカートの魂を見つけて油彩の服を脱がしたのは素晴らしい! 彼の魂を長年我々は捜していたのだよ。彼の親族が心配している」

「なんだって?」


 エヴァン師の言葉にウォルター氏が歓喜の声を上げた。誰かが自分を心配してくれるというのは、とても喜ばしいことだ。そして隣でウォルター氏は数人の名前を挙げて祈るように泣きそうになった。


「どうして今まで黙っていたんですか。僕が工房に落とされるなんて、分かっていたんですよね」

「──話せば長くなる。そんなに時間がない」


 きっぱりと、しかし、どこか拗ねたかのように聞こえた。

 いいかい、と静かにエヴァン師がアーネストを通して言葉を紡ぐ。


「そろそろ彼が帰ってくる頃合いだ。一番に狙われるのは、君だろう、オスカー。五番目の息子と呼んだからには、吸血鬼にしようと、何がなんでも君を自殺させる気だ」


 血の気が引くというのはまさにこのことではないだろうか。悲鳴にもならない声が喉奥から溢れて消える。


「だが、そうはさせない。君は我々が来るまでの間、彼から出来るだけ逃げていて欲しい」

「どうやって来るつもりですか?」


 僕が問うとアーネストからくつくつと笑う声がした。


「人の出入りがあると工房は僅かに警戒が緩むのだよ。その隙を突く。……そろそろだろうが、まだ時間はあるはずだ。少しこの部屋のなかに一緒に入ろう」


 アーネストの鼻先があのおぞましい部屋に向く。

 肩がぶるりと震えて僕はもう一度アーネストの目を見た。赤系統の違う色合いの瞳の奥から、エヴァン師の柔らかな視線が僕を包む。


「大丈夫だ、オスカー。私がいる。シッカート殿もいる。まずは深呼吸だよ」

「……はい」言われるまま大きく深呼吸をする。

「目を澄まし、耳を凝らすのだ……呼吸を出来るだけ続けて……そう、そうだ、オスカー。よくできている。さあ、行こう」


 耳許の囁きが遠くなる。黒妖犬アーネストの大きな体躯がおぞましい部屋の扉を呆気なく蹴飛ばして、悠々と入っていった。

 僕は師に言われた通りに呼吸を続けてアーネストのあとを追う。アーネストが何食わぬまま壊された油彩の扉がひしゃげて床の上に虚しく放って置かれている。

 震えていた心臓の鳴りがひそやかに鎮まろうとしていた。

 部屋のなかはウォルター氏の優しさで様変わりしていた。たくさんの子宮を納めた戸棚は優しい色合いのカーテンに包まれ、誰からの好奇なる視線を遮っていた。

 カーテン越しに僕は手を組んでささやかに祈る。なかには謝罪も込めた。見てしまったこと、そして驚いてしまったことを、亡き女性たちに。


「彼女たちの魂は見つかっていない」


 エヴァン師の方に振り向く。

 中央の数台のベッドにアーネストが注目している。

 改めて見るとベッドというよりは手術台と呼ぶ方が正しい。幅は狭く、人が一人やっと仰向けになれるほど。シーツといった柔らかな寝具はどこにもなく、硬い。

 そしてその上には必ず人がいた。布がかけられ、ただそこに。シルエットからして皆、女性だということが分かる。


「シッカート殿。この布を外してくれたまえ」

「あ、ああ……」


 エヴァン師に急かされてウォルター氏が布を剥ぎ取った。全て、と付け足されて僕も慌てて布を剥ぎ取る。全ての布の下が暴かれる。


「これは……」


 ウォルター氏の感嘆が響く。うっとりと、見惚れてしまう。

 僕も、思わず言葉を失ってしまった。




 そこにあったのは、人体だった。


 真っ白な肌──雪原の色合いに柔和な陶器。

 閉ざされた目蓋の睫毛は長く、繊細。

 筋の通った高い鼻。その下の唇は花のように可憐な赤。

 体型はルネサンス期を彷彿させる曲線美を意識したものとなっている。

 手は細く、あかぎれも怪我もない。

 髪は長く、ウェーブがかかっている。


 完璧な人体だ。

 しかし、それは本物の人体ではなかった。

 人形というものでない。模型というものでもなかった。


 よく見れば分かるのだ。


「絵の具で、できてる……?」


 ぽつりと言葉が出たと同時に、空気が重くなったのを感じた。


「どうやら鍵を開けようとしている」


 エヴァン師が冷静に告げる。


「オスカー。君の師として言うべきことがある」

「……なんですか」

「絶対に魔術師の前で死んではならない」

「え?」


 力強く言われて僕はアーネストを思わず見つめ返した。


「死ぬな」


 重たい楔のように告げると真紅の目から妖しい輝きは消えた。くぅん、と一鳴きしてただの黒妖犬アーネストに戻ってしまった。おそらくエヴァン師が工房への準備に入ったのだろう。

 我々、と言ったからにはエヴァン師ただ一人だけではない。

 そう思えば僕は安堵感に包まれた。心に余裕がやっと生まれた。アーネストの首に抱きついて、息を吐く。


「ウォルターさん。大丈夫です」


 少しだけ不安げなウォルター氏に言う。彼は眉尻を下げ、ずっと上を気にしていた。微かに手が震えている。


「オスカーくんが言うなら、そうなんだろう。その、さっきまで犬が人の言葉を喋っていたのは驚きだ……だがね、君は恐るべきだ。彼は、ドラクルは恐ろしい。私が作業室から出ているのを知ったら怒るだろうね。きっと言葉を奪うだけじゃ済まされない……」

「いいえ、いいえ。きっとさせません」


 消極的な彼の態度に不謹慎ながらも僕は腹が立った。ここで大人しくして捕まって、なんてごめんだ。

 ウォルター氏の手を掴み、部屋を出た。広間の空気は重たく、ステンドグラスの天井の明るい光が仄暗いものへと変わってきている。いつの間にか広間の壁には鉱石灯が現れ、鮮やかに灯りはじめた。

 階段の真下にぶちまけてしまった剥離剤はなくなり、ウォルター氏が落とした筆と絵の具が放置されている。どうやら筆とかはそのままのようだ。


「そ、そろそろ来るよ」


 天井を何度も見上げる。

 言葉通りに空気の重さは増していき、ステンドグラスの明るさはまるで月の満ち欠けのように動き始めた。満月からゆっくりと新月へと変わっていく。

 新月になったときが、完全に主人の帰還だ。嫌でもそうだと理解できた。

 すぐ隠れられる場所を、と僕は手当たり次第に絵画に手を伸ばす。ウォルター氏はというと天井の満ち欠けばかりを気にして、全く動こうとしない。彼の両腕には、作業室から大事そうに持ってきた一枚のキャンバス。


「ウォルターさん!」


 叫ぶように呼べば、びくりとウォルター氏が僕を見る。ようやく反応をしてくれたので安堵した。すでに僕の手には部屋であろうキャンバスを手探りで掴んである。


「ここに隠れましょう!」


 もうすぐで新月だ──。


「え、待って、待ってくれ、そこは──」


 青ざめた顔がさらに青くなるのを無視して僕はウォルター氏の手をつかんで絵画に飛び込んだ。あとをアーネストが追う。部屋から見える広間は完全に外からの明かりが消えてしまっていた。内装を確認せずに僕は入ってすぐに、入口の横の壁に背中をつけて目を凝らした。

 重たく、不機嫌なため息が聞こえた気がする。あの男が、あの魔術師が、帰ってきた。


「お、オスカーくん」


 横のウォルター氏が僕の服を弱々しく引っ張る。


「しっ。静かに!」

「だ、だがね……」

「静かに」


 ドラクルがまさしく今、目の前を通ったんだ!


 黒いローブに身を包み、目を血走らせ、忌々しく階段を味わうようにねっとりと見回しながら降りていくのを。かつての優しい美術顧問という顔はどこにもなかった。血に飢えた吸血鬼以上にひどく恐ろしい。

 それなのに。恐怖で震えているというのに、ウォルター氏は諦めずに僕の服を何度も引っ張る。


「なんですか、本当に──」


 あまりにもしつこいので振り向く。


「……あれ」


 恐る恐るとウォルター氏が部屋の奥を指差す。

 僕はその先へと視線を滑らせた。


 先にあったのは、油彩でできた異形の化け物。子を食らうサトゥルヌスを彷彿とするような凶暴な顔──口は大きく、子どもを簡単に丸呑みしてしまいそうだ。ぽっかりと開いて涎が垂れている。その大きな顔なのだが、首から下はアンバランスにも細く、蛇の体躯のようだが蛇とも言えなかった。おそらく胴体。側面からは腕が生え、ムカデとヤスデのようだった。

 とにかく大きい異形の化け物が部屋の奥、蜷局を巻いて眠っていた。

 息が一瞬止まる。


 起きるな、起きてくれるな。そのまま眠って、僕たちのことなんか視界に入れないでくれ。


「サトゥルヌス!」


 吠えるような怒号が広間から響く。階下から、ドラクルの声だ。非常に苛立っている。


「起きよ! 我が息子と画家を捜せ、サトゥルヌス!!」


 今度はもっと大きい。

 このままでは、このままでは起きてしまうではないか!


 僕たち二人と一匹は食い入るように目の前の化け物を見た。ぴくりと眉が小さく跳ねたのを見逃しはしなかった。目蓋は震えて二つの目玉が顕になり、寝惚けたように空を彷徨う。頭が持ち上がり、鼻が匂いを嗅ぎ取る動作をする。

 そして、僕たちを視界に捉えて嗤った。

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